横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

小野妹子考

小野妹子について考えた話です

 

 

日本書紀の遣隋使は

 前回までの話は、中国の歴史書『隋書』の記述によると遣隋使は、一般に考えられているように時の大和朝廷が派遣したものではなく、九州の地の王が派遣したと考えた方が納得できる、というものでした。

 

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つまり、『日本書紀』の推古天皇の御代に遣隋使を送ったという話は、全くの作り話だったということになります。

この時に派遣されたとされているのが、あの男性なのに名前に子が付き、加えて字こそ違うが「イモ」の子という、子供が一度聞いたら忘れない小野妹子になります。(おそらく、卑弥呼聖徳太子と共に、「三大日本古代史で名前の知られている人物」でないでしょか。)

もっとも『日本書紀』には、遣隋使すなわち隋に使者を送ったとは書いて無く、「大唐」に派遣したとなっています。

実際に大和政権とは関係の無い隋への派遣を無視したいことが、見え見えです。

裴世清が来たので

 ところが、『隋書』に裴世清を勅使として派遣したとあるので、話は簡単に済まなくなったのでしょう。

勅使となれば、正式な返書があるはずです。

ところが、裴世清が実際にやって来たのは、九州だったわけで、大和政権に返書があるはずもないのです。

そこでひねり出されたのが、これまた有名な、返書を百済で奪われてしまいましたという話なのでしょう。

本当にこんなことがあれば国家間の大問題ですが、その後百済に対して何らかの対応が採られたということもなさそうです。

そもそも、『隋書』にはそのような話は全く出て来ません。

とにかく、正式な返書が大和政権側に無いことの言い訳としか考えられません。

小野妹子

 さて、『日本書紀』における隋(大唐)への派遣に関する話全てが作り話とだとすると、その話の中で派遣されたことになっている小野妹子についてはどう考えたらいいでしょう。

私は、小野妹子もこのために作り出された人物ではないかと思っています。

そうではなく、当時実際に存在した人物だったとしたらどうでしょう。

小野妹子は後に「大徳」という冠位に就いたとされています。

あの「冠位十二階」の最高位です。

実在であるならば、子孫も含めた一族がいたはずです。

親書を奪われるという失態を犯すような作り話の当事者とすることは、いろいろと問題が生じたはずです。

わざわざ、作り話にそんな人物を持ってくる必然性は無いように思います。

やはり、小野妹子はいなかったのです。


被災された方々にお見舞い申し上げます。
一日も早い復興を心よりお祈り致します。


ではでは

遣隋使再考(納得編)

遣隋使について考え直した話(納得編)です。

 

 

前回とその前の話

 前回は、遣隋使に関する中国側の記録である『隋書』「東夷傳俀國傳」(以下「俀國傳」)の「俀國」という名前について考えました。

 

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一般的に「俀國」は「倭国」の書き間違いと考えられていますが、書かれた内容から考えてその可能性は低く、同様に遣隋使がそう名乗ったというのも考えにくいものでした。

『隋書』を書いた人物による意図的な使用だというのが、結論でした。

邪馬台国の位置を情報操作した陳寿と同じように、「倭国」を「俀國」(弱い国)とすることで、「隋」を徳の無い国として描くためだったと考えられるという話でした。

そのさらに前の回から、タイトルにあるように「遣隋使」について考えているのですが、前回は少し横道にそれた話になりました。

遣隋使は九州から来た

 前々回から考えている「遣隋使」についての話の最大のポイントは、普通考えるように大和政権によって畿内から派遣されたと考えるのではなく、九州にあった大和政権とは別の政治勢力から派遣されたというものになります。

 

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そう考えると、これまで違和感のあった「俀國傳」のいくつかの内容が、納得出来るものになるのです。

