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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

遣隋使とはなんだったのか

遣隋使について考えた話です

 

 

ずっと送っていなかった

 遣隋使については、歴史の授業などでは、推古天皇の時代に隋の進んだ文化、制度等を学ぶために送ったといった感じで学びます。

そういう事だったとは思うのですが、なぜ突然遣隋使だったのでしょう。

その遣隋使は、『隋史』では600年に、『日本書記』では607年に初めて送られたという事になっています。

中国側が嘘を書く必然性も無い事から、600年に最初の使者が送られたと考えらています。

いずれにしても、それ以前に中国に使者を送ったのは「倭の5王」の時代になるので、
その最後の「武」が使者を送った478年から、100年以上間が空いていることになります。

さらにこのブログでは、「倭の5王」は、邪馬台国が東遷する際に九州に残った勢力が使者を送った記録だと考えていますので、畿内のヤマト王朝は、東遷以来初めて使者を送ったことになります。

謎の4世紀に東遷が起こったと考えていますので、それ以降初めてと考えると、その間約300年になります。

それ程の間使者を送る事もしなかったのに、どうして送る気になったのでしょう。

強国に朝貢したのか

 普通に考えると、久方ぶりに中国全土を統一した強大な王朝が出来たので、朝貢を行ったと言う事になるでしょうか。

ところが実際にはそうではありませんでした。

形としては朝貢を行ったという事になるのですが、これまでの倭王が行ってきた朝貢と違っているのは、「冊封」を受けなかったという点です。

この事を端的に表しているのが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」で始まる有名な国書です。

対等な天子という立場だという事を表明しており、君臣関係を求めてはいません。

仏教伝来と対立

 前回の話で、「仏教公伝」以降の我が国での仏教の受容における太陽活動の影響について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その結果として、受容賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で対立が生じる事になりました。

その対立は、次の飛鳥時代にも続いて行くことになります。

最終的に、587年の「丁未の乱」により受容賛成派の勝利で決着を見る事になります。

聖徳太子が送った

 その時に受容賛成派の蘇我氏側で活躍したのが、あの聖徳太子です。

戦いの際に、戦勝を四天王像に祈り、戦後に四天王字を建立したという逸話や、後年「三経義疏」と呼ばれる、お経の注釈書を書いたことからも分かるように、深く仏教を学んでいたようです。

しかし、深く学べば学ぶほど、聡明で有ったと伝わる太子には、一方で疑問も生じたはずです。

何しろ、仏教に国を救うような力は有るはずもないのですから。

そして、前回の記事で見たように、太陽活動は低下していく途中で有り、天候への影響は続いていたはずです。

勿論、それに対しても仏教は無力です。

そこに、中国から統一王朝「隋」の話が伝わってきます。

仏教政策を採っている事などが分かって、その詳細が知りたいと考えたのだと思います。

仏教で実際にどのように国家を運営しているのか、その方法を知るべく送られたのが遣隋使だったのです。


600年の時に隋側から散々な言われようだったのは、300年ぶりで朝貢の仕方がよく分からなかったから、というのは考えすぎですかね。


ではでは