横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

なぜ『六国史』で終わったのか

六国史』以降に「正史」が作られなかった理由について考えた話です。

 

 

疑問

 わが国には、天帝による「革命」により王朝が交代するといったような世界観は有りません。

そのため、その「革命」の必然性を示すために作られた、中国の『二十四史』のようないわゆる「正史」を編纂する必要性は有りません。

さらに大和政権は一系の天皇家が続いていることから、王朝の交代そのもの無く、そういった意味でも、「正史」は必要ない事になります。

では、わが国の「正史」とされている『六国史』は何のために編纂されたのでしょうか。

という疑問から、『日本書記』から『日本三代実録』まで、その編纂理由を考えて来ました。

結論とさらなる疑問

 改めて振り返ってみると、『六国史』のいずれも、権力を握った藤原氏とその藤原氏と関係の有った天皇の正当性を示すために編纂されたということになりそうです。

その後、藤原氏は支持の表舞台から退くことになり、その結果『六国史』の後に、新たな史書は編纂されることは有りませんでした。

ということになれば、きれいに纏まるところなんですが、現実はそんなに甘く有りません。

日本三代実録』の関係者である藤原基経の後も、藤原氏、その中でも藤原北家が優位を保ち続けます。

そして、百年以上後の藤原道長の時代に最盛期を極めることになります。

あの、「この世をば」から始まる歌を詠んだ道長です。

藤原北家の時代が連綿と続いたのです。

では、なぜ『六国史』の後に「国史」は作られなかったのでしょうか。

律令制の時代だった

 天皇も、当然の事ですが、連綿と続いています。

すると残るのは、正当性を示すためという目的だけです。

正当性を示す必要性を無くすような状況が生じていたのでしょうか。

『六国紀』の編纂時期から、道長の時代も含め、当時の国家体制は律令制でした。

中国唐の制度を基に、天皇を中心とする官僚制度などの国家体制を構築したものです。

官職の独占

 その官僚制度ですが、貴族政治が進展していくにしたがって、特定の官職を特定の氏族が独占、世襲するようになります。

代表的なのが、ご存知藤原氏で、藤原北家が長らく権力を継承したことにより、摂政・関白は藤原北家が独占し、後に五摂家に分かれ、その権利を継いでいくことになります。

ちなみに、五摂家以外に唯一関白の地位に付いた例外が、あの豊臣家らしいです。

その他にも、安倍清明で有名な陰陽師のトップ陰陽頭には、安倍氏賀茂氏が就くといった具合です。

さて、そうなると、ある氏族に生まれたこと自体が就任の条件になる訳ですから、その正当性を示す必要性は全くない事になります。

さらに、その後の武家の時代は、「勝てば官軍」で、改めて正当性云々を主張する必要は無かったと考えられます。

という訳で、『六国史』以降に「正史」が作られることは無かったという事だと思います。


 いやぁ、『六国史』がらみは、藤原だらけですが、なかなか面白かったです。


ではでは

記憶の仕方

記憶の仕方について考えた話です。

 

 

面白い記事

 記憶に関連した、チョット面白い記事が有りました。

nazology.net

同記事によると、ピアノの練習のような新しいスキルを習得する場合、頻繁な休憩を行うと効果的な上達ができるという事のようなのです。

詳しくは記事を読んでもらうとして、試験の方法は次のようになります。

 1.簡単な数列を10秒間で出来るだけ入力する。
 2.10秒間の入力と10秒間の休憩を1セットとし、35セット行う。
 
その結果、入力している間に上達は見られなかったのが、休憩するたびにスキルの向上がみられたのです。

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引用元:練習中ではなく「頻繁な休憩」がスキルを上達させると判明 - ナゾロジー

 

その原因は、同時に行った脳波の測定から、練習中に似た波形が休憩中に高速に何度も繰り返されていることに有ると考えられました。

本人が休憩していると考えていた間に、脳内部では高速に何度も復習をしていると考えられるのです。

色々な記憶

 さて、記憶に関しては、現在の所おおむね次のように分類されています。

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引用元:記憶のモデル | 勉強のプロセス

 