今回は、そのあたりを見ていきたいと思います。

王は男性

 先ず、というかこれが最も物議を醸すものなのですが、遣隋使を送って来た人物についてです。

「俀國傳」に遣隋使から聞き取ったと思しき内容が書かれているのですが、それによると遣隋使を送ってきた俀王は男で妻もあるということになっているのです。

その当時の大和政権は、女性の推古天皇の時代であり、聖徳太子が摂政ということになっています。

昔学校の授業では、その聖徳太子が中国と対等な関係を結ぶべく、例の「日出ずる所の云々」の国書を持たせたといった感じで、習ったような気がします。

その後唐からの使者裴世清からも、帰国してから推古天皇についての報告は無かったようで、女性がトップに立っているという話は最後まで出て来ません。

聖徳太子が王なのか

 俀王は男だということなので、遣隋使の使者は、聖徳太子を王として話をしたということになります。

このため、過去から色々と説が考えられることになります。

例えば、女性がトップだということを隠すためだったとか。

天皇は祭祀のトップであり、政ごとのトップは王と呼ばれ別にいて、聖徳太子が王だったのだとか。

何とか俀王=聖徳太子にしようということなのですが、遣隋使を派遣した俀王が九州の勢力の王であるならば、何も考える必要は無いではないですか。

遣隋使は、ありのままを伝えただけということになります。

阿蘇山

 これは、私的に非常に気になっていた内容なのですが、使者からの「俀國」の人や自然の情景の話の中に、阿蘇山の話が出てくるのです。

大和政権から派遣されたのであれば、なぜことさら阿蘇山の話をしなければならないのかわかりません。

このころに大噴火をして大陸にまで影響があったということもなさそうですし。

普通に考えて、富士山とかの方がよさそうな気がします。

これも、九州を中心とする勢力からの使者であれば、九州における阿蘇山の存在を考えれば納得がいきます。

やはり遣隋使は九州からやってきたと言わざるを得ないような気がします。


 今朝、新聞のTV欄を見ていて見つけました。
11時のBS11アニサマ2023」から始まって、テレビ東京系「年忘れにっぽんの歌」、Eテレ「クラシック名演名舞台2023」、TBS系「CDTVライブライブ年越しSP」と渡り歩くと、今年の音楽シーンのかなりの部分と昔の名曲を堪能出来るじゃないですか。
今、「年忘れ日本の歌」を観ながら書いています。
「紅白」は、観なくてもいいか。


 年明けは、暴飲暴食で倒れていない限り、1月7日からの予定です。
それでは皆様、良いお年を。

遣隋使再考(俀國編)

遣隋使について考え直した話(俀國編)です。

 

 

前回の話

 前回の話は、遣隋使について改めて考えてみたものでした。

 

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遣隋使に関する中国側の記録である、『隋書』「東夷傳俀國傳」の内容から、遣隋使がどこから派遣されたのかを考えました。

中国側の使者である裴世清の旅程から、畿内まで行ったとは考え難く、九州に目的地の都があったと考えらえることから、遣隋使を派遣したのは九州の勢力だったのではないという結論でした。

今回は、その結論を基に、『隋書』「東夷傳俀國傳」に見られる「俀國」という名称について考えてみます。

「俀國」について

 「俀國」という名称については、一般的には「倭国」の間違いという説が有力ですがどうなんでしょうか。

「俀國傳」が口述筆記とかで、口述者の校正も何らかの理由で出来なかったとか言うのならまだしも、そんなに簡単に間違えるものでしょうか。

そもそも「俀國傳」には、裴世清の報告から採られた部分だけでなく、『隋書』以前の歴史書から採られたと思われる「倭国」に関する記述が纏められた形で載せられています。

纏める時に、それらの歴史書で散々「倭国」の文字を見ているはずなのです。

その上で書いた「俀國傳」で「倭国」を「俀國」と間違えるとは考え難いと思うのですが。

「俀國」と称していた?

 遣隋使が「俀國」と称していたというのはどうでしょう。

九州の勢力が送ったのだとすれば、畿内の大和王朝との違いを主張するために「俀國」と称していたのが記録されたと考えるわけです。

しかしそうだとすると、隋以前の歴史書からの記述も全て「俀國」になっている点が分かりません。

もし隋側が「俀國」という名称を受け入れたとすると、以前の歴史書からの名称は「倭国」として、現状「俀國」となった理由を書く形になりそうなものです。

そういった話は出て来ません。

これも違うようです。

「俀」の意味から考えると

 ところで、「俀國」の「俀」の意味を調べてみると、「よわい」といった意味のようです。

あまりいい印象の文字ではないですね。

ということは、この時に隋に朝貢に来た国が、大した国ではないというふうに思わせたかったと言えるかもしれません。

そう思わせたかったのは、『隋書』の作者です。

これは本ブログで主張している、『魏志倭人伝』とその作者陳寿の関係と同じです。

滅んだ先の王朝である「隋」がいかに徳の無い王朝であったかを示し、それに対する現在の「唐王朝」の徳を称える形式ということです。

そのため遣隋使を送った国は、よわい「俀國」とされたというわけです。


 どこまでも正史の製作意図は、現王朝のためのものだということです。


ではでは

遣隋使再考

遣隋使について考え直した話です。

 

 

遣隋使とはなんだったのか

 遣隋使については、以前の記事で一度考えています。

 

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仏教の効力に疑問を抱いた聖徳太子が、仏教政策を採っていた「隋」から学びたいと送ったのが遣隋使だったのではないかと考えました。

今回改めて遣隋使について調べてみて、異なった解釈を思いつきました。

『隋書』の記述

 今回は、遣隋使を受け入れた「隋」の側から見てみたいと思います。

「隋」の正史『隋書』には遣隋使に関係する記述がありますが、これが結構問題を孕んだ内容となっているのです。

遣隋使が607年にやってきます。

この時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。

これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。

その報告に、旅程が含まれているのですが。

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」
引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。

竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。

その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、移住して来た人や商人などの中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。

畿内というには無理が

 その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。

日本書紀』の記述に合わせるためには、瀬戸内海沿いの十余国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。

それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。

九州での旅程より、この十余国の旅程の方が長いにも関わらずです。

それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。

ここは素直に、竹斯国から海までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。

そして竹斯国から東の海までの十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。

遣隋使を送ったのは

 結局、使者は九州から出てはいないのです。

その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。

都は九州にあったと考えざるを得ません。

つまり「遣隋使」を送ったのは大和王朝ではなかったということになります。


 『日本書紀』の記述はでっち上げということになるのですが。


ではでは

大掃除どうしてます?

