モンゴル帝国と太陽活動について考えた話です。
今回はモンゴル帝国
前回は古代ローマと太陽活動についての話でした
古代ローマと言えば、どうしてもローマ帝国という事になりますが、その帝国繋がりという事で、今回はモンゴル帝国について考えて見たいと思います。
モンゴル帝国
モンゴル帝国は、ご存知のようにあのチンギスハーンが興した帝国という事になります。
諸部族に分かれて割拠していたモンゴル高原を統一したのが、1209年でした。
そのモンゴル高原ですが、モンゴル帝国以前にも統一されていた時期が有ったようです。
回鶻可汗国(かいけつかがんこく)という名前で、744年 から 840年まで存続していました。
その滅亡後は、チンギスハーンが統一をするまで諸部族が割拠する状態が続いたようです。
モンゴル帝国は、チンギスハーン亡き後も後継者たちにより領土の拡大を続け、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げました。
その後、さしもの大帝国も14世紀には衰退期を迎え、1368年に明王朝により中国から撤退を余儀なくされ、1635年の北元滅亡により終焉を迎える事になりました。
遊牧と太陽活動
いつものように太陽活動の図に照らし合わせてみるのですが、今回はその前に少し、遊牧との関係を考えて見ます。
これまでは主に、太陽活動の変化による気候変動が、農耕を基盤とする社会に影響を与えるという前提で考えてきました。
ところが、モンゴル高原の諸部族は基本的に遊牧生活が社会基盤でした。
太陽活動と遊牧の関係はどうでしょうか。
一般的に遊牧では、羊などの草食動物が利用されます。
草食動物が餌とする草の生育は、当然気候変動の栄光を受けるはずですので、遊牧生活も気候変動、ひいては太陽活動の変化に影響を受けると言っていいでしょう。
特に太陽活動の回復期の気候の安定は、遊牧による生産性の安定化と向上を生じ、軍事行動を起こす余裕をもたらしたと考えられそうです。
太陽活動で見ると
以上の事を前提として、太陽活動との関係を見て見ます。
回鶻可汗国による744年 から 840年までの統一は、中世極小期からの回復期に生じたと考えられます。
その滅亡に関しては、中世極大期への回復途中のショルダー状の部分に当てはまりそうですが、ショルダー部分の変化に関する情報が不足で何とも言えないところです。
チンギスハーンによるモンゴル帝国の建国は、中世極大期に至る中で起こったと言えるでしょう。
その後の太陽活動の低下の中で国力が低下していき、シュペラー極小期に向かう中で中国からの撤退を余儀なくされます。
そして、次のマウンダー極小期への低下の中で、終焉を迎える事になったと考えられそうです。
それにしても、馬でユーラシア大陸を縦横無尽に移動したというのは、軟弱な現代人としては実感が全く湧かないんですよね。
ではでは