遣隋使について考え直した話です。
遣隋使とはなんだったのか
遣隋使については、以前の記事で一度考えています。
仏教の効力に疑問を抱いた聖徳太子が、仏教政策を採っていた「隋」から学びたいと送ったのが遣隋使だったのではないかと考えました。
今回改めて遣隋使について調べてみて、異なった解釈を思いつきました。
『隋書』の記述
今回は、遣隋使を受け入れた「隋」の側から見てみたいと思います。
「隋」の正史『隋書』には遣隋使に関係する記述がありますが、これが結構問題を孕んだ内容となっているのです。
遣隋使が607年にやってきます。
この時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。
これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。
その報告に、旅程が含まれているのですが。
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」
引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)
細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。
竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。
その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、移住して来た人や商人などの中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。
畿内というには無理が
その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。
『日本書紀』の記述に合わせるためには、瀬戸内海沿いの十余国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。
それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。
九州での旅程より、この十余国の旅程の方が長いにも関わらずです。
それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。
ここは素直に、竹斯国から海までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。
そして竹斯国から東の海までの十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。
遣隋使を送ったのは
結局、使者は九州から出てはいないのです。
その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。
都は九州にあったと考えざるを得ません。
つまり「遣隋使」を送ったのは大和王朝ではなかったということになります。
『日本書紀』の記述はでっち上げということになるのですが。
ではでは