「戦の無い世の中」について考えた話です。
今年は家康
今年の大河が家康の話なので(個人的には、第一話を見てドロップアウトしてしまいましたが)、NHKを中心に戦国時代が取り上げられることが多いです。
その中で、そこかしこで出てくるのが「戦の無い世の中」という言葉と、それに類する考え方です。
戦国大名を語るときに、その行動原理として、「戦の無い世の中」を目的として挙げられることがすくなからずあるのです。
信長、秀吉の後を継いで、最終的な解決者が家康というわけです。
本当にそうなのか考えてみます。
信長の場合
信長の場合は、道半ばで本能寺で討たれてしまったので、最終的にどのような世の中を目指していたのかについて、はっきりとしたことは分かりません。
しかし、本ブログでは、様々な状況証拠から、信長が畿内を中心とする中央部を織田一族で固めようとしていたと考えています。
天下統一を目指していたのではないのです。
あの有名な「天下布武」も、現在では、「天下」が畿内を表していると考えられています。
上の記事でも触れていますが、1850年の石山本願寺との講和で、「天下布武」を成し遂げたと考えていたと思われるのです。
その後の戦は、周辺地域を親織田の勢力で固めるためのものだったのです。
その途上で本能寺があったわけです。
の分がの目指したのは、「戦の無い世の中」ではなく、織田家の存続する世の中だったのです。
秀吉の場合
秀吉は、途中で殺されることもなく、天下を統一し関白にまで上り詰めます。
その後、刀狩りなども行っており、これはと思わせる点もないではありません。
しかし、そのあとに行なったのは、ご存じ朝鮮出兵です。
「戦いの無い世の中」を目指していたとは思えません。
そして死に際して残したといわれているのが「太閤様覚書」です。
11か条からなりますが、そのうちの9か条は、息子の秀頼に関する内容です。
関白という地位にありながら、結局は天下国家ではなく豊臣家のことが最大の関心事だったのです。
家康の場合
家康も、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を統一しました。
さらに、その後に矢継ぎ早に、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」を策定し、幕府の体制を造り上げます。
一見、これはと思わせますが、これらは徳川家に対する反対勢力の力を削ぐという目的があったとも考えることが出来ます。
天下国家を考えていたわけでは無かったのではないでしょうか。
そのことは、これもまた家康の遺言に見ることが出来ます。
「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)
引用元:久能山東照宮|静岡
これにより、日光東照宮が作られることになったわけですが、問題は最後の文言「八州の鎮守になろう」です。
ここでいう「八州」とは、所謂関八州のことであり、関東地方と考えていいでしょう。
つまり、江戸とその周辺を守るといっているわけです。
やはり、徳川家を存続することが目的だったと言えそうです。
「家」の存続が第一
結局のところ、信長、秀吉、家康いずれも、「戦の無い世の中」を目指していたわけでは無く、それぞれの「家」の存続こそが第一だったのです。
それを目指していった先が江戸幕府で、結果として戦の無い時代が続いたのであり、それを目指したわけでは無かったのです。
それを後世、「戦の無い世の中を目指した」と美化したのか、そう思いたかったのか、時代の要請なのかは分かりませんが、造り上げられた虚像なのだと思います。
やはり、死に際しては本音が出るものなのでしょうか。
ではでは