横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

曜変天目茶碗

曜変天目茶碗について考えた話です。

 

 

曜変天目茶碗

 TVで曜変天目茶碗を久しぶりに見ました。

曜変天目茶碗は、言わずと知れた国宝の茶碗です。

中国で、南宋時代(12世紀~13世紀ごろ)に作られたと考えられており、完品は世界に3つしかないとされます

その完品3つは、全て日本に有ります。

引用元:∞(無限大)分の3!MIHO MUSEUM 大徳寺龍光院 『国宝曜変天目と破草鞋』 国宝 龍光院 曜変天目をついに見た。そして、国宝曜変天目 三碗同時期公開の衝撃。 | Kazz zzaK(+あい。)

一度観たことが

 曜変天目茶碗については、40年程前(恐らく)に3つの内のどれかの実物を観た記憶が有ります。

観たのは確かだと思うのですが、どこで、どのような形で見たのかは一向に思い出せません。
観たことだけはしっかりと覚えているんですけどね、全く記憶の仕方は不思議なものです。

「器の中に宇宙が見える」とも言われているのですが、芸術オンチの私には響かなかったようで、これといった驚きは無かった事だけは覚えていたりします。

興味深い点が

 そんな曜変天目茶碗ですが、興味深い点が2つほどあります。

一つ目は、上にも書きましたが、中国で作られたものにもかかわらず現在の中国には完品が存在せず、日本にしかないという点です。

二つ目は、その作り方が分からないという事です。

これら2つの点から考えると、どうやら曜変天目茶碗は、狙って作ったものでは無く、偶然の産物で、しかもその出源頻度は非常に低かったのではないかと考えられそうです。

加えて、中国ではその評価は高くなかったという事も言えそうです。

評価が高ければ、当然歴代の皇帝の収集物の中に残っていなければ可笑しいのです。

どれほど再現性が低く、作るのが困難で有っても、皇帝が所望している程のものとなれば、全力でその作り方を探ったはずです。

それでも作り方を解明出来なかったとしても、偶然出来たものが献上されたはずです。

それがただの一つも無いわけですから、中国では必要とされていなかったのだと考えられます。

なぜ日本で

 そんな曜変天目茶碗が、なぜ日本でこれ程評価され、国宝にまでなっているのでしょうか。

それは「曜変天目茶碗が茶の湯で茶器として使われたから」だ、と言うのが私の考えです。

曜変の評価は室町時代には定まっていたようで、織田信長も「天下第一の名碗」とも言われるものを一つ所有していたとされます。
残念ながら、本能寺の変で失われたようです。(この時までは、4つあった事になります)

以前の記事で、この当時の戦国大名を中心に好まれた茶の湯について、マウントを取るためのものだったのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

端的に言うと、「名物」と呼ばれる茶道具が評価の尺度だったという事です。

そういった風潮の中で、珍しい唐物に対する需要が高まっていたのは間違いのないところでしょう。

それに合わせて買い付けて来たのか、偶然紛れ込んでいたのかは分かりませんが、曜変を持った天目茶碗がもたらされたという事では無いでしょうか。

そして曜変を持った天目茶碗は「大名物」となり、今現在は「国宝」となったという訳です。


 まあ、芸術的に素晴らしいからだと言われればそれまでですが、芸術オンチの私としては理屈をこねて見たかったという話でした。


ではでは

中世ヨーロッパと太陽活動3

中世ヨーロッパと太陽活動について考えた話3です。

 

 

前回の話

 前回は、ヨーロッパの「中世盛期」と太陽活動の関係を考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「盛期」の名の通りに、中世極小期から中世極大期への回復に伴う気候の安定の中で人口が増加し、それを背景とした社会的、経済的な発展の見られた時期でした。

更に、十字軍やレコンキスタのようにイスラム勢力に対する攻勢という点もみられました。

一方では、13世紀中頃にモンゴル帝国の侵攻を受けるといった事も起こりました。

しかしながら、これも中世極大期への回復の全地球的な影響の中で生じたと考えられるという話でした。

今回は、「中世盛期」に続く「中世後期」について考えて見ます。

中世後期

 「中世後期」は、時期的には14,15世紀頃になります。

中世はこれをもって終わり、時代はこれ以降「近世」に入る事になります。

その「中世後期」の特徴は、それまでの「中世盛期」に見られる勢いの有る歴史と比べて、一転して困難の時期で有ったという事に尽きるでしょうか。

1315年‐1317年の大飢饉を代表とする多くの飢饉や、かの有名な黒死病の流行(1346年‐1353年)によって、「中世盛期」に増加した人口が激減したようです。

それに伴い、当然のように社会的にも不安定化しました。

その象徴的な出来事として、カトリック教会が分裂して、ローマとアビニョン教皇が両立(一時期は3人いたことも有ったらしい)したりもしています。

そんな中、その終わりごろには大航海時代が始まることになります。

太陽活動で見ると

 以上の事を、太陽活動との関係で考えます。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

太陽活動から見ると、そのほとんどが中世極大期からシュペラー極小期への活動の低下の時期に当てはまって居る事が分かります。

1315年‐1317年の大飢饉を代表とする多くの飢饉は、活動の低下による気候の変動によるものと考えられそうです。

それに伴って社会が不安定化するのというのは、考えられるところですが、黒死病の流行はどうでしょうか。

飢饉や社会の不安定化によって、体力や免疫力の低下によりかかり易くなったという事でしょうか。

そういった面もあるかもしれませんが、それだけならばもっと多くの時代、場所で流行が起こていた筈です。

黒死病の流行については、もう少し考える必要がありそうです。

終わりごろの大航海時代の始まりについては、シュペラー極小期からの回復の中で生じたと考えられます。

この点については、中南米大陸の文明との関係で以前記事に書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 実は「中世後期」と「近世」の境は一意に決まっていないようなのですが、シュペラー極小期とする手も有るんじゃないかという気がします。


