江戸時代と太陽活動について考えた話です。
前回の話とその次
前回の話は、鎌倉時代と室町時代の太陽活動との関係を考えた話でした。
同じ関東出でありながら、武骨な鎌倉時代とどちらかと言えば公家的な室町時代の武士のあり方が、太陽活動の影響を受けたものでは無いかという話でした。
室町の次は、前回の話にも書いたように戦国時代になる訳ですが、これについては以前に記事を書いています。
シュペーラー極小期へ向けての太陽活動の低下の局面で戦国時代が始まり、その後の回復期に信長、秀吉、家康等の一般に戦国時代と聞いて思い浮かぶ時期を経て、1600年関ヶ原の戦いでピークを迎えたという話でした。
江戸時代と太陽活動
さて時代は徳川家による江戸幕府の時代へと入っていくことになります。
上の太陽活動の図を見ると1700年付近にマウンダー極小期(Maunder minimum)と呼ばれ活動が低下した時期が有る事が分かります。
より詳細には、1660~1715年の75年間程極小期が続いたようです。
この時期は、やはり気温が低かったようです。
例えば、現在では考えられませんが、淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともあったようです。
この期間に社会的に不安定になり、結果明治維新につながりました。
という事であれば言う事は無いのですが、勿論そんな話はありません。
明治元年は1868年ですから、さすがにこの極小期の影響だとは考えられません。
という事で、どうも江戸時代においては、それ以前までの歴史に見られるほど太陽活動の影響がないように思われます。
技術と社会の発達
これまで本ブログでは、太陽活動の低下による気候変動により、社会的に不安定になり、その結果歴史的な転換点となったと考えてきました。
社会的な不安定を招いた要因として、主に農業を始めとする経済活動に対する影響を想定してきました。
どうも江戸時代においては、こういった考え方が成り立たなくなっていたようなのです。
農業の不振と言えば飢饉という事になりますが、江戸時代を通じて最大の飢饉と考えられている「天明の大飢饉」は、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に発生しています。
上の図で見ると、太陽活動の回復期に当たっていることが分かります。
太陽活動が低下したために飢饉が発生したという訳ではないのです。
因みに「天明の大飢饉」については、浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火などがその要因として考えられているようです。
この事は、太陽活動の低下のような徐々に起こる変化には対応出来た事を示しているとも考えられます。
また「天明の大飢饉」においては、上杉鷹山の米沢藩や松平定信の白河藩では餓死者が出なかったように、このころには飢饉も政策により避け得るものになっていたのです。
つまり江戸時代には、太陽活動の低下による気候変動による影響を、それまでの時代に見られた程には受けない程度にまで、技術的、社会的に高い水準に到達していたということだと考えられるのです。
因みに、江戸時代の発展は、大量の武士が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じた事が要因のひとつとして考えられているようです。
やはり平和な方が良いということですよね。
ではでは