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中世ヨーロッパと太陽活動2

中世ヨーロッパと太陽活動について考えた話2です。

 

 

前回の話

 前回は、ヨーロッパの「中世前期」と太陽活動の関係を考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「中世前期」の前半は、中世極小期に向かう太陽活動の低下による気候変動の中で、人口低下とフン族、ノルマン人などの民族大移動により、西ローマ帝国が衰退、滅防止して行く歴史でした。

後半は、中世極小期から中世極大期へ向かう太陽活動の回復の中で、大移動の終了と定住が進むというものでした。

その中でノルマン人のフランク王国による西ヨーロッパの統一を経て、現在の西ヨーロッパの基礎が形作られたという話でした。

今回は、その後の「中世盛期」についてという事になります。

中世盛期

「中世盛期」ですが、時期的には11, 12, 13世紀になります。

その「中世盛期」ですが、「中世前期」と「中世後期」に挟まれた期間にもかかわらず、「中期」ではなくわざわざ「盛期」と呼んでいるところに全て現れていると言っていいようです。

前回の話でも見たように、西ローマ帝国の滅亡には人口の減少が影響していました。

それに対して、この「中世盛期」の特徴は大幅な人口の増加という点にあるようです。

当然、人口増加を背景に社会的、経済的な発展をしました。

それのみならず、この時期には、十字軍やレコンキスタのようにイスラム勢力に対する攻勢という点もみられました。

この背景にも、単なる宗教的なものだけではなく、人口増加に伴う拡張的な面も有ったと考えられているようです。

ただし一方では、13世紀中頃にモンゴル帝国の侵攻を受けるといった事も起こっています。

太陽活動で見ると

 以上の事を、太陽活動との関係で考えます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

全ての背景になっている大幅な人口増加は、明らかに中世極小期から中世極大期への回復の中で生じています。

特に時期的に、途中のショルダー部分以降の急激な回復期の影響によるものと考えられそうです。

そんな中で水を差すように、モンゴル帝国の侵攻という事件が勃発したのですが、単に間が悪かったというわけではないようです。

以前の記事で、モンゴル帝国と太陽活動の関係について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

1209年のチンギスハーンによるモンゴル帝国の建国は、まさに同じ中世極大期に至る中で起こったのです。

その後にヨーロッパへの侵攻が行われた訳で、決して偶然間の悪い時に攻めて来たのではなく、中世極大期への回復の全地球的な影響の中で生じた事だったという事が言えそうです。。


 各地域の歴史を、太陽活動を通した世界史として捉え直すのも面白そうです。


ではでは