ではでは

中世ヨーロッパと太陽活動2

中世ヨーロッパと太陽活動について考えた話2です。

 

 

前回の話

 前回は、ヨーロッパの「中世前期」と太陽活動の関係を考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「中世前期」の前半は、中世極小期に向かう太陽活動の低下による気候変動の中で、人口低下とフン族、ノルマン人などの民族大移動により、西ローマ帝国が衰退、滅防止して行く歴史でした。

後半は、中世極小期から中世極大期へ向かう太陽活動の回復の中で、大移動の終了と定住が進むというものでした。

その中でノルマン人のフランク王国による西ヨーロッパの統一を経て、現在の西ヨーロッパの基礎が形作られたという話でした。

今回は、その後の「中世盛期」についてという事になります。

中世盛期

「中世盛期」ですが、時期的には11, 12, 13世紀になります。

その「中世盛期」ですが、「中世前期」と「中世後期」に挟まれた期間にもかかわらず、「中期」ではなくわざわざ「盛期」と呼んでいるところに全て現れていると言っていいようです。

前回の話でも見たように、西ローマ帝国の滅亡には人口の減少が影響していました。

それに対して、この「中世盛期」の特徴は大幅な人口の増加という点にあるようです。

当然、人口増加を背景に社会的、経済的な発展をしました。

それのみならず、この時期には、十字軍やレコンキスタのようにイスラム勢力に対する攻勢という点もみられました。

この背景にも、単なる宗教的なものだけではなく、人口増加に伴う拡張的な面も有ったと考えられているようです。

ただし一方では、13世紀中頃にモンゴル帝国の侵攻を受けるといった事も起こっています。

太陽活動で見ると

 以上の事を、太陽活動との関係で考えます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

全ての背景になっている大幅な人口増加は、明らかに中世極小期から中世極大期への回復の中で生じています。

特に時期的に、途中のショルダー部分以降の急激な回復期の影響によるものと考えられそうです。

そんな中で水を差すように、モンゴル帝国の侵攻という事件が勃発したのですが、単に間が悪かったというわけではないようです。

以前の記事で、モンゴル帝国と太陽活動の関係について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

1209年のチンギスハーンによるモンゴル帝国の建国は、まさに同じ中世極大期に至る中で起こったのです。

その後にヨーロッパへの侵攻が行われた訳で、決して偶然間の悪い時に攻めて来たのではなく、中世極大期への回復の全地球的な影響の中で生じた事だったという事が言えそうです。。


 各地域の歴史を、太陽活動を通した世界史として捉え直すのも面白そうです。


ではでは

中世ヨーロッパと太陽活動1

中世ヨーロッパと太陽活動について考えた話1です。

 

 

ギリシャ、ローマの次は中世

 これまで本ブログでは、古代ギリシャ古代ローマと太陽活動の関係について考えてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

この後ヨーロッパは、いわゆる中世の時代へと入っていくことになります。

そして考える時に参照してきた例の図を見ると、中世極小期と中世極大期と、中世の名を冠したものが2つも有ります。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

という訳で今回から、中世と太陽活動の関係について考えてみたいと思います。

中世前期

 ヨーロッパ史では、中世を「中世前期」「中世盛期」「中世後期」の3つの時代区分に分類しているようです。

今回はこの中の最初の「中世前期」について見てみます。

「中世前期」は、おおよそ5世紀から10世紀を指す時代区分とされているようです。

古代ローマ帝国が東西に分裂した後、西ローマ帝国の帝政が終わったのが紀元476年ですから、概ねそれ以降を指していることになります。

西ローマ帝国の衰退・滅亡については様々に研究されていますが、大きな要因として指摘されているのが、人口減少と民族大移動です。

その最後の200年程でローマ帝国の人口は、その最後の200年程で6500万人から5000万人に20%以上減少したと見積もられている様です。

それに加えて、フン族の移動による圧迫を受ける形でゲルマン人ローマ帝国内に移動して来た事が大きく影響したと考えられています。

 

引用元:gelman

大移動が6世紀末に終わり各地に定住することになりました。

その後、フランク王国による統一を経て、現在の西ヨーロッパの基礎が形作られました。

この時期に、文明の担い手が地中海沿岸から西ヨーロッパに移ったのです。

太陽活動で見ると

 以上を、太陽活動の図に照らし合わせてみます。

西ローマ帝国滅亡の要因と考えられる人口の減少とフン族ゲルマン人の大移動ですが、ローマ極大期から中世極小期に向かっての活動の低下の中で起きていることが分かります。

特に300年から700年にかけては地球規模の寒冷化があり、農作物の収穫が減少した様です。

それにより、ローマ帝国内では人口が減少し、フン族ゲルマン人は生活基盤を脅かされて、より温暖な血を求めてローマ帝国内へ移動したと考えられそうです。

その大移動も、中世極小期以降の活動の復活とそれに伴う気候の回復の中で終了し、定住に向かったという事になります。

その後のフランク王国の全盛期が、800年に即位したカール大帝の頃だという事を考えると、中世極大期前のショルダー部への回復期の中で西ヨーロッパの基礎が形成されたと言えそうです。


