中世ヨーロッパと太陽活動について考えた話1です。
ギリシャ、ローマの次は中世
これまで本ブログでは、古代ギリシャ、古代ローマと太陽活動の関係について考えてきました。
この後ヨーロッパは、いわゆる中世の時代へと入っていくことになります。
そして考える時に参照してきた例の図を見ると、中世極小期と中世極大期と、中世の名を冠したものが2つも有ります。
という訳で今回から、中世と太陽活動の関係について考えてみたいと思います。
中世前期
ヨーロッパ史では、中世を「中世前期」「中世盛期」「中世後期」の3つの時代区分に分類しているようです。
今回はこの中の最初の「中世前期」について見てみます。
「中世前期」は、おおよそ5世紀から10世紀を指す時代区分とされているようです。
古代ローマ帝国が東西に分裂した後、西ローマ帝国の帝政が終わったのが紀元476年ですから、概ねそれ以降を指していることになります。
西ローマ帝国の衰退・滅亡については様々に研究されていますが、大きな要因として指摘されているのが、人口減少と民族大移動です。
その最後の200年程でローマ帝国の人口は、その最後の200年程で6500万人から5000万人に20%以上減少したと見積もられている様です。
それに加えて、フン族の移動による圧迫を受ける形でゲルマン人がローマ帝国内に移動して来た事が大きく影響したと考えられています。
引用元:gelman
大移動が6世紀末に終わり各地に定住することになりました。
その後、フランク王国による統一を経て、現在の西ヨーロッパの基礎が形作られました。
この時期に、文明の担い手が地中海沿岸から西ヨーロッパに移ったのです。
太陽活動で見ると
以上を、太陽活動の図に照らし合わせてみます。
西ローマ帝国滅亡の要因と考えられる人口の減少とフン族、ゲルマン人の大移動ですが、ローマ極大期から中世極小期に向かっての活動の低下の中で起きていることが分かります。
特に300年から700年にかけては地球規模の寒冷化があり、農作物の収穫が減少した様です。
それにより、ローマ帝国内では人口が減少し、フン族、ゲルマン人は生活基盤を脅かされて、より温暖な血を求めてローマ帝国内へ移動したと考えられそうです。
その大移動も、中世極小期以降の活動の復活とそれに伴う気候の回復の中で終了し、定住に向かったという事になります。
その後のフランク王国の全盛期が、800年に即位したカール大帝の頃だという事を考えると、中世極大期前のショルダー部への回復期の中で西ヨーロッパの基礎が形成されたと言えそうです。
授業で習った時には、ゲルマン人がどうしてこんなに大移動をしたのか不思議だったのですが、個人的には今回の話で納得がいきました。
ではでは