ここまで書いてきた内容は、この中の「手続き的記憶」に関する話という事になります。

「意味的記憶」も同じ

 ところで、よく勉強に関連して、記憶力が悪くて困るといった時の記憶は、「意味的記憶」です。

その「意味的記憶」についても、英語で例文を覚える時などに、午前中は上手く覚えれなかったのに、午後になってもう一度やったらすんなりと覚えられたとか、一晩寝たらなぜか覚えていたとかいったことが有ります。

という事は、この2種類に分類されている記憶も、内部処理としては、同じようなことをやっているらしいという事になりそうです。

残りも同じ

 実は個人的には、「エピソード記憶」に関しても、同様の処理をしているのでは無いかと思っています。

エピソード記憶」については、意識的に記憶するという事をおこなわなくても記憶してしまうと考えられる訳ですが、実は脳の内部的には、同じように無意識に繰り返しす事により、記憶されているのではないか思うのですが。

ただし、そのきっかけが何なのかは、よく分からないのですが。

のこる「プライミング」に関しては、無意識の記憶だけに確認は難しそうですが、ここまで来れば、これも同じように処理されている可能性は高いと思われます。

記憶の基本的処理

 つまり、多少強引ですが、これまで分類されてきた様々な記憶は、内部処理的には同じように取り扱われているという事になります。

短期記憶から長期記憶への変化は、元も基本的な処理で、その先の処理がそれぞれ異なる進化を遂げてきたのかもしれません。

それに合わせて、脳が複雑化してきたという事は無いでしょうか。

回数をこなせば

 と色々妄想は膨らむばかりですが、最後にもう少し現実的な事を一つ。

結局の所、今回分かったのは、意識的か無意識的かにかかわらず、回数をこなす事によって記憶されているらしいという事です。

無意識に回数をこなさせる方法は、今回の内容からでは分からないので、当面は意識的に回数をこなして、短時間か一晩かは別にして、休憩を取れば、効率的に記憶できる可能性が高いという事になりそうです。


 もちろん、どうやって回数をこなすのかが大きな問題なんですけどね。


ではでは

港と湊とヤマト

港と湊からヤマトについて考えた話です

 

 

港と湊

 久しぶりの邪馬台国がらみの話です。

ふと、「港」と「湊」に違いは有るのか無いのか気になって調べていたんですが、Wikipediaで、次のような記述を見付けました。

湊(みなと)は「水の門」を意味し、『古事記』や『日本書紀』では「水門」と書かれる。
引用元:湊 - Wikipedia

つまり、川や海の水に向かって開かれた門のような場所なので、「水門」と書いてミナトという訳です。

それが現在では、「湊」として使われているという事のようです。

因みに、「港」に関しては、同じページに

古くは、港湾施設のうち水上部分を「港」、陸上部分を「湊」と呼んだ。

との記述が有りました。

昔は、ミナトの水の部分を「港」、陸の部分を「湊」と区別していたようです。

それが、今では同じ読みで、ほぼ同じ意味で使われていると考えていいようです。

山の門

 さて上に書いたように、「ミナト」が「水の門」であるならば、「山の門」は「ヤマト」ではないかというのが今日の話のポイントです。

昔は、山への入口にあたる場所を、「山の門」から「ヤマト」と呼んでいたのではないか。

その中の一つに邪馬台国が有り、倭人が「ヤマト」と言ったのを聞いて、中国人が「邪馬台」と当て字したのでなかったか。

私の説では、その邪馬台国が東遷して、大和(ヤマト)になるという事になります。

ヤマト=邪馬台

 そう考えて調べると、有りました。

チョット長くなりますが、引用します。

奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない。
引用元:倭 - Wikipedia

「山門(ヤマト)」が山の入口で、その一つに邪馬台国が有ったと考えるのも、それほど的外れではないようです。

山門郡

 上の引用中に出て来る筑紫の「山門」というのは、福岡県の山門郡の事で、邪馬台国の候補地の一つとなっています。

山門郡は、平成の大合併により、郡そのものが現在は有りませんが、大体柳川市みやま市の辺りとなるようです。

位置的には、福岡県でも南西部(赤丸:筆者追記)に位置し、有明海に面しています。

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引用元:福岡県 都道府県から地図を検索|マピオン

 