大掃除をしていませんという話です。

 

 

年末恒例と言えば

 前回は、年末になると恒例となる「第九の合唱」からクラシックについて考えた話でした。

 

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年末恒例のものとしては他にも色々とあるのですが、その中から今回は大掃除の話です。

この時期になるとTVや雑誌などで、これでもかというほど掃除に関する情報があふれるようになります。

ほとんど見ているだけで、大掃除をやったような気になりそうというか、やる前からうんざりしそうですが。

大掃除やっていません

 などと他人事の様に書きましたが、実のところ個人的には10年程前から大掃除をやっていません。

あの大掃除というものは、人数を掛けられる大家族や、核家族でも若いうちにやる分には問題がないのです。

道具を取りそろえて、日にちを決めて、一気にやり終えることが出来れば、それなりに達成感もありますし、正月も改まった気持ちで迎えられるというものです。

ところが、核家族で歳を取ってくると、これがだんだん重荷になってくるのです。

それでも、なんとなくこれまでやって来たから、ということもあって最後の方はだましだましやっていました。

ところが、ある年に体力も落ちてきている上に寒風吹きすさぶ中を窓全開でやったせいなのか、インフルエンザになってしまい、年末年始を寝て暮らすことになったのを機会に、翌年から止めてしまいました。

それでも汚れは無くならない

 さはさりながら、こちらの都合で掃除を止めたからといって、汚れなくなるわけでは無いので、どうにかしなければなりません。

色々試行錯誤した結果、現在のところ落ち着いているのが、分割して攻めるという方法です。

大掃除の時に纏めてやるのが大変なのですから、それを分割して日常の中で掃除していけば、個々の負担は小さくて済むだろうという考えです。

先ず大前提として元々日常の掃除は、一週間で一回りするようにします。

全体をざっくり7つの部分に分けて、毎日そのうちの一部分の掃除をしていくわけです。

そこに、普通の掃除機と拭き掃除で行うものに加えて、大掃除の対象となるような掃除を一つ加えることにするのです。

例えばキッチンであれば、蛇口周りのカランの水垢の汚れ取りといった具合です。

毎回完璧を目指さない

 この時に大事なのは、毎回完璧を目指さないということです。

上で例に挙げたカランの水垢の汚れ取りであれば、カルシュウムなどの汚れがこびりついて、なかなか綺麗にならないことがあります。

それを、頑張って一度に綺麗にする必要はないのです。

何週か掛けて綺麗になればいいのです。

七つに分けたそれぞれの部分は週に一回ですから、年に52回掃除ことになります。

加えて、一年で52か所の大掃除対象個所を掃除することになります。

その中で綺麗になればいいのです。

何回かやっていると、どれくらいが毎日の掃除の中で負担にならないか分かってきます。

一年で綺麗になればいいと思ってやるということです。

一度綺麗になると、次からは簡単になるということもありますので、だんだんと楽になっていくはずです。

年末の達成感は無くなりますが、その代わりやらなければいけないという切迫感もなく平和に過ごせますよ。


 一週間で回らないような大きな家に住んでいる場合は、対象外ですので悪しからず。


ではでは

クラシックとは

クラシックについて考えた話です。

 

 

年末の第九

 今年も12月になってしまいました。

あっという間にまた年末になってしまったのですが、年末になると、恒例のと頭につく行事がいくつも思い浮かびます。

第九の合唱というのも、いくつもある年末の風物詩の一つと言っていいでしょう。

それ以外にも、年末年始にはクラシック関係の行事、番組が多いように思います。

と、分かったような振りで入っていますが、個人的にはクラシックってよく分からないんですよね。

漠然と、昔の西洋の音楽というぐらいでしょうか。

クラシックとは

 改めて調べてみると、

バロック音楽古典派音楽、ロマン派音楽に当たる1550年頃から1900年頃の音楽であるが、それ以前のものも、それ以後のものも、同じ流れに属する音楽は今日あわせてクラシック音楽と呼ばれることが多い。また、古典派時代の宴席用音楽、ロマン派時代のウインナワルツなど、純粋に観賞用としてつくられたわけではない実用音楽も、今日ではクラシック音楽と呼ばれている

引用元:クラシック音楽 - Wikipedia

 

クラシックとは結局のところ、16世紀から19世紀を中心とした時代に様々な地域で流行した西洋音楽の集まりといったところでしょうか。

演歌も

 ところで個人的には演歌な人なのですが、演歌も日本という地域で、戦後になってから流行った音楽と言えるかと思います。

演歌が、極めて日本的な音楽であることは確かです。

しかし、海外で全く聞かれていないかというと、そんなこともありません。

よく、海外の人による演歌のコンテストなんかも行われているように、意外と知られているようです。

やはり、音楽は世界共通の言語なのでしょうか。

とはいっても、海外の人が驚くほど上手に「舟歌」を歌っても、どこか違うなと思ってしまうのですが。

音楽的な技巧だけではない土地に根差したようなものが、そこにはあるということでしょうか。

日本人によるクラシックは

 上で見たように、クラシックもある地域のある時代に流行ったものであるのならば、同じようなことが言えるのではないでしょうか。

どれだけ楽譜通りに上手く演奏しても、作られた地域の人たちが聞くと、何か違うと思うということはないのでしょうか。

毎年のように日本人の演奏家が、世界各地のコンクールで入賞したというニュースが流れます。

勿論、そのテクニックは間違いのないものでしょう。

その上で、その地域以外の出身者の演奏はどう捉えられているのしょう。

海外の人の演歌を聞く時のような感じなのでしょうか。

日本人を含むその地域以外の人による演奏は、上手いけどどこか違うと思われているのかもしれません。

例えば、ブーニンショパンは、上手いけど違うと思われたような気がするのですが。

そうなると、日本人は、クラシックを本当に分かるということは出来無いのかもしれません。(そんな必要はないのかもしれないですが。)


