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信長の終活をもう少し詳しく

 信長の終活をもう少し詳しく考えて見た話です。

 


前回より

 前回の記事で、信長は、本能寺の変の直前には、全国制覇ではなく、自ら亡き後の織田政権の有り方を決めるべく、終活を行っていたのではないかという話をしました

 

yokositu.hatenablog.com

 

その話は、主に本能寺の変の起きた当時の、信長配下の武将の状況から思い付いたものでした。

その各武将の配置図を、もう一度見て下さい。

 

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引用元:真田丸・本能寺の変時点での織田家武将配置 : 永遠日誌


各武将の配置から、中央部に織田一族、その周辺に配下、および同盟者の武将という将来像を意図していたのではないかと、思い付きで考えたわけです。

最終的な結論は変わらないのですが、信長が、将来像を思い付き、終活を始めた辺りの事を、当時の状況も含めて、もう少し細かく考えて見たいと思います。

石山本願寺

 先ず、柴田勝家羽柴秀吉の両武将は、織田家の将来像に基づいて派遣されたわけでは無いという事です。

柴田勝家は、石山本願寺に対抗する一貫として、加賀一向一揆に対して侵攻したもので、一向一揆側についた、上杉氏とも対峙することになりました。

羽柴秀吉は、石山本願寺に援軍を送っていた、毛利氏の中国攻めに派遣されたものとなります。

それぞれ、各方面の、石山本願寺に味方する敵対勢力に対して手を打った結果だったという事です。

結果として、将来像にぴったりな位置にいたという事になります。

ただし、この時点では、中国攻めには明智光秀は派遣されておらず、山陽道を秀吉、山陰道を光秀という構想は無かった事が分かります。

天下布武」の達成と将来構想

 その結果、秀吉による中国攻めは続いているものの、1580年石山本願寺との間に講和がなります。

これにより五畿内を天下とする「天下布武」が、達成されたと考えたのではないでしょうか。

翌年1581年には、京都御馬揃えのような力を誇示するイベントをやっていることを見ても、当面の目標を達成したと考えていたように思えます。

更に、その同じ年に、四国の長宗我部元親に、それまでの「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」との朱印状の替わりに、「土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよ」との趣旨の新たな朱印状を出します。

どうやら、この辺りで将来像に関して、考えたように思えます。

即ち、かつての室町幕府にならって、織田家と各地の有力大名による連合政権のようなものを考えている時点では、四国を長宗我部氏に任せるというのは、特に問題の無い政策だったはずです。

しかし、中央部を織田一族で固めるという事になると、四国を任せるという事は、淡路を通して、まるで喉元に短刀を突き付けられているように感じられたのだと思います。

そのため、長宗我部元親に譲歩を求め、受け入れられなかったので、神戸信孝に命じて四国を攻める事にしたのだと考えられます。

加えて、尾張、美濃の隣の甲州武田氏も、同様に危険な存在と考えられ、1582年甲州征伐となったという事になります。

征伐後、その最前線に滝川一益を当て、東海道を担当させるつもりの徳川家康に、東側の駿河国を与える事にしたのも、説明がつきます。


そうなると、山陰道の光秀はどう考えれば良いでしょうか。
中国地方は、秀吉だけでも問題ないように思えます。
そのことと、本能寺の変に関係が無くも無い気がするのですが、そのあたりは回を改めましてという事で。


ではでは