その周辺を、以前の記事でも使ったこのとある赤色地図で見てみましょう。

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出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

有明海から上陸して、山間部に入っていく入口で「山門(ヤマト)」という事が分かります。

宇佐はヤマトか

 では、私の推す宇佐はどうでしょうか。

同様に、赤色地図で見てみます。

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出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

どうでしょうか、水辺に面しているわけではありませんが、左右の狭隘部分を通って宇佐神宮から南の山間部に入っていく入口という事で、十分「山門(ヤマト)」と言って良いのでは無いかと思うのですが。

 


最後の結論に関しては、本人的には納得しているのですが、身びいきのバイアスが有るという批判は甘んじて受けます。

 


ではでは

思いもかけず中国大返し

思いもかけず中国大返しについて考えた話です

 

 

大坂冬の陣図屏風

 TVで歴史関連の番組が有る時には、基本的に録画しておいて見ることにしています。

いつものように、溜まったバックログを消化していたんですが、思いもかけずに、中国大返しに関係する情報を見つけたので、それについての話になります。

そのバックログは、NHKの「英雄の選択」という番組の、「大坂冬の陣図屏風」に関する回でした。

再放送で、最初の放送の時に見た記憶があるので、見るともなしにBGM代わりに流していました。

大坂冬の陣図屏風」とは、その名の通りに、大坂冬の陣の情景を屏風にしたものですが、原本は失われて、下絵のみ伝わっているようです。

それを、彩色して復元したことにより、新たな謎が出て来たという事で、それについての番組になります。

最大の謎は、豊臣家滅亡後に豊臣方優勢の場面を描く屏風がなぜ作られたのか、そして作らせたのは誰なのかという点になります。

秀忠も候補者

 発注者に関しては、豊臣側、徳川側それぞれに色々と候補者が出て来るのですが、その中に、徳川2代将軍の徳川秀忠も登場します。

徳川側のそれも将軍なのにどうしてという事ですが、その原因は、関ヶ原の戦いに遡ります。

秀忠は、関ヶ原の戦いの時に、途中の信州上田城真田昌幸を攻めあぐね、開戦に間に合いませんでした。

そこで、本隊を任された大坂冬の陣では、名誉回復を図るべく臨んだのですが、結局中心となったのは家康でした。

そこで、あえて、豊臣優勢の絵図を描かせたのではないかという訳です。

今回の眼目は

 発注者が秀忠だという説は、なかなか面白いのですが、今回の眼目はそこに有りません(ここまで引っ張ってなんなのですが)。

問題は、大坂冬の陣での秀忠の行動を説明した部分に有りました。

上にも書いたように、秀忠は、汚名挽回とばかりに気合十分で臨んでいました。

その気合が空回りしてしまったのか、6万の軍勢を率いて出陣したのですが、異常に早く軍を進めたというのです。

そのスピードは、江戸から今の愛知県豊橋までの290キロを、なんと6日!で行軍したらしいのです。

もっとも、京都についた時には、兵は疲労困憊で、家康はひどく御立腹だったらしいですが。

より具体的な例が

 中国大返しに関しては、それに関する記録が無いのは、当時の人間から見れば、それほど特筆すべき事では無かったからだという論を展開しました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところが、上記のように、疲労度は別にして、6万の軍勢が290キロを6日で行軍可能だった訳です。

これに比べれば、秀吉の中国大返しにおける、2万の軍勢による10日で200キロは、全く常識的な範囲の行軍という事になりそうです。

その程度の事だったのが、その後に秀吉が天下を取ったために、「中国大返し」と呼ばれるれる事になってしまったということなのでしょう。

 