 やっぱり日本人には演歌だ、という話でした。


ではでは

酒は百薬の長

「酒は百薬の長」から考えた話です。

 

 

「酒は百薬の長」

 お酒に関しては、飲んでいると頭が痛くなるので量もそれ程飲めないですし、若い頃はともかく今では付き合いで飲む程度になってしまいました。

なので、「酒は百薬の長」という言い方に関しては、所謂飲兵衛の言い訳だろうぐらいに思っていました。

改めて調べてみると、この言葉の由来は中国の歴史書漢書』にあるようです。

その中に、「塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本」という形で出てくるようです。

ただしこの文言は、その時の皇帝が、塩、酒、鉄を専売にする時に、その理由として挙げられたもののようです。

これでは、本当に当時の社会で「百薬の長」だと思われていたのかは、断言できなさそうです、

最も、当時から専売にするほど酒も需要があったことは確かなようです。

取れるものからは、しっかりと取るというのは、今も昔も変わらないということです。

「よろずの病は酒よりこそ起れり」だが

 たまに、「酒は百薬の長」と言う飲兵衛に対して、「よろずの病は酒よりこそ起れり」といった意味の文言で返されることがあります。

上手いことを言うなと思っていましたが、これの原典は吉田兼好の『徒然草』の「百薬の長とはいへど、よろずの病は酒よりこそ起れり」というもののようです。

やはり、昔から飲兵衛の言い訳だと思っていた人が多かったのでしょう。

それでも、現代にいたるまで「酒は百薬の長」という文言が生き残っているということの背景には、飲兵衛が絶えていなくならないということのほかにも何か理由はないのでしょうか。

飲酒の効能

 飲酒量と死亡率との関係を調べた研究によると、「飲酒をする人」は長生きとするものもあるようです。

これはと思うのですがよく調べてみると、「全くお酒を飲まない人」や「大量に飲む人」に比べ、「適量の飲酒をする人」は長生きするということのようです。

結局、この「適量」というのがポイントになりそうです。

「適量」ならば体にはよさそうですが、過ぎれば悪影響があるということです。

現状では、悪影響の原因は摂取するアルコールの量にあると考えられており、それから逆算したお酒の「適量」というものが提唱されています。

「日本酒で1日1合から2合」、「ビールなら大びん1本から2本」とか言われています(飲兵衛には、つらい量なんでしょうね)。

アルコール以外の成分が

 アルコールは体に悪いのですが、その他の成分(例えば日本酒だと700種類と言われています。)が体にいいということでしょうか。

しかし「適量」のアルコールで済ますのは難しい。

この矛盾を克服できそうな方法に思い至りました。

酒粕」を食べるというのはどうでしょう。

酒粕」は日本酒を絞った残りです、すべての成分が絞り出されるとは考え難く、日本酒に入っている成分+αが含まれていると思われます。

アルコール濃度は低く、さらに料理で加熱することで飛んでしまいます。

これでアルコールの量を気にせずに、体にいい成分を取れそうなのですが。

まあ、そんな理屈をこねなくても、酒粕鍋はおいしいのですが。


 酒粕鍋をつついている時に思いついた話でした。


ではでは

芸術としての写楽

芸術としての写楽について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事では、写楽の謎について考えました。

 

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その独特なインパクトの強い大首絵で有名な写楽ですが、10か月という短い活動期間と、その間に4期に分類されるほどの作風の変化という点から、謎の絵師としても有名です。

浮世絵の絵師と版元の関係と、現代の漫画家と編集者の関係の類似性から、写楽は現代の新人漫画家のような存在だったのではないかと考えました。

蔦谷重三郎という編集者(版元)に見いだされて、大首絵でデビューしたのですが、人気が出なかった。

その後様々なテコ入れ行われ、それがが2期から4期までの作風の変化となったのです。

それでも人気は上がらず、残念ながら10か月で打ち切られてしまったというのが、写楽の謎の正体だという話でした。

早かったのか

 その芽が出なかった写楽ですが、現代では高い評価をされています。

2009年には、パリのオークションで写楽の作品に5360万円の値段が付きました。

江戸時代に10か月で消えていった程評価されなかった写楽が、現代にこれほど評価されているのはどうしてなのでしょう。

生まれてくるのが早すぎ、今になって時代が追い付いてきたということなのでしょうか。

浮世絵のブーム

 評価という点では、その他の浮世絵も同じようなことが言えます。

明治時代になっても、浮世絵はポスターのような扱いであり、道端の露店などで「よりどり1銭」で売られていたようです。

最近の古本屋の店頭にある「100円均一」のワゴンセールのようなものでしょうか。

ところが19世紀初めごろから西洋に大量に輸出され、ヨーロッパでブームが起きたことが転機になり、価格が高騰し始めます。

ヨーロッパで、浮世絵が高額で取引されていたので、国内でも高騰したのです。

写楽もこの流れに乗ったといってもいいでしょう。

写楽が早かったわけではなさそうです。

芸術ではあるが

 ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが『SHARAKU』(明治43年(1910年))の中で高く評価したことから、日本国内でも写楽の再評価が行われるようになったようです。

