「芸術」について考えたもう一つの話です。
少し前の記事
少し前の記事で、芸術音痴であることを棚に上げて、芸術論もどきを書きました。
かいつまんで言うと、理屈抜きで「すごい」と思わせるのが理想ではないかというものでした。
美しい景色、例えば富士山を見た時を考えてみます。
この時に、特に富士山が過去にどのような噴火をして今の形になったとか、今日に至るまでにどのように信仰の対象となって来たのかとか、世界遺産になるまでの経緯などといったことを知らなくても、見た瞬間「すごい」と思うはずです。
勿論、知っていて悪いことはないわけですが、本質はそこではないのではないかということです。
今回は、もう一つの「芸術」についての話です。
贋作の話
TVで贋作についての番組を観ました。
その中で、伝説の贋作師と呼ばれた人物について触れられていました。
私がそうだったのですが、一般に贋作と聞いて想像するのは、本物そっくりに作られた偽物ではないでしょうか。
それを本物だといってだますのです。
とは言っても、あまりに有名な作品、例えば「モナ・リザ」などでは、その在処は誰でも知っているわけで、それの偽物を売りつけることは普通出来ないという問題があります。
しかし、伝説と呼ばれる彼の手口は違いました。
伝説の手口
専門家には知られていても、一般にはそれほど有名でない20世紀の作家をターゲットとします。
そして、そのターゲットの創作歴を調べ上げ、その中で描いたかもしれない様な作品を作り売り出すのです。
いかにもターゲットが描いていそうな偽物というわけです。
それを売るにあたって、その作品の周辺の物語も造り上げ、仕上げにそのターゲットの専門家にお墨付きをもらうのだそうです。
そういった手口で、まんまと世間は騙されました。
今でも少なくない美術館に、彼の作品がほかの画家の作品として飾られているようです。
偽物と分かったのは
彼の犯行が露見したのは、作品の部材や絵の具などの精密な科学分析によってでした。
つまり、絵画の専門家の眼は、その違いを見分けることが出来なかったのです。
そう考えると、贋作師の描いた偽物と本物の芸術的な違いはなかったと言えないでしょうか。
何しろ、専門家が見ても、本物との間に差はなかったわけですから。
おそらく、偽物と判明するまでは、専門家も含めて様々な美辞麗句で芸術的な点を説明していたはずです。
それが、偽物と分かった以降は、贋作だという以外には一顧だにされなくなったのです。
つまり、その絵の「すごさ」といったもの以外の尺度の芸術性があり、現代ではその方が重要なのです。
最近のオークションの結果を見ると、金銭的には確かに「すごい」ということが言えるのかもしれません、贋作と分かるまでは。
こういったものを「市場経済的芸術」と呼ぶというのはどうでしょう。
ではでは