 今回の番組の初回放送は2019年8月のようですから、まだこのブログで「中国大返し」を取り上げる前になります。
だからなのか、秀忠の行軍の件は、全く不意打ちでした。
その時の興味の対象でないと、こうも記憶に残らないものなんですねえ。

 


ではでは

『日本三代実録』

日本三代実録』について考えた話です

 

 

日本三代実録

 六国史の最後となりました。

これも名称から判る様に、清和、陽成、光孝の56代から58代の3代の天皇について纏められたものとなります。

これまで見てきた他の六国史と同じように考えてみましょう。

編纂を命じたのは、光孝天皇の次代59代宇多天皇です。

ここで、時の権力者はとなるところなのですが、チョット問題が有ります。

宇多天皇が887年に即位した時点での権力者は、藤原基経でした。
史上初めて関白となった人物です。

しかし、四年後の891年に亡くなってしまいます。

それに対して、宇多天皇が編纂を命じたのは、はっきりとはしていないのですが、編纂を命じられた人物の官位から、893年か894年と考えられているようです。

そうなのです、基経の死後に編纂が始まったことになるのです。

宇多天皇自らが望んだ

 基経が亡くなった時、彼の長男時平はまだ21歳であり、権力を引き継ぐには若過ぎました。

そのためか、基経の死後、摂関を置くことはなく、宇多天皇の親政となりました。

その親政を支えた一人が、あの菅原道真で、『日本三代実録』の編纂にも名を連ねています。

もっとも、その道真は、最終的に大宰府に流され亡くなってしまうのですが、それはまた別の話です。

という事で、『日本三代実録』の編纂は、宇多天皇自らが望んだもののように思われます。

三代の天皇

 ここで、関係する天皇系図をご覧ください。

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引用元:宇多天皇 - Wikipedia

 

日本三代実録』で取り上げられた、三代の最後の光孝天皇の代で、皇統が移動していることが分かると思います。

更に、三代の天皇の出自を見てみます。

清和天皇 父:文徳天皇、母:藤原明子(藤原良房の娘)
陽成天皇 父:清和天皇、母:藤原高子(藤原基経の同母妹)
光孝天皇 父:仁明天皇、母:藤原沢子(藤原基経、高子の伯母)

文徳、清和と、良房、基経親子にとって外戚としての権力の源とも言える皇統が続いていたのに、それを継続できなかったのは、基経と陽成天皇の母高子の間の関係に有ったようです。

二人は兄妹でしたが、関係が悪かったようなのです。

そのため、どちらの側も、相手に利するような人物に後を継がせるのを良しとせず、結果として選ばれたのが、光孝天皇という事になります。

一応、基経、高子のいとこにあたるので、藤原氏の一族ではありました。

皇統の移動と『日本三代実録

 光孝天皇は、そのあたりの背景から、自分の後には陽成天皇の弟がなると考えていたようですが、基経と高子の関係からか、皇太子が決まらないまま、病気になってしまいます。

そのため、結果的には自分の息子を立太子させることになります、後の宇多天皇です。

こうして、図らずも皇統が移動することになりました。

そして、上記したように、基経は、宇多天皇が即位して早々に亡くなってしまいます。

そうなると、宇多天皇にとっての心配は、基経と牽制しあっていた形の高子側の出方ということになります。
再び、皇統を基に戻そうとする可能性を無視出来なかったでしょう。

日本三代実録』は、これらの動きを封じるべく、光孝、宇多の皇統の正当性を示すために、編纂されたのだと思います。


 兄妹げんかも、「骨肉相食む」ところまで行ってしまうと色々と大変なのは、今も昔も変わらないという事でしょうか。


ではでは

『日本文徳天皇実録』

日本文徳天皇実録』について考えた話です

 

 

日本文徳天皇実録

 六国史5冊目ですが、名称を見て一目瞭然、『続日本後紀』に続いて、文徳天皇のみを対象とした一代記です。

という事は、仁明天皇から文徳天皇に続いて、文徳天皇から次の清和天皇への皇位継承にも、正当性を示さなければならない事情が有ったと考えられることになります。

前回の記事で、先代仁明天皇から文徳天皇への皇位継承に絡んで、『続日本後紀』が、急遽仁明天皇一代記として編纂されたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