これは結局のところ、以前の記事で描いた、「説明の必要な芸術」と言えるかもしれません。

 

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また、浮世絵は版画ですから、現代でも素人目には違いが分からないような再現複製が作られています。

その値段は、数万円程度となっています。

パリのオークションでの5360万円という結果と合わせて考えると、写楽も「市場経済的芸術」であるということが出来るかもしれません。

 

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 大谷さんは1014億円ですか。彼も、そのすごさは芸術的ということで、「市場経済的」な何かなのでしょうね。


ではでは

 

写楽の謎考

写楽の謎について考えた話です。

 

 

写楽の謎

 写楽と聞くと、どうしてもその正体は誰なのかという話になりがちです。

それもこれも、写楽が約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消したしまったという、いかにもミステリー好きにはたまらない謎があるからなのですが。

しかも、単に10か月という短さだけではなく、その間に4期に分類されるような、作風の変化があったという点も、謎に拍車をかけています。

このことから、複数作者説まで唱えられているほどです。

4期の変遷

 その4期の作風の違いを見てみましょう。

先ず1期ですが、これは写楽と言えばこの絵というぐらい有名な、大首絵ということになります。

引用元:謎の浮世絵師・写楽の絵の変遷と代表作はこれだ | 歴史上の人物.com

(以下4期まですべて同じ)

2期になると、一転して全身像となります。

3期では、役者絵もありますが相撲絵も手掛けるようになります。

最後の4期では、1期のような大判はなくなり細版のみとなります。

10か月の間にこれほど作風が変われば、複数説が出てもおかしくないかもしれません。

漫画家と編集者

 これらの写楽の浮世絵は、蔦谷重三郎という版元から売り出されています。

当時の版元というのは、絵師が描いた絵を、版画にして浮世絵として売り出すだけではなく、どんな絵を誰に書かせるかといったことも含めて行っていたようです。

今でいうと、写楽と蔦谷重三郎は、新人の漫画家と漫画雑誌の編集者ということが出来るかもしれません。(あくまでも、私がTVなどで見聞きしたイメージに基づいています)

編集者の重三郎が、新人の写楽を発掘し、売り出したということです。

売り出してはみたが

 写楽の大首絵を面白いと思った重三郎は、大首絵を大判として売り出すことにします。

つまり、雑誌への連載が決まったということです。

売り出してはみたものの、思ったほど人気が出なかったのです。

大田南畝の『浮世絵類考』には、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」とあるようです。

素顔を書きすぎて、ブロマイドとして今一つだったということでしょうか。

そこで、重三郎は路線の転換を図ります。

それが2期の全身像ということになります。

しかしこうなると、他の浮世絵と差別化が難しくなり、やはりあまり人気が出なかったのでしょう。

その後も、3期(相撲絵!)、4期とテコ入れが続きますが、とうとう新作の発売はなくなってしまいました。

連載打ち切りになったのです。

写楽の正体は

 結局、写楽は新人の浮世絵師であり、4期に渡って試行錯誤をしたが、人気が出ることなく消えていったということになります。

そのため、10か月という短期間であれほどの作風の変化があったのです。

その正体は、『増補浮世絵類考』にあるように、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛ということでしょう。

おそらく、絵を好きで描いていた斎藤十郎兵衛が、蔦谷重三郎のところへその作品を持ち込んで、重三郎が面白いと思ったのです。

デビュー出来たものの浮世絵師になりたいという夢は、残念ながら10か月で潰えてしまったというわけです。


 その写楽が、こんなにも現代で有名になろうとは、早すぎたのでしょうか。


ではでは

戦の無い世の中

 「戦の無い世の中」について考えた話です。

 

 

今年は家康

 今年の大河が家康の話なので(個人的には、第一話を見てドロップアウトしてしまいましたが)、NHKを中心に戦国時代が取り上げられることが多いです。

その中で、そこかしこで出てくるのが「戦の無い世の中」という言葉と、それに類する考え方です。

戦国大名を語るときに、その行動原理として、「戦の無い世の中」を目的として挙げられることがすくなからずあるのです。

信長、秀吉の後を継いで、最終的な解決者が家康というわけです。

本当にそうなのか考えてみます。

信長の場合

 信長の場合は、道半ばで本能寺で討たれてしまったので、最終的にどのような世の中を目指していたのかについて、はっきりとしたことは分かりません。

しかし、本ブログでは、様々な状況証拠から、信長が畿内を中心とする中央部を織田一族で固めようとしていたと考えています。

 