 授業で習った時には、ゲルマン人がどうしてこんなに大移動をしたのか不思議だったのですが、個人的には今回の話で納得がいきました。


ではでは

生命の部品はなにか

生命の部品は何かを考えた話です

 

 

前回の話

 前回は、生き物の複雑さを、個人的に生物よりは知っていると思っているコンピューターに絡めて無理矢理説明を試みました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

もっとも身近なコンピューターとも言えるスマホをいくら調べても、その動作原理を含めてすべてを理解することが極めて難しいように、人間を始めとする生物をいきなり理解することは難しいといった話でした。

電池と電子部品から始まって、簡単なものから複雑な電子回路について順次理解する事により、理論的にはスマホについても理解出来るはずです。

同じように生物でも、原始的な単細胞生物から多細胞生物に向けて理解しようとしているという事でした。

チョット無理が

 その流れで、

単細胞生物は電子部品で、多細胞生物は電子回路に相当するのかもしれません。

DNAはプログラムかもしれません。

といった事も書きました。

が、さすがに「単細胞生物は電子部品で」というのは、読み返してみると苦しかったなと。

多くは単機能の電子部品に対して、単細胞生物はそれ単体で生きるという事に対しては完結しているわけで、比較する対象としてのレベルが違いました。

この流れでいくと、細胞を構成しているものこそが、電子部品に相当するとなりそうです。

それにも無理が

 なのですが、事はそれほど簡単ではなさそうです。

前回の話でも書いたように、「DNAはプログラム」かもしれないのです。

よく「DNAは設計図」といった言い方がされます。

確かにDNAには、その生物を作るための情報が全て含まれているわけですから「設計図」というのは言い得て妙だとは言えそうです。

そう考えると、これは電子部品では無いですよね。

電気製品の中に、その製品の作り方も含めた回路図が含まれているようなものです。

もっと低レベルから

 そう考えると、現在までのところ「生命の起源」として有力な説の一つと考えられている、DNAやRNAが起源とする説は無理がありそうという事になります。

DNAやRNAを起源と考える背景には、現生の全ての生物が共通して持っているいる事が有ります。

全てに有るんだから生命の起源だろうというわけです。

しかし、これをコンピューターで考えるとどうでしょう。

現在使われている全てのコンピューターにはプログラムが内蔵されているから、プログラムからコンピューターが始まったに違いないという事になります。

勿論そんなはずは有りません。

DNAやRNAは、現生の生物が形作られていく中で形成されたものであり、それから生命が始まった訳では無いと考えられそうです。


 ではなにが起源かについては、残念ながら答えを持ち合わせてはいません。
今回は、その答えをそのうち思いつくことを期待した覚え書きでした。


ではでは

出来上がったものは複雑

出来上がったものを観るから複雑だという話です。

 

 

上手い事出来ている

 TVなどで人間を始めとする生物の体の機能に関する話を観たり聞いたりすると、その仕組みの巧みさに思わず、「上手い事出来ているな」という感想になりがちです。

過去の記事で、分からないなりにそのあたりを考えて見たりもしています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

どうやったらこんな巧妙な仕組みが出来るのか、俄かには信じられない気がしたりもしがちです。

いっその事、創造主のような存在を考えた方が納得出来そうにも思えます。

しかしこれらの事は、人間などの形になったものを観て、それについて考えているからではないかというのが今回の話になります。

コンピュータで考えると

 同じようなことを、コンピューターで考えてみたいと思います。

現在において最も身近なコンピューターはスマートフォンでしょう。

そうは見えないかもしれませんが、スマホの中身は立派なコンピューターと言っていいものです。

その性能は、一昔前のスーパーコンピューター並みと言っても良いようです。

それが手の平サイズになっているわけですから、驚くほかないわけですが。

さてそのスマホですが、分解してして中身を観ても、素人には何がどうなっているかはチンプンカンプンです。

それがどのように作動しているのかを何とかして調べようとすることが、生物の働きを解明しようとしているのと、同じ事では無いかと思うのです。

スマホは人間が作った

 勿論、スマホは人間が作ったものですから、その中身がどういった構造で、どのように働いているかは全てわかっています。

しかし、そのあたりの事について全くの門外漢が、スマホを調べてその全てについて理解する事ができるでしょうか。

電気とか、電子部品とか、電子回路とか、プログラムとかについて全く分からないところから、それについて教科書で学ぶのではなく、スマホを調べる事で理解しなければいけない訳です。

生物を調べる時のように、細かく分解したり、顕微鏡で観たり、その他様々な試験を行った結果から、スマホの働きを理解しようとする訳です。

絶対無理だとは言いませんが、限りなく不可能に近いのではないでしょうか。

基本的なものから考える

 そうは言っても、現実には、電池、基本的な電子部品や簡単な電子回路などから始まって、次第に複雑化していった訳で、それらを順に調べる事で、理屈の上ではスマホを全て理解する事も出来るはずです(個人的には、とても出来るとは思えませんが)。