時の権力者藤原良房の甥である仁明天皇皇位についたわけです。
さらに、その仁明天皇には、良房の娘・明子が入内しており、男子を産んでいます。

まさに、万々歳だったはずです。

仲が悪かった

 良房にとって誤算だったのは、甥であり娘婿でもある、仁明天皇との折り合いが良くなかったという事だったでしょう。

その大きな理由の一つは、やはり後継者問題だったようです。

良房としては、当然外戚の地位を狙っているので、娘の産んだ男子を後継者にと思っている訳です。

問題は、その男子が、仁明天皇の第四皇子だったという事に有ります。

仁明天皇としては、長男を後継者にしたいと考えていたようです。
まあ、親としては普通の感情ですよね。

しかし、実際に皇太子になったのは、第四皇子でした。
その時、僅かに生後八か月でした。
明らかに、良房の圧力だったと考えて間違いないでしょう。

これでは、悪くなるなという方が無理という感じですよね。

決定的な対立では無かった

 最終的に仁明天皇は、皇太子となった第四皇子、後の清和天皇に譲位する代わりに、その清和天皇の皇太子に自分の長男を立太子しようと図りますが、長男の安全を危惧して断念をします。

対立が、抜き差しならない所まで行ってしまったようにも見えますが、改めてよく考えてみると、皇太子である良房の孫への皇位継承については譲歩して、しぶしぶでしょうが認めているとも取れます。

良房側としては、このまま何もしなくても、次に皇太子が天皇に即位するのは決定事項なので、何も問題は有りません。

即位後に、誰を皇太子にするかについては、この仁明天皇の例を見ても明らかなように、何とでもなる訳ですから。

仁明天皇の死により

 そんな状況の中、仁明天皇が突然の病により亡くなってしまいます。
31歳の若さでした。

勿論、践祚して清和天皇に成ったのは、良房の孫である皇太子でした。
わずか9歳での即位でした。

仁明天皇の望んだ彼の第一皇子は、皇太子になることは有りませんでした。

良房の兄の長良の娘高子と清和天皇の間に出来た、第一皇子が後に立太子することになります。

特に問題はなさそうだが

 こう見て来ると、仁明天皇と良房の仲に問題はあったとはいえ、皇位継承に関しては問題が無いように思えます。

にも拘わらず『日本文徳天皇実録』は編纂されました。

これは、良房になにか後ろめたいことが有った事を伺わせます。
今も昔も、やましい事が有る人間は、言わなくても良い事まで語りたがるものです。

それは、ズバリ、仁明天皇の暗殺でしょう。

しかし、確かに仁明天皇は突然の病でなくなるというのは、いかにも怪しいのですが、上で考えたように、直ぐに暗殺をしなければならないような状況には無かったと考えられます。

それなのに、暗殺しなければならないような原因とは何でしょうか。

年齢が問題だった

 それは、良房の年齢だったのだと思います。

仁明天皇が亡くなった時に、良房は54歳で、後に権力を引き継ぐことになる息子の基経は22歳でした。

歴史的な事実としては、良房は68歳まで生きているのですが、それはあくまで結果論です。

この時の良房としては、一般常識的に考えて人生も晩年になり、息子もまだまだ権力を継げる程でなく、権力を継承していくことに焦りがあったと思うのです。

文徳天皇は31歳とまだまだ若く、この先いつ何時心変わりをしてもおかしくありません。

自分が生きている間に、権力の継承を明確にしておくために、暗殺により清和天皇への皇位継承を図ったのでは無いでしょうか。

おそらく、周りにもそういった疑いを持たれていたのでしょう。

それらを払拭、または押さえつけるために、文徳天皇の一代記の編纂を、息子の基経に行わせたのです。


 結局藤原良房は、図らずも三冊の国史を、そのうち二冊は天皇の一代記として、編纂することになってしまったという訳です。


ではでは

もう一度中国大返し

中国大返し」について、もう一度考えてみた話です

 

