小野妹子について考えた話です
日本書紀の遣隋使は
前回までの話は、中国の歴史書『隋書』の記述によると遣隋使は、一般に考えられているように時の大和朝廷が派遣したものではなく、九州の地の王が派遣したと考えた方が納得できる、というものでした。
つまり、『日本書紀』の推古天皇の御代に遣隋使を送ったという話は、全くの作り話だったということになります。
この時に派遣されたとされているのが、あの男性なのに名前に子が付き、加えて字こそ違うが「イモ」の子という、子供が一度聞いたら忘れない小野妹子になります。(おそらく、卑弥呼、聖徳太子と共に、「三大日本古代史で名前の知られている人物」でないでしょか。)
もっとも『日本書紀』には、遣隋使すなわち隋に使者を送ったとは書いて無く、「大唐」に派遣したとなっています。
実際に大和政権とは関係の無い隋への派遣を無視したいことが、見え見えです。
裴世清が来たので
ところが、『隋書』に裴世清を勅使として派遣したとあるので、話は簡単に済まなくなったのでしょう。
勅使となれば、正式な返書があるはずです。
ところが、裴世清が実際にやって来たのは、九州だったわけで、大和政権に返書があるはずもないのです。
そこでひねり出されたのが、これまた有名な、返書を百済で奪われてしまいましたという話なのでしょう。
本当にこんなことがあれば国家間の大問題ですが、その後百済に対して何らかの対応が採られたということもなさそうです。
そもそも、『隋書』にはそのような話は全く出て来ません。
とにかく、正式な返書が大和政権側に無いことの言い訳としか考えられません。
小野妹子は
さて、『日本書紀』における隋(大唐)への派遣に関する話全てが作り話とだとすると、その話の中で派遣されたことになっている小野妹子についてはどう考えたらいいでしょう。
私は、小野妹子もこのために作り出された人物ではないかと思っています。
そうではなく、当時実際に存在した人物だったとしたらどうでしょう。
小野妹子は後に「大徳」という冠位に就いたとされています。
あの「冠位十二階」の最高位です。
実在であるならば、子孫も含めた一族がいたはずです。
親書を奪われるという失態を犯すような作り話の当事者とすることは、いろいろと問題が生じたはずです。
わざわざ、作り話にそんな人物を持ってくる必然性は無いように思います。
やはり、小野妹子はいなかったのです。
被災された方々にお見舞い申し上げます。
一日も早い復興を心よりお祈り致します。
ではでは