生き物でも同じ事が言えそうです。

微生物のような単細胞から始まって、人間を含む哺乳類に至るまでの様々な段階の生き物を調べる事で、人間のような複雑なものを理解しようとしているわけです。

単細胞生物は電子部品で、多細胞生物は電子回路に相当するのかもしれません。

DNAはプログラムかもしれません。

生き物にとっての電気は

 そう考えていくと、電気に相当するものは何になるのでしょうか。

生き物全てに共通していて、それが無いと生き物として働かないもの。

チョット考えると酸素かとも思いますが、世の中には酸素を必要としない生物も存在しています。

単なるエネルギー源では無さそうです。

言い方を変えると、命とは何かという事になるのかもしれません。

電気の働きを考える事によって、全ての電気製品の働きを理解出来るように、命とは何かが分かり、その働きを考える事で、全ての生き物を理解出来るようになるのかもしれません。


 命が枯渇することが、死ぬという事のような気がしているのですが。


ではでは

続・人類の進歩

引き続き、人類の進歩について考えた話です。

 

 

元来は能動的

 前回の記事では、人類の進歩について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

進んで歩むと綴る「進歩」という言葉にも見えるように、人類の歴史は、人類自ら能動的に動いた結果として古代から現代に向かって作られてきたという捉え方が良くされます。

しかし実際には、太陽活動の変化などによる気候の変化による環境の変化に、受動的に対応した結果ではないかという話でした。

加えて、太陽活動の変動によって幕藩体制が倒れる事が無かった江戸時代のように、ある程度の技術的、社会的なレベルになると、太陽活動の変化から有る意味自由になり、能動的に振る舞うようになるという事でした。

決定的な資本主義

 その人類の能動的な動きを決定的にしたのは、資本主義が生み出されたことによると言えるでしょう。

資本主義とは、簡単に言えば、資本の増大のみを追求していくシステムです。

環境の変化に対応するといった事どころか、生きる事さえも直接的には関係なく、とにかく資本の増大、より卑近な言い方をすれば、金儲けを追求するのが目的という訳です。

生きる事が、金儲けに付随したものになったように感じられます。

環境問題が

 そんな資本主義も、世界人口の増加などにも表れているように、20世紀まではそれなりに回っていたと言っていいかと思います。

まあ、貧富の差の拡大とかの、無視できない問題も少なからず露呈していたのは確かですが。

そんな中で、人類の前に突き付けられた問題は、やはり環境の変化でした。

といっても、これまで考えて来たように太陽活動の変化によるものは、もはや問題とはなり得ないはずです。

その代わりに原因となったのは、皮肉なことに我々自身の活動から生み出された温暖化ガスでした。

個人的には、これがどの程度の問題なのかについては、いささか疑問もありますが。

 

yokositu.hatenablog.com

 

社会変化を生じるのか

 これまで本ブログで考えて来たように、環境の変化によって社会システムが影響を受け、それに変わって新たな社会が形成されるという過程を通る例が多く見られました。

今回は、温暖化ガスという自ら作り出したものが原因ですが、環境が変化するという結果は変わらないとも言えます。

そうであるならば、環境の変化による影響は問題ですが、新たな社会を作るチャンスだとも言えそうです。

こういった状況を生み出したともいえる資本主義を、考え直す良い機会なのかもしれません。

個人的には、生きる事と金儲けを分離出来ないかと思っているのですが。

 

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 年寄りとしては、今の生活が変化するのはかなり怖いのですけどね。


ではでは

人類の進歩

人類の進歩について考えた話です。

 

 

