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写楽の謎考

写楽の謎について考えた話です。

 

 

写楽の謎

 写楽と聞くと、どうしてもその正体は誰なのかという話になりがちです。

それもこれも、写楽が約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消したしまったという、いかにもミステリー好きにはたまらない謎があるからなのですが。

しかも、単に10か月という短さだけではなく、その間に4期に分類されるような、作風の変化があったという点も、謎に拍車をかけています。

このことから、複数作者説まで唱えられているほどです。

4期の変遷

 その4期の作風の違いを見てみましょう。

先ず1期ですが、これは写楽と言えばこの絵というぐらい有名な、大首絵ということになります。

引用元:謎の浮世絵師・写楽の絵の変遷と代表作はこれだ | 歴史上の人物.com

(以下4期まですべて同じ)

2期になると、一転して全身像となります。

3期では、役者絵もありますが相撲絵も手掛けるようになります。

最後の4期では、1期のような大判はなくなり細版のみとなります。

10か月の間にこれほど作風が変われば、複数説が出てもおかしくないかもしれません。

漫画家と編集者

 これらの写楽の浮世絵は、蔦谷重三郎という版元から売り出されています。

当時の版元というのは、絵師が描いた絵を、版画にして浮世絵として売り出すだけではなく、どんな絵を誰に書かせるかといったことも含めて行っていたようです。

今でいうと、写楽と蔦谷重三郎は、新人の漫画家と漫画雑誌の編集者ということが出来るかもしれません。(あくまでも、私がTVなどで見聞きしたイメージに基づいています)

編集者の重三郎が、新人の写楽を発掘し、売り出したということです。

売り出してはみたが

 写楽の大首絵を面白いと思った重三郎は、大首絵を大判として売り出すことにします。

つまり、雑誌への連載が決まったということです。

売り出してはみたものの、思ったほど人気が出なかったのです。

大田南畝の『浮世絵類考』には、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」とあるようです。

素顔を書きすぎて、ブロマイドとして今一つだったということでしょうか。

そこで、重三郎は路線の転換を図ります。

それが2期の全身像ということになります。

しかしこうなると、他の浮世絵と差別化が難しくなり、やはりあまり人気が出なかったのでしょう。

その後も、3期(相撲絵!)、4期とテコ入れが続きますが、とうとう新作の発売はなくなってしまいました。

連載打ち切りになったのです。

写楽の正体は

 結局、写楽は新人の浮世絵師であり、4期に渡って試行錯誤をしたが、人気が出ることなく消えていったということになります。

そのため、10か月という短期間であれほどの作風の変化があったのです。

その正体は、『増補浮世絵類考』にあるように、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛ということでしょう。

おそらく、絵を好きで描いていた斎藤十郎兵衛が、蔦谷重三郎のところへその作品を持ち込んで、重三郎が面白いと思ったのです。

デビュー出来たものの浮世絵師になりたいという夢は、残念ながら10か月で潰えてしまったというわけです。


 その写楽が、こんなにも現代で有名になろうとは、早すぎたのでしょうか。


ではでは