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天下統一を目指していたのではないのです。

あの有名な「天下布武」も、現在では、「天下」が畿内を表していると考えられています。

上の記事でも触れていますが、1850年石山本願寺との講和で、「天下布武」を成し遂げたと考えていたと思われるのです。

その後の戦は、周辺地域を親織田の勢力で固めるためのものだったのです。

その途上で本能寺があったわけです。

の分がの目指したのは、「戦の無い世の中」ではなく、織田家の存続する世の中だったのです。

秀吉の場合

 秀吉は、途中で殺されることもなく、天下を統一し関白にまで上り詰めます。

その後、刀狩りなども行っており、これはと思わせる点もないではありません。

しかし、そのあとに行なったのは、ご存じ朝鮮出兵です。

「戦いの無い世の中」を目指していたとは思えません。

そして死に際して残したといわれているのが「太閤様覚書」です。

11か条からなりますが、そのうちの9か条は、息子の秀頼に関する内容です。

関白という地位にありながら、結局は天下国家ではなく豊臣家のことが最大の関心事だったのです。

家康の場合

 家康も、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を統一しました。

さらに、その後に矢継ぎ早に、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」を策定し、幕府の体制を造り上げます。

一見、これはと思わせますが、これらは徳川家に対する反対勢力の力を削ぐという目的があったとも考えることが出来ます。

天下国家を考えていたわけでは無かったのではないでしょうか。

そのことは、これもまた家康の遺言に見ることが出来ます。

「遺体は駿河国久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)
引用元:久能山東照宮|静岡

 

これにより、日光東照宮が作られることになったわけですが、問題は最後の文言「八州の鎮守になろう」です。

ここでいう「八州」とは、所謂関八州のことであり、関東地方と考えていいでしょう。

つまり、江戸とその周辺を守るといっているわけです。

やはり、徳川家を存続することが目的だったと言えそうです。

「家」の存続が第一

 結局のところ、信長、秀吉、家康いずれも、「戦の無い世の中」を目指していたわけでは無く、それぞれの「家」の存続こそが第一だったのです。

それを目指していった先が江戸幕府で、結果として戦の無い時代が続いたのであり、それを目指したわけでは無かったのです。

それを後世、「戦の無い世の中を目指した」と美化したのか、そう思いたかったのか、時代の要請なのかは分かりませんが、造り上げられた虚像なのだと思います。


 やはり、死に際しては本音が出るものなのでしょうか。


ではでは

「前哨」から

小説「前哨」から考えた話です。

 

 

2001年宇宙の旅

 SF作家のアーサー・C・クラークの小説に「前哨」という短編があります。

映画「2001年宇宙の旅」の基になった作品になります。

宇宙の旅では、あの有名な「モノリス」が月で発見されたことが、ことの発端となります。

掘り出されて太陽光を浴びることにより、「モノリス」から信号が木星方向に向けて発信されます。

モノリス」は、人類が地球の重力の井戸の底から抜け出て、月に到達出来るまでになったことを知らせるセンターだったのです。

「前哨」

 それに対して、小説「前哨」では、月に着陸した宇宙飛行士が、小型のピラミッド状の物体を月面上で発見することで、宇宙の彼方へ信号が発せられるという話になっています。

「ピラミッド」型の物体がセンサーというわけです。

この「前哨」が書かれたのは1948年であり、あのケネディ大統領が、月に人間を送り込むと宣言する13年も前でした。

その先見の明は、さすがにSF作家の面目躍如といったところでしょうか。

文明のレベル

 さてこれらの作品の根底に流れているのは、人類の文明は進化を続けるものであり、生まれ育った地球の重力のくびきから解き放たれる時が、次なる文明のレベルへの一歩だという考えです。

それをチェックするためのセンサーが、月に置かれているというわけです。

なるほどと思う点もないわけではないですが、現実には1969年に月の人類が降り立って以降半世紀以上経っていますが、いまだそれに対する宇宙からの挨拶はないようです。

最も、我々が知らされている限りにおいては、宇宙飛行士が月で何らかの人工物のようなものを見つけたという話もないのですが。

もう一つのトリガー

 ところで、文明のレベルについては、以前い記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

人類の文明レベルは、太陽との関係で考えることが出来るのではないかというものです。

先ず太陽からの影響、すなわち気候変動に影響される段階が長くありました。

次に、過去の太陽エネルギーともいえる石炭・石油を用いて、季節変動か受ける影響を小さく出来るようになった段階になります。

現在は、太陽光、風力などの利用により太陽エネルギーを積極的に利用する段階の入り口にあると考えます。

そして、太陽を作りだすともいえる核融合を実用化する時が、次なる段階に上がる時なのではないかという話でした。

私的には、この核融合が実用化された時に何らかの動きがあるのではないと思っているのですが。


まあ、空を飛び回っているらしいものが、挨拶なのかもしれないですが。


ではでは

ダイヤモンドの輝き

ダイヤモンドについて考えた話です。

 

 

ダイヤモンドの輝き

 ダイヤモンドというと、すぐに思いつくのは高価だということでしょうか。

希少性によるところももちろんあるのでしょうが、宝飾品としての価値もあるということになっています。

特に、特徴的なブリリアントカットの形状から生まれる輝きに言及されることが多いように思います。

 