拡散は受動的

 前回の話は、人類が比較的短い期間で世界中に拡散した理由についてでした。

リンク:人間が世界中に拡散した理由

その理由については、よく言われるように知的な好奇心によるのではなく、環境の悪化により生活が出来なくなった事から逃れるためだったと考えました。

山の向こうや海の向こうに何が有るのか知りたかったのではなく、山の向こうや海の向こうに行けば何とかなるかもしれないと思ったからだったという訳です。

人類の拡散は、どちらかと言えば環境の変化に対応する形の受動的なものだったのではないかというものでした。

太陽活動との関係でも

 本ブログでは、これまでいくつかの記事で太陽活動と歴史的な出来事の間の関係を考えて来ました。

そのほとんどの場合に、よく似たパターンが有る事が見て取れました。

先ずは、太陽活動の低下がおこることから始まります。

低下の結果、気温の低下を伴った気候の変動が生じます。

それにより主に農耕が打撃を受け、農耕を基盤とする社会システムが大きな打撃を受けたり、より影響が大きい場合にはシステム自体の崩壊が起こります。

その後、太陽活動の回復の中で、社会システムの再構築や、場合によっては新しいシステムが作られたりするのです。

その担い手がどういう人々なのかで、様々な様相を呈することになります。

日本での武士の台頭や、ユーラシア大陸でのモンゴルの台頭だったりするわけです。

人類の進歩

 人類の歴史を考える時に、基本的な見方として、古代から現代に向かって進歩してきたという捉え方がされます。

進んで歩むと書いて「進歩」という訳ですから、その根底には人類自ら能動的に動いた結果として歴史が作られていくという考え方が有るように思われます。

しかし、上に書いた事を観ても分かるように、実際のところはそうではなくどちらかと言えば受動的に環境の変化に対応した結果が、人類の歩みで有るように思えるのですが。

という事なのですが、現在もそうかと言えばそうでもなさそうです。

太陽活動から自由に

以前の記事で、江戸時代と太陽活動の関係を考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

江戸時代になると、太陽活動の変動は有りましたが、それにより幕藩体制が崩壊するようことは、無かったのです。

どうやら、ある程度の技術的、社会的なレベルになると、環境の変化に対応出来るようになるという話でした。

太陽活動の変化からある意味自由になった訳です。

当然、現代もそういったレベルに有ります。

そういった中で、人類は進歩していく生き物だという考え方が出て来たと考えられそうです。

人類は、「能動的に進歩していく生き物」では無いのかもしれません。


 そういえば、前回の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったことを思い出しました。


ではでは

人間が世界中に拡散した理由

人間が世界中に拡散した理由について考えた話です。

 

 

世界への拡散

 現在までのところ、我々人間(ホモ・サピエンス)は、7万年前にアフリカから外へ移住し始めたとする、いわゆるアフリカ単一起源説が有力と考えられています。

という事は、この7万年の間に世界の隅々まで行き着いたという事になります。

これは一つの種の動物としては驚異的な事です。

なぜならば、寒暖、高度差などによらず世界中どこに行っても、肌の色とか鼻の高さとか若干の違いは有るにしても、人間は人間のままなのです。

普通は、環境の変化に適応する形で変化をする筈なのに、人間にはそれが無いのです。

それは、人間には、知能とそれによる文明、文化が有るからだと考えられます。

それらによって、極地を含むあらゆる環境に適応してきたわけです。

では、環境に適応できることは分かったとして、なぜこれほどまでに世界中に拡散したのかというのが今回の話になります。

好奇心から

 こういった疑問に対して、よく出て来る話に、我々人間には好奇心が有るからだというものが有ります。

知能というものを得た我々は、未知の物について知りたい、分かりたいという考え、即ち好奇心を持つようになりました。

山の向こう側や、海を渡った先には何が有るのか知りたいと思うようになりました。

それを確かめるために旅を続け、世界中に拡散したという訳です。

確かに好奇心は有るが

 確かに我々人間には、好奇心というものが有ります。

そして、その好奇心によって、旅に出るという事も有ります。

現在でも、極地や人跡未踏の地を目指す、冒険家と言われる人々がいる事も確かです。

しかしそれだけで、世界中に拡散するほどの行動力を生み出したのかと言われると、甚だ疑問だと思うのです。

例えば、何時の時代にも冒険家のような考え方をする人間はいたと思われますが、果して家族がそれについていったのでしょうか。

現在でも、家族と共に冒険をする冒険家はほとんどいないはずです。

帰る場所があってこその冒険家なのです。

移動する条件は

 生活基盤が狩猟採集生活であっても、ある程度安定した状況でそれを捨てて、山の向こうや海の向こうの未知の状況に飛び込もうとは思わないでしょう。

冒険心を持った本人はともかく、その家族は、そんなバカげた行動について行こうとは思わなかったはずです。

ではどんな状況では、ついていこうと思うでしょうか。

それは、それまで生活してきた場所の環境が悪化して、生活出来なくなった時でしょう。

その場にいても死を待つだけで有るならば、一か八かの行動に出る人々もいたはずです。

人間が世界中に拡散した理由は、好奇心からではなく、環境の変化から逃れるためだったのです。
山の向こうや海の向こうに何が有るのか知りたかったのではなく、山の向こうや海の向こうに行けば何とかなるかもしれないと思ったからなのです。

という事は、人間の拡散のスピードは、文明、文化が発達していなくて環境変化に対応する能力が低かった、初期の頃に大きかったと考えられます。

この辺りが、肌の色の違いや、鼻の高さの違いといった地域差を生んだのかもしれません。


 好奇心だけでは生きていけないという話でした。


ではでは

レコンキスタと太陽活動

レコンキスタと太陽活動について考えた話です。

 

 

大航海時代と太陽活動

 前回は、中南米の文明を征服する結果となったスペイン人の新大陸への来訪が、単に不幸な偶然というものではなく、その背景にも太陽活動の影響があったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

スペイン人が新大陸にやって来た背景には、いわゆる「大航海時代」というものが有りました。

その「大航海時代」そのものが太陽活動の回復の中での拡大指向が、ヨーロッパにおいて海外に向けられた結果ではないかと考えました。

今回は、その「大航海時代」が始まるまでの経過について考えて見ます。

ポルトガルから始まった

 前回も書いたかと思いますが、「大航海時代」の始まりは、ポルトガルによる北アフリカへの進出とされているようです。

それ以降も、ポルトガルは西アフリカ沿岸の探検と開拓をしていくことになります。

中でも有名なのが、何故か私もこれだけはよく覚えている。エンリケ航海王子でしょうか。

余談ですが、彼は「航海王子」と呼ばれてはいますが、本人は航海しなかたようです。
パトロンとして航海者の後押しをしたという事のようです。

それはともかくとして、ポルトガルがアフリカに向かった背景には、当時の海上貿易の中心である地中海が、イスラムベネチアなどに支配されており、入り込む余地が無かったという事も有ったようです。