 

以前の記事

 秀吉を語る上では、外すことの出来ない「中国大返し」については、以前の記事で考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

私の基本的な立場は、秀吉が10日間で二百数十キロを取って返して、明智光秀を打ち負かしたという事実は有るにしても、それが巷間言われているような、常識では考えられない速度での行軍だったというような事は、無かったのではないかというものです。

誰が考えたのか、「中国大返し」という秀逸なキャッチコピーに惑わされているだけじゃないかという訳です。

TVで見た説

  先日も大返しを扱った番組をやっていたので、勿論見たのですが、その番組内で新説として取り上げていたのは、船を使ったというものでした。

武器や武具などの装備一式を着けたままで高速で移動するのは難しいので、装備一式は船で別に送ったのではないかというのです。

一見すると、なるほどその手が有ったかとも思います。

以前の記事にも書いたように、そんなに無理な移動では無かったというのが私の考えなのですが、百歩譲ってそうだったとしても、これはあり得ないでしょう。

なぜなら、前方には信長を討った明智、後ろには毛利という状況で、2万とも言われる軍勢が、丸腰で移動する事は考えられないと思うのです。

途中、周辺の勢力が、秀吉の軍が丸腰で移動しているのを見たら、襲いかかってくることも十分考えられる訳ですから。

当然、秀吉の軍は戦闘態勢を整えながら進軍したはずなのです。

記録が無いのが原因で証拠

 今回の海上輸送を始め、中国大返しについては、その実現方法に関して様々な説が唱えられる訳ですが、その原因は、ひとえに大返しに関する記録が殆どないという事に有ります。

番組を見ながら、この記録の無い事こそが、秀吉の行ったことが、「中国大返し」と言われるほどの大袈裟なものでは無かったという証拠になると思いつきました。

無かったから無いという当たり前の事なんですが。

もし本当に有ったとしたら

 今度は二百歩譲って、中国大返しが有ったとしましょう。

すると、秀吉軍が、常識ではあり得ないほどのスピードで行軍してきたという事になります。

その事実を前にして、全国の戦国大名はどう思ったか考えてみましょう。

当然、ぜひともその方法を知りたいと思ったはずです。

敵対する大名より早く導入できれば、先制攻撃を仕掛けることが出来るかもしれません。

反対に、先に知られれば、思わぬ攻撃を受けることになるかもしれません。

全ての大名が、競ってその方法を知りたがったと思うのです。

記録が残った、はずだ

 そして、その方法を入手した後は、当然記録に残したはずです。

その結果、「太閤神速行軍の法」とでも名付けられて、兵法として伝わっていてもおかしくは有りません。

いやいや、秀吉側は当然秘密にしたに違いない、という反論も有るかと思いますが、それでも少なくとも秀吉の家臣は知っていたわけですから、彼らが記録に残したはずです。

しかし、現実には兵法はおろか、大返しに関する記録そのものが殆ど在りません。

という事は、やはり「中国大返し」は、実際には常識の範囲内の行軍だったという事を物語っているのではないでしょうか。


 勿論、信長死すの報を受けた後の、秀吉の判断力と行動力の非凡さというのは否定出来ないですけどね。


ではでは

『続日本後紀』

続日本後紀』について考えた話です

 

 

続日本後紀

 六国史の4番目にあたる『続日本後紀』ですが、これまでの国史と異なり、仁明天皇の一代記となっています。

ひとつ前の正史である『日本後紀』の記事でも紹介した、仁明天皇関連の系図を見ていただきます。

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引用元:淳和天皇 - Wikipedia

 

54代仁明天皇の皇太子には、53代淳和天皇の息子恒貞親王が立てられました。

藤原良房が、この図にみられるような、平城天皇から続く兄弟血縁間での、皇位の持ち回りとも言える状況を打破して、仁明天皇の第一皇子の道康親王皇位につける一助として編纂したのが、『日本後紀』だったのではないかというのが、『日本後紀』に関する記事の趣旨でした。

