遣隋使について考え直した話(俀國編)です。
前回の話
前回の話は、遣隋使について改めて考えてみたものでした。
遣隋使に関する中国側の記録である、『隋書』「東夷傳俀國傳」の内容から、遣隋使がどこから派遣されたのかを考えました。
中国側の使者である裴世清の旅程から、畿内まで行ったとは考え難く、九州に目的地の都があったと考えらえることから、遣隋使を派遣したのは九州の勢力だったのではないという結論でした。
今回は、その結論を基に、『隋書』「東夷傳俀國傳」に見られる「俀國」という名称について考えてみます。
「俀國」について
「俀國」という名称については、一般的には「倭国」の間違いという説が有力ですがどうなんでしょうか。
「俀國傳」が口述筆記とかで、口述者の校正も何らかの理由で出来なかったとか言うのならまだしも、そんなに簡単に間違えるものでしょうか。
そもそも「俀國傳」には、裴世清の報告から採られた部分だけでなく、『隋書』以前の歴史書から採られたと思われる「倭国」に関する記述が纏められた形で載せられています。
纏める時に、それらの歴史書で散々「倭国」の文字を見ているはずなのです。
その上で書いた「俀國傳」で「倭国」を「俀國」と間違えるとは考え難いと思うのですが。
「俀國」と称していた?
遣隋使が「俀國」と称していたというのはどうでしょう。
九州の勢力が送ったのだとすれば、畿内の大和王朝との違いを主張するために「俀國」と称していたのが記録されたと考えるわけです。
しかしそうだとすると、隋以前の歴史書からの記述も全て「俀國」になっている点が分かりません。
もし隋側が「俀國」という名称を受け入れたとすると、以前の歴史書からの名称は「倭国」として、現状「俀國」となった理由を書く形になりそうなものです。
そういった話は出て来ません。
これも違うようです。
「俀」の意味から考えると
ところで、「俀國」の「俀」の意味を調べてみると、「よわい」といった意味のようです。
あまりいい印象の文字ではないですね。
ということは、この時に隋に朝貢に来た国が、大した国ではないというふうに思わせたかったと言えるかもしれません。
そう思わせたかったのは、『隋書』の作者です。
これは本ブログで主張している、『魏志倭人伝』とその作者陳寿の関係と同じです。
滅んだ先の王朝である「隋」がいかに徳の無い王朝であったかを示し、それに対する現在の「唐王朝」の徳を称える形式ということです。
そのため遣隋使を送った国は、よわい「俀國」とされたというわけです。
どこまでも正史の製作意図は、現王朝のためのものだということです。
ではでは