それに加えて大きかったのが、いち早くレコンキスタを達成していたという点です。

レコンキスタ

 「レコンキスタ」とは、ご存知のように、イスラムに征服されていたイベリア半島を取り戻すというもので、日本語では「国土回復運動」と訳されています。

引用元:スペインとポルトガル | 世界の歴史まっぷ

その経過は、極々簡単に纏めると次のようになります。

イスラムウマイヤ朝が711年にイベリア半島に侵入を開始し、710年代の終わりまでにほぼ征服しました。

718年に北部にキリスト教徒によるアストゥリアス王国が建国されます。
この年からレコンキスタが開始されたとされているようです。

その後イスラム勢力を排除しながら南下し、1251年にジブラルタル海峡に到達します。
残るイスラム勢力は南部のグラナダ王国のみとなります。

その後グラナダは200年近く持ちこたえますが、1492年に陥落しレコンキスタ終結することになります。

この途中の1143年にポルトガル王国が誕生し、後のいち早い海外進出の遠因となる訳です。

太陽活動から見ると

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 711年からのイスラム勢力によるイベリア半島の征服は、中世極小期への変化の中で起こったように見えます。

718年から1251年までのレコンキスタは、中世極大期への回復の中で起こったと言えそうです。

その後グラナダは頑強に持ちこたえますが、シュペラー極小期への変化の中で滅亡したと考えられます。

と、きれいに当てはまりそうなのですが、よくよく考えると苦しい点がある事に気が付きました。

中世極小期への変化はイスラム勢力に有利に働き、シュペラー極小期への変化では同じイスラム勢力のグラナダに不利に働いたというのは、都合が良すぎますよね。

加えて、中世極大期への回復が、キリスト勢力だけに有利に働いたというのも一方的すぎるような気もします。

この辺りはもう少し考えてみる必要がありそうです。


 それにしても太陽活動の変化に沿っているように見えるんですよね。


ではでは

スペイン人による新大陸侵攻と太陽活動

スペイン人による新大陸侵攻と太陽活動について考えた話です。

 

 

不幸な偶然

 ここ3回に渡って中南米の文明と太陽活動の関係を考えてきました。

 

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何れも、太陽活動の影響を受けていると考えられたわけですが、その他にも共通する状況がありました。

それは、全ての文明が新大陸にやって来たスペイン人によって征服されたという事です。

これを記事の中では、不幸な偶然といった面が強いと考えました。

これから拡大を続けていこうという段階で、不幸にもスペイン人がやって来てしまったという訳です。

果してそうなのか、単なる不幸な偶然だったのかというのが今回の記事です。

大航海時代

 スペイン人がやって来たわけですが、その始まりはあの有名なコロンブスが1492年に新大陸に到達したことになります。

その背景には、当時のヨーロッパ人により世界規模での大規模な航海が行われた、いわゆる「大航海時代」というものが有りました。

ところで少し話は外れますが、この時代を最近ではごく普通に「大航海時代」と呼んでいますが、以前はそうではありませんでした。

この名称が人口に膾炙するようになったのは、NHKの同名の番組からだったと思います。

命名自体は日本の研究者がしたようですが、それをNHKが番組にしたという事でしょうか。

学校の世界史の授業で、この時代は何と呼ばれているかと聞かれて、「大航海時代」と答えたら、それはNHKの番組の名称で、学問的に正しいのは「地理上の発見の時代」だと言われたことが有ります。

あの時の先生に、今どう思っているのか聞いてみたい気もします。

やはり太陽活動の影響が

 それはともかくとして、そのスペイン人が新大陸にやって来ることになった「大航海時代」にも太陽活動の影響が有り、たまたまでは無かったのではないかというのが今回の話になります。

大航海時代」の始まりは、ポルトガルによる北アフリカへの進出とされているようです。

それは1415年の事でした。

これは、インカ帝国の始まった1438年、アステカが帝国化した1428年とほぼ同時期です。

マヤ、インカ、アステカの各文明が、離れていても同じ太陽活動の変化野影響を受けていたのと同様に、さらに遠く離れれた大西洋の対岸のヨーロッパでも影響を受けていたと考えられそうです。

インカ、アステカで帝国化による拡張主義の形となって表れた影響が、ヨーロッパでは海の向こうへの拡張主義となって表れたという訳です。

中南米の文明から見ると、運が悪かったとも言えるスペイン人の到来ですが、全世界的な規模で見ると、世界的な規模で有った太陽活動の変化の影響の一部だったと言えそうです。


 そうは言っても、中南米の文明にとっては、とんだ災厄だった事に違いはないですけどね。


ではでは

アステカ文明と太陽活動

アステカ文明と太陽活動についての話です。

 

 

今回はアステカ文明

 前回は、インカ帝国と太陽活動について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

インカ帝国の歴史と太陽活動の関係が、我が国の戦国時代の状況にも通ずるものが有るという話でした。

そのインカ帝国は南米のアンデス山脈沿いに発展した国でしたが、それと同時期の中米にはアステカ文明が栄えていました。

 