道康親王は、良房の甥でもあります。 

 

yokositu.hatenablog.com

 

淳和上皇が840年に亡くなり、その後、嵯峨上皇も重い病に伏すことになります。

その時点で、仁明天皇と良房は、条件が整いつつあると考えたのだと思います。

そこに、彼らにとって予想外の事態が持ち上がったのです。

それは、承和の変です。

承和の変

 淳和上皇とその息子である恒貞親王も、勿論仁明天皇と良房の考えについては、十分すぎる程に分かっていたと思います。

その証拠に、何度も皇太子辞退を申し出て、嵯峨上皇に翻意させられていたようです。

そうこうしているうちに、父淳和上皇が亡くなり、嵯峨上皇も病に伏せってしまいます。

この状況に、恒貞親王の周辺が危機感を抱いたのは当然の成り行きとも言えます。

問題は、その上で彼らが取った方策でした。

恒貞親王を、東国に移そうとしたのです。
これは、皇太子を奉じた反乱と取られても仕方がないでしょう。

企ては、仁明天皇、良房側に知られるところとなり、嵯峨上皇崩御後に、関係者は逮捕、処分が行われました。

恒貞親王は、罪は無かったものとされましたが、皇太子を廃されました。

事件後、道康親王が皇太子となりました。

そこまでは考えていなかった

 以上が、承和の変のあらましですが、一般にこの事件は、藤原氏による他氏排斥の始まりであり、その後の藤原家の繁栄の基礎となったと考えられています。

確かに、結果を見ればその通りなのですが、実は仁明天皇も良房も、そこまでは考えていなかったのでは無いかと思うのです。

上にも書いたように、淳和上皇恒貞親王は、もともと皇太子を辞したいと思っていたわけです。

それを押しとどめていた嵯峨上皇が重い病に伏した状況では、ことさら策を弄せずとも、いずれ事態は、自分たちに都合の良い方に動くと考えていたのではないでしょうか。

策を弄した訳ではない

 そこに降って湧いたような、承和の変です。

後顧の憂いは絶たねばなりませんので、関係者は処分せざるを得ません。

しかしながら、これを外部から見れば、仁明天皇と良房側が、策を弄して邪魔者を排したように見えます。

上記したように、現代でも他氏排斥を狙ったと考える人も、少なからずいるぐらいですからね。

そのため、その疑いを払拭し、それを持って文徳天皇の正当性を示すことを目的に、仁明天皇一代の正史という形で編纂することになったのではないでしょうか。

因みに編纂には、良房自らが当たっています。


 これにてめでたしめでたし、とはいかなかったのですが、そのあたりは、次の正史の記事で。


ではでは

せっかくテレビが有るのだから

テレビの利用方法を考えてみた話です

 

 

最近のテレビ

 最近は、テレビを持っていないという人が、特に若い人を中心に増えてきているようですが、まだまだ多くの家庭に有る事は間違いないでしょう。

特に高齢者の家には有るはずです。

ただ有るだけではなく、地デジと液晶の時代になって以降は、最低でもハイビジョンの解像度は有る訳ですし、大きさも32インチが普通で、50インチ前後が当然のようになって来ています。

ブラウン管の時代からは、隔世の感が有ります。

これを、情報機器の表示用として使わない手はないと思うのです。

インターネット接続

 当然そういった事は誰でも考えるわけで、アップルのApple TV、アマゾンのFire TV Stick、GoogleのChromecast等の、テレビに繋いで使うタイプのものや、アンドロイドテレビのように内蔵したタイプの物などの、インターネットに繋ぐための機器が発売されています。

しかし、いずれも基本的に、YouTubeを始めとする配信動画や音楽を楽しむのがメインの機能で、テレビのチャンネルが増えたのと、さして変わりがない使い方が前面に押し出されています。

