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遣隋使再考(納得編)

遣隋使について考え直した話(納得編)です。

 

 

前回とその前の話

 前回は、遣隋使に関する中国側の記録である『隋書』「東夷傳俀國傳」(以下「俀國傳」)の「俀國」という名前について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

一般的に「俀國」は「倭国」の書き間違いと考えられていますが、書かれた内容から考えてその可能性は低く、同様に遣隋使がそう名乗ったというのも考えにくいものでした。

『隋書』を書いた人物による意図的な使用だというのが、結論でした。

邪馬台国の位置を情報操作した陳寿と同じように、「倭国」を「俀國」(弱い国)とすることで、「隋」を徳の無い国として描くためだったと考えられるという話でした。

そのさらに前の回から、タイトルにあるように「遣隋使」について考えているのですが、前回は少し横道にそれた話になりました。

遣隋使は九州から来た

 前々回から考えている「遣隋使」についての話の最大のポイントは、普通考えるように大和政権によって畿内から派遣されたと考えるのではなく、九州にあった大和政権とは別の政治勢力から派遣されたというものになります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そう考えると、これまで違和感のあった「俀國傳」のいくつかの内容が、納得出来るものになるのです。

今回は、そのあたりを見ていきたいと思います。

王は男性

 先ず、というかこれが最も物議を醸すものなのですが、遣隋使を送って来た人物についてです。

「俀國傳」に遣隋使から聞き取ったと思しき内容が書かれているのですが、それによると遣隋使を送ってきた俀王は男で妻もあるということになっているのです。

その当時の大和政権は、女性の推古天皇の時代であり、聖徳太子が摂政ということになっています。

昔学校の授業では、その聖徳太子が中国と対等な関係を結ぶべく、例の「日出ずる所の云々」の国書を持たせたといった感じで、習ったような気がします。

その後唐からの使者裴世清からも、帰国してから推古天皇についての報告は無かったようで、女性がトップに立っているという話は最後まで出て来ません。

聖徳太子が王なのか

 俀王は男だということなので、遣隋使の使者は、聖徳太子を王として話をしたということになります。

このため、過去から色々と説が考えられることになります。

例えば、女性がトップだということを隠すためだったとか。

天皇は祭祀のトップであり、政ごとのトップは王と呼ばれ別にいて、聖徳太子が王だったのだとか。

何とか俀王=聖徳太子にしようということなのですが、遣隋使を派遣した俀王が九州の勢力の王であるならば、何も考える必要は無いではないですか。

遣隋使は、ありのままを伝えただけということになります。

阿蘇山

 これは、私的に非常に気になっていた内容なのですが、使者からの「俀國」の人や自然の情景の話の中に、阿蘇山の話が出てくるのです。

大和政権から派遣されたのであれば、なぜことさら阿蘇山の話をしなければならないのかわかりません。

このころに大噴火をして大陸にまで影響があったということもなさそうですし。

普通に考えて、富士山とかの方がよさそうな気がします。

これも、九州を中心とする勢力からの使者であれば、九州における阿蘇山の存在を考えれば納得がいきます。

やはり遣隋使は九州からやってきたと言わざるを得ないような気がします。


 今朝、新聞のTV欄を見ていて見つけました。
11時のBS11アニサマ2023」から始まって、テレビ東京系「年忘れにっぽんの歌」、Eテレ「クラシック名演名舞台2023」、TBS系「CDTVライブライブ年越しSP」と渡り歩くと、今年の音楽シーンのかなりの部分と昔の名曲を堪能出来るじゃないですか。
今、「年忘れ日本の歌」を観ながら書いています。
「紅白」は、観なくてもいいか。


 年明けは、暴飲暴食で倒れていない限り、1月7日からの予定です。
それでは皆様、良いお年を。