人類の進歩について考えた話です。
拡散は受動的
前回の話は、人類が比較的短い期間で世界中に拡散した理由についてでした。
リンク:人間が世界中に拡散した理由
その理由については、よく言われるように知的な好奇心によるのではなく、環境の悪化により生活が出来なくなった事から逃れるためだったと考えました。
山の向こうや海の向こうに何が有るのか知りたかったのではなく、山の向こうや海の向こうに行けば何とかなるかもしれないと思ったからだったという訳です。
人類の拡散は、どちらかと言えば環境の変化に対応する形の受動的なものだったのではないかというものでした。
太陽活動との関係でも
本ブログでは、これまでいくつかの記事で太陽活動と歴史的な出来事の間の関係を考えて来ました。
そのほとんどの場合に、よく似たパターンが有る事が見て取れました。
先ずは、太陽活動の低下がおこることから始まります。
低下の結果、気温の低下を伴った気候の変動が生じます。
それにより主に農耕が打撃を受け、農耕を基盤とする社会システムが大きな打撃を受けたり、より影響が大きい場合にはシステム自体の崩壊が起こります。
その後、太陽活動の回復の中で、社会システムの再構築や、場合によっては新しいシステムが作られたりするのです。
その担い手がどういう人々なのかで、様々な様相を呈することになります。
日本での武士の台頭や、ユーラシア大陸でのモンゴルの台頭だったりするわけです。
人類の進歩
人類の歴史を考える時に、基本的な見方として、古代から現代に向かって進歩してきたという捉え方がされます。
進んで歩むと書いて「進歩」という訳ですから、その根底には人類自ら能動的に動いた結果として歴史が作られていくという考え方が有るように思われます。
しかし、上に書いた事を観ても分かるように、実際のところはそうではなくどちらかと言えば受動的に環境の変化に対応した結果が、人類の歩みで有るように思えるのですが。
という事なのですが、現在もそうかと言えばそうでもなさそうです。
太陽活動から自由に
以前の記事で、江戸時代と太陽活動の関係を考えました。
江戸時代になると、太陽活動の変動は有りましたが、それにより幕藩体制が崩壊するようことは、無かったのです。
どうやら、ある程度の技術的、社会的なレベルになると、環境の変化に対応出来るようになるという話でした。
太陽活動の変化からある意味自由になった訳です。
当然、現代もそういったレベルに有ります。
そういった中で、人類は進歩していく生き物だという考え方が出て来たと考えられそうです。
人類は、「能動的に進歩していく生き物」では無いのかもしれません。
そういえば、前回の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったことを思い出しました。
ではでは