引用元:[2. アジア・アメリカの古代文明] 13.南北アメリカ文明 | 世界の歴史まっぷ

 

とさも分かったような事を書いていますが、個人的にはいまだによく分からなかったりします。

南北アメリカ文明というと、マヤ文明インカ帝国止まりで、アステカ文明と聞いても今一つピンとこないというのが実情です。

調べてみると、その王国の首都であったテノチティトランは、現在のメキシコの首都メキシコシティーの基となったという事のようです。

インカ帝国マチュピチュのように、直ぐに思い浮かべられる具体的なイメージが無いのが原因かも知れません。

それはさておき、今回はアステカ文明と太陽活動です。

アステカ文明の歴史

 アステカ文明を築いたアステカ人は、12世紀頃にメキシコ盆地に辿りつき、定住したようです。

その後テノチティトランを築き、アステカ王国が形成されたと考えられています。

この辺りは、インカ帝国の形成期と非常によく似ており、興味深い所です。

1428年になって、当時覇権を持っていた国を滅ぼし(それまでは、アステカ王国は属国の関係だったようです。)アステカ艇庫を形成することになります。

その後勢力拡大を行ったことや、帝国形成時期が10年しか違っていないことも含めて、アステカとインカの歴史は、非常に似ていることが分かります。

そして、スペイン人によって滅亡させられた点も同じです。

太陽活動で見ると

 以上を、太陽活動に照らし合わせてみます。

が、太陽活動との関係も、ほぼインカ帝国のそれと同じような事が言えるという事になりそうです。

 

 引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

12世紀頃のメキシコ盆地への移住とアステカ王国の成立は、中世極大期への回復の中で起こったと言えそうです。

シュペラー極小期への低下とそこからの回復の始まりの中で、帝国化がされ拡大への道を歩む事になります。

インカ帝国でも考えたように、シュペラー極小期からの回復の中で拡大していったというのは、最終的に全国統一を目指した戦国時代と似ています。

このままいけば長期に渡って続いたかもしれませんが、スペイン人がやって来たのが、アステカ人にとっても不幸だった訳です。

アステカ文明も、太陽活動の変化が全世界的な規模で影響を与えている一つの事例と言えそうです。


 所変われど、人間は人間という事でしょうか。


ではでは

インカ帝国と太陽活動

インカ帝国と太陽活動についての話です。

 

 

今回はインカ帝国

 前回の記事では、南北アメリカ大陸で紀元前から続いてきたマヤ文明と太陽活動の関係について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

前回にも書いたのですが、私的には南北アメリカの文明というと、どうしても「マチュ・ピチュ」のインカ帝国が浮かびます。

ところが、前回にも挙げた南北アメリカ文明に関する図表を観ると分かるのですが、インカ帝国マヤ文明に比べると比較的短い存続期間で有る事が分かります。

 

引用元:[2. アジア・アメリカの古代文明] 13.南北アメリカ文明 | 世界の歴史まっぷ

その存続期間は、日本で言うと室町時代から戦国時代であり、戦国時代と太陽活動の関係から考えても、何かあても可笑しくはなさそうです。

という訳で、今回はインカ帝国と太陽活動です。

インカ帝国の歴史

 インカ帝国を築いたインカ族は、12世紀頃にクスコ周辺に移住して成立したようです。

その後クスコの都市国家を基盤にクスコ王国が形成されたと考えられています。

文字による記録が無いため、その詳細が分かっているわけでは無いようです。

しかし、上の図表を見ると、いきなりインカ帝国がどこからからか湧いて出て来たように見えますが、その前身となるものが存在したという事になります。

1438年にパチャクテクにより、クスコ王国が帝国化されインカ帝国となり、拡大を始めます。

その後、南北4000㎞に達する大帝国となりますが、1533年にスペイン人に滅ぼされ、終焉をむかえる事になります。

太陽活動で見ると

 以上を、太陽活動に照らし合わせてみます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

12世紀頃のクスコへの移住とクスコ王国の成立は、中世極大期への回復の中で起こったと言えそうです。

シュペラー極小期への低下とそこからの回復の始まりの中で、帝国化がされ拡大への道を歩む事になります。

最初に朝廷を中心とする全国的な社会システムが有った日本と異なる点はありますが、シュペラー極小期からの回復の中で拡大していったというのは、最終的に全国統一を目指した戦国時代と似ており、面白い所です。

このままいけば、徳川政権のように長期に渡って続いたかもしれませんが、不運にもスペイン人がやって来てしまった訳です。


 当然とはいえ、太陽活動の変化は全世界的な規模で影響を与えている事が確認出来たといったところでしょうか。


ではでは

マヤ文明と太陽活動

マヤ文明と太陽活動について考えた話です。

 

 

南北アメリカ大陸の文明

 マヤ文明という事ですが、実のところ南北アメリカ大陸の文明に関しては、よく知らないというのが偽らざるところです。

南北アメリカ大陸の文明と聞いて思い浮かぶのは、マチュピチュ、巨大なピラミッド、インカ帝国といった程度でした。

調べてみると、マチュピチュインカ帝国ですが、ピラミッドで有名なテオティワカンは、そのままテオティワカン文明だったりします。

という事で、先ずは各文明の時間・地理的な関係を見て見ます。

 