引用元:ブリリアントカット - Wikipedia

リリアントカットと言うそうで、ダイヤモンドの輝きを最大限に活かす形状だそうです。

この輝きが、他にはない素晴らしいものなのだそうです。

イミテーションダイヤモンド

 一方で、イミテーションダイヤと呼ばれているものがあります。

キュービックジルコニア、モアッサナイトなどがあり、外見はダイヤモンドによく似ています。 

引用元:コラム記事|【ajour】ジュエリーリフォーム専門店

少なくとも私には、区別がつきません。

勿論、違う物質なので、比重や屈折率などの物性は異なっており、それを利用した判別用の機器が作られています。

ということは、そういったもので区別しなければいけないほど、
見た目はそっくりだということです。

普通に宝飾品として身に着けている時には、どちらか区別することは、難しいのです。

ちなみに、価格的には、天然ダイヤモンドの100分の1程度のようです。

人工ダイヤモンド

 さらに、最近では人工ダイヤモンドというものも出てきました。

これは、ダイヤモンドを科学的な方法で作ったもので、物理的には天然ダイヤモンドと全く同一のものです。

つまり、区別出来るかどうか以前の問題なのです。

同じ形状にすれば、同じように輝くはずです。

ちなみに、こちらの価格は、天然ダイヤモンドの10分の1程度だそうです。

結局ダイヤの価値は

 イミテーションや人工のダイヤモンドの例を見ると分かるように、ダイヤモンドの価値に、その輝きなどの外観は関係ないことが分かります。

天然であろうと、イミテーションであろうと、人工であろうと、どれを身に着けていても、一見すると区別はつかないのです。

あと残るのは、希少で高価なものを身に着けていると思って見る世間の眼と、それを意識する本人の気持ちでしょうか。

結局ダイヤモンドの価値も、市場経済的なもののひとつなのです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 そういえば、「婚約指輪は給料三か月分のダイヤモンド」も、「スイートテンダイヤモンド」も、いずれもダイヤモンドを売るために考え出されたものですから、やはり市場経済的ですよね。


ではでは

最近のマイブーム

最近のマイブームについての話です。

 

 

最近のマイブーム

 ここしばらく、Web小説を読むのがマイブームになっています。

所謂、「なろう」とか「カクヨム」といったサイトに投稿されているものです。

その中でも、ファンタジー系のものを中心に読んでいます。

年金を貰うような歳になっても、精神年齢は低いままだといわれそうですが、まだまだ精神的に柔軟さを失っていないということで間違いないでしょう(たぶん)。

SF読みにとっては、比較的馴染みがある設定が多く、とっつきやすいというのもあるかもしれません。

異世界転生に備えて

 残りの人生も少なくなってきたので、ファンタジー系の定番ともいえる異世界転生に無意識に惹かれているということは、あるかもしれないです(ドラゴンと戦いたくはないが、魔法は使ってみたいかも)。

ひょっとして実現するかもしれないので、その時のために色々準備しておくのも、いいかもしれません。

とりあえず、基本的な学力については、小学校卒業程度で十分なようである。

なぜか、貴族のような支配者層に転生しても、四則演算が出来るだけでOKのようである。

剣と魔法については、すぐにどうにか出来るものではないので、転生時にスキルを貰えることを期待することになります。

ケチャップとマヨネーズ

 次になくても問題はないが、あったら多くの場合良い方向に事態が進展するのが、料理の能力です。

多くの異世界では、料理がそれほど発達していません。

肉料理も、焼く料理が中心のことが多かったりします、しかも味付けは塩が基本です(そんなバカなとも思いますが、異世界ですから)。

米も食べられていないことが多いです(家畜用として存在していることが多い)。

そのため、基本的な料理が出来るようにしておくべきでしょう。

特に日本食インパクトが強いようです。

さらに、基本的な調味料、特にケチャップとマヨネーズの作り方は押さえておくといいかもしれません。

主人公は、ほとんどの場合これらの作り方を知っています。

多くの異世界で、これらのものは驚きをもって迎えられるでしょう。

完結していないものも

 冗談はこれくらいにして、ここからは、Web小説をいくつか読んで自分について分かったことを少し書きたいと思います。

ここまで200程の作品を読んでみたのですが、最後までたどりついたのは数えるほどしかありません。

それには2つ程理由があります。

一つは、完結していない作品が比較的多いということです。

勿論、現在書き進めている途中というものもありますが、途中で更新の止まっているものが、想像以上に多く見受けられます。

これは、完結することが義務付けられているわけではないので、しょうがないといえばそれまでですが、面白い話も多いので残念です。

やっぱり理屈好き

 もう一つは、途中で読むのを止めてしまうことが少なくないのです。

これには、作品の内容がどうこうというより、完全に私側に責任があります。

特にいわゆるチート物と呼ばれる、主人公が特別な能力を与えられて最強となるような作品の時に、そうなりがちです。

最初から最強というのは勿論ですが、最初は弱い主人公が試行錯誤の後に最強になっていくという成長ものでも、いずれも最強になった時点で面白くなくなってしまうのです。

最強になった後も、話は続いていくのですが、それには食指が伸びません。

どうしてそうなのか考えてみると、どうやら最強になっていくまでの試行錯誤、もっと言うとその過程を説明する理屈が面白いということのようなのです。

なので、最強になった後に、様々な強敵を打ち破っていくのは、当たり前すぎてどうでもいいのです。

やっぱり私は理屈をこねるのがすきなようです。


 それにしても、小説でマヨネーズとケチャップの作り方を知ることになるとは思いませんでした。


ではでは

もう一つの芸術論

 「芸術」について考えたもう一つの話です。

 

 

少し前の記事

 少し前の記事で、芸術音痴であることを棚に上げて、芸術論もどきを書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

かいつまんで言うと、理屈抜きで「すごい」と思わせるのが理想ではないかというものでした。

美しい景色、例えば富士山を見た時を考えてみます。

この時に、特に富士山が過去にどのような噴火をして今の形になったとか、今日に至るまでにどのように信仰の対象となって来たのかとか、世界遺産になるまでの経緯などといったことを知らなくても、見た瞬間「すごい」と思うはずです。

勿論、知っていて悪いことはないわけですが、本質はそこではないのではないかということです。

今回は、もう一つの「芸術」についての話です。

贋作の話

 TVで贋作についての番組を観ました。

その中で、伝説の贋作師と呼ばれた人物について触れられていました。

私がそうだったのですが、一般に贋作と聞いて想像するのは、本物そっくりに作られた偽物ではないでしょうか。

それを本物だといってだますのです。

とは言っても、あまりに有名な作品、例えば「モナ・リザ」などでは、その在処は誰でも知っているわけで、それの偽物を売りつけることは普通出来ないという問題があります。

しかし、伝説と呼ばれる彼の手口は違いました。

伝説の手口

 専門家には知られていても、一般にはそれほど有名でない20世紀の作家をターゲットとします。

そして、そのターゲットの創作歴を調べ上げ、その中で描いたかもしれない様な作品を作り売り出すのです。

いかにもターゲットが描いていそうな偽物というわけです。

それを売るにあたって、その作品の周辺の物語も造り上げ、仕上げにそのターゲットの専門家にお墨付きをもらうのだそうです。

そういった手口で、まんまと世間は騙されました。

今でも少なくない美術館に、彼の作品がほかの画家の作品として飾られているようです。

偽物と分かったのは

 彼の犯行が露見したのは、作品の部材や絵の具などの精密な科学分析によってでした。

つまり、絵画の専門家の眼は、その違いを見分けることが出来なかったのです。

そう考えると、贋作師の描いた偽物と本物の芸術的な違いはなかったと言えないでしょうか。

何しろ、専門家が見ても、本物との間に差はなかったわけですから。

おそらく、偽物と判明するまでは、専門家も含めて様々な美辞麗句で芸術的な点を説明していたはずです。

それが、偽物と分かった以降は、贋作だという以外には一顧だにされなくなったのです。

つまり、その絵の「すごさ」といったもの以外の尺度の芸術性があり、現代ではその方が重要なのです。

最近のオークションの結果を見ると、金銭的には確かに「すごい」ということが言えるのかもしれません、贋作と分かるまでは。


 こういったものを「市場経済的芸術」と呼ぶというのはどうでしょう。


ではでは

ベーシックインカムと売上税

ベーシックインカムと売上税について考えた話です。

 

 

基本的な生活を

 本ブログでは、基本的な生活が保障されることにより、現代の問題の多くは解決できるのではないかと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

農耕文明のはずの現代で、生きていくための基本的なものも含めて、すべてが貨幣経済に組み込まれて、生きにくさにつながっているのではないかと思うのです。

そこで、基本的な生活を心配しなくても良いようにすれば、本当にやりたいことに向き合うことの出来る人生になるのではないかというわけです。

こういった話で出てくる話に、ベーシックインカムというものがあります。

どれだけ必要か

 身も蓋もない言い方をすると、国民全員に毎月一定額のお金を支給することで、基本的な生活を保障しようというのがベーシックインカムです。

例えば一人当たり10万円を毎月支給するとします。

人口を一億人とすると、毎月必要な額は、10万×一億で10兆円になります。

一年では、120兆円が必要になります。

そんな太っ腹なことが出来るのかを、これもちょっと前の記事で出て来た売上税で考えてみたいと思います。

売上税で考えると

 売上税の考え方は、とにかく売り上げが発生したら、それに対して一定の税率で税金を掛けることにするというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時に給与に関しても、労働力という商品の売上と考えることにします。

令和2年の企業等の売上高は1693 兆円と給与の総額219兆2,054億円を合計した、1912兆2054億円が課税の対象となります。

同年の税金徴収額104兆9755億円を計算上約5.5%の税率で賄える、という話でした。

この考え方で行くと、120兆円は約6.3%ということになります。

計算上は出来そうだ

 単純に足すと、約11.8%ということになります。

ただし、ベーシックインカムで毎月10万円を支給するわけですから、生活保護、年金などの社会保障の一部は、これで代替できることになります。

その分は税金として徴収する必要はなくなりますので、実際にはもう少し税率は低く、10%以下なると思われます。

これは、意外といけそうな気がするのですが。


 年金を貰う歳になって、それほど生活に心配がなくなっても、何もしないでいるというのは意外と出来ないことが分かりました。
ベーシックインカムのせいで労働意欲が低下する心配は、意外とないような気がします。


ではでは