引用元:[2. アジア・アメリカの古代文明] 13.南北アメリカ文明 | 世界の歴史まっぷ

私的に意外だったのは、インカ帝国が南米に位置する以外は、残り全てが中米周辺に集まっている事です。

南北アメリカ大陸の文明のゆりかごは中米地域だったという事でしょうか。

その中で一際目立つのが、日本の縄文時代にあたる時期から長く続いたマヤ文明です。

という訳で、今回はマヤ文明と太陽活動について考えます。

マヤ文明の歴史

 マヤ文明に関しては、数々の遺跡の発掘と、マヤ文字の解読(完全ではないようですが)により比較的解明が進んでいるようです。

紀元前2000年頃から土器が使われるようになったようです。

紀元前4世紀までに徐々に都市が形成されていきました。

その後、都市の大規模化が進んだようです。

AD100年から250年は大変動期で、大都市が放棄されたり、多くの都市が衰退したりしました。

250年から550年にかけては、それ以前の大変動期を生き残った都市が覇権を争います。

550年から830年には、さらに多くの都市国家が発展し攻防を繰り返します。

その後、中部地域の都市が衰退していったようです。

950年以降には、北部のチチェン・イッツァを中心として栄えます。

その統治は、1524年にスペインの支配下にはいるまで続きました。

太陽活動で見ると

 以上を、太陽活動に照らし合わせてみます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

先ず、紀元前4世紀以降の都市の大規模化は、ギリシャ極小期からローマ極大期への回復の中で起ったと考えられそうです。

そのローマ極大期からの活動の低下の中で、100年から250年の大変動期には言った事になります。

その後のショルダー部分から中世極小期への変化の中で、大変動期潜り抜けた都市が覇権を競います。

続く中世極小期からの回復の中で、多くの都市が発展します。

その後の中部地域の都市の衰退については、回復中のショルダー部が関係しているとも考えられますが、詳細は分かりません。
この辺りは、研究でも様々な原因が提唱されているようです。
もう少し調べてみる必要がありそうです。

ショルダーから中世極大期への回復の中で、北部のチチェン・イッツァを中心として栄える事になります。

その後1524年にスペインの支配下にはいる訳ですが。
単に軍事力の差が有っただけではなく、中世極大期からシュペラー極小期への活動の低下の中での衰退の影響が有ったと思われます。

その状況下で、スペイン人がやって来たというのが不幸だったという事でしょうか。


私的には、南北アメリカ大陸の文明の全体像が確認出来た回でした。


ではでは

将棋・囲碁とAI

将棋・囲碁とAIについて考えた話です。

 

 

結局観るだけ

 将棋と囲碁については、ほとんど素人なのを良い事に、いくつかの記事を書いて来ました。

振り返ってみると、見当違いの話も少なからず有り、誠に汗顔の至りです。

その後どちらも少しばかり齧って、理屈をこねてはみたものの、どうやらどちらも才能やセンスといったものはない事が分かっただけだったりします。

結局、将棋も囲碁もTVやネットで対戦を見るというところに落ち着いています。

将棋については、基本的な戦法や囲い、手筋については見れば分かるという状態にはなったので、それなりに楽しめるようになりました。

それに対して囲碁に関しては、相変わらずよく分からないままで、将棋程の回数は観ていません。

多少、布石や定石を齧っても、やはりプロの対戦を観るとよく分からない事の方が多いというか、ほとんど分からなかったりします。

囲碁については、それなりに打てるようにならないと、人の対戦をみても面白くないという事なのだと思います。

この辺りが、将棋の「観る将」という呼称があっても、囲碁に「観る碁」等の呼び方がないことの理由なのでしょうか。

そんな、グダグダな観るだけなんですが、それなりに観ているうちにAIとの関係性のようなものが見えた気がするので、今日はその話です。

AIの導入

 ご存知のように、しばらく前から将棋も囲碁も、プロよりもAIの方が強いという状況になっています。

プロでもAIを導入している人が多いようです。

そのため、最近の囲碁も将棋も、いかにAIの打ち方を研究しているかの競争になっている節が有るような気がするのです。

まあ、現実問題としてAIの方が強いわけですから、勝たなければならないプロとしてはしょうがないのかもしれないですが。

その結果、どうもプロが優等生ばかりになりそうで、どうなのかなと思うのです。

結局、AIの打ち方、指し方をよく研究した人が勝つと言う事になっている訳です。

AIが教科書のような役割を果たしていると言えます。

研究ではなくお勉強

 これでは、囲碁や将棋の研究をしているのではなく、お勉強をしていると言えないでしょうか。

各タイトルの挑戦者を決めるリーグ戦などは、大学入試のセンター試験に相当するとも言えるかもしれません。

教科書の事をよく勉強をした人が勝ち上がるという訳です。

そうなると各タイトル戦は、各大学の2次試験という事になるでしょうか。

あくまでも、お勉強が一番出来る人という事になりそうです。

それも面白くないことは無いのですが、お勉強ではなく研究の成果もみてみたい気がするのです。

それが、AIを超える考え方なのか、全く違う方向からのアプローチによるものなのかは分かりませんが。


 才能の無い部外者が、好き勝手に言いたい放題の回でした。


ではでは