とはいえ、それぞれにブラウザの機能もあるようなので、あとは、Webカメラとマイクの機能を装備したらどうかと思うのです。

そうすることで、TVの画面上で、LINE、Twitterに加えて、Zoom等の機能も使えるようになります。

インターフェースを単純にすれば

 その上で、これらの機能を、リモコンからすべて使えるようなインターフェースにするのです。
具体的には、数字、方向、決定のキーだけで使えるようにすることを目指します。
日本語の入力も、ソフトウエアキーボードを上手く作れば、それなりになんとかなるはずです。

スマートフォンを使いこなすのが困難な高齢者でも、テレビのリモコンなら使えるはずです。
それすらも理解できないというのは、また別の話です。

そうなれば、Zoom、LINE、Twitterなどで、離れた場所に住む子供や孫などと気軽にやり取りが出来るようになります。

これらの機能を使った見守りのサービスなども可能でしょう。

オンラインショッピングも、ショップ側のアイデア次第で、いくらでも便利なものに出来そうです。

また、行政的にも、日常的に情報を流して、使ってもらうようにしておき、今回のワクチン接種の予約なども、その情報の中の一つとしてアクセス出来るように設計すれば、利用してもらえるものになりそうです。

上手くいけば、昨今のワクチン予約での、電話回線のパンクや、スマホで予約するのを代行するための窓口といった笑えない状況を、回避出来るかもしれません。

それはPCであってPCでない

ここまで読んで、現状販売されているPCでも出来るんじゃないかと思った人もいるかと思いますが、まったくその通りです。

プログラムさえ作れば、既存のPC、Webカメラ、マイクを使っても同じことが出来ます。

それを、パッケージとして誰でも簡単にテレビに繋げばいいだけにするというのが、この話のミソなのです。

スマートフォンやコンピュータというなにか小難しいものを使うという事は覆い隠して、テレビの機能の延長で、リモコンを操作すれば出来ると思わせることが大切です。

市場は有る

高齢者が使う事になれば、市場としては結構有望だと思うのですが。

先ずは、孫と簡単に顔を合わせることが出来るというところから訴求してはどうでしょう。

より若い層に関しても、そのまま使っても良いわけですし、別のインターフェイスに切り替えられるようにしても良いわけですから、テレワークも有る事ですし、当然動画も見れますし、結構いけるのではないかと思うのですが。

勿論、生徒、学生が、オンラインで学習するのにも使えるはずです。

大袈裟に言えば、テレビの数だけ売れる、かもしれません。

 中身はPCな訳ですから、その関連のメーカーの皆様どんなものでしょうか。
また、TVメーカーとしても悪い話では無いと思うのですが。


ではでは

パジャマスーツ流行らないかな

パジャマスーツから考えた話です

 

 

パジャマスーツ

 パジャマスーツというものを、ご存知でしょうか。

もう一年以上続く新型コロナ禍ですが、それに伴って日常が様々な変化をしてきているわけですが、そんな中の一つに、リモートワークというものが有ります。

会社まで行って、タイムカードを打つことで会社勤めが始まった世代から見ると、ずいぶんと変わったものです。

そんな状況に対応して、紳士服でお馴染みのAOKIが、昨年の11月に発表したのが『パジャマスーツ™』です。

何はともあれ、見てもらいましょう。

 

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引用元:世界中で話題騒然!20カ国以上で報道されたAOKIの『パジャマスーツ™』はかつてないほどの着用シーンを実現!~ビジネス・リモート・カジュアル・ホーム・アスレジャーもこれ1着で解決!~|株式会社AOKIのプレスリリース

 

パジャマのリラックス感とスーツのきちんと感を併せ持つ、という事で、日常のかなりの部分をカバーできるという触れ込みです。

ちなみに、パジャマスーツと呼んでいるのは、ジャケットとパンツのセットアップで、シャツ、ネクタイ、靴下などは別です。

生地的には、ジャージから始まり、サッカー素材のものなども有るようです。

レーニングウェア

 個人的な話をすると、基本的に芸術的とか、美的とかいったセンスには全く恵まれていないので、ファッションについてもほぼ無関心です。

それでも、仕事をしている間は、平日はスーツを着れば事足りたので、特に問題は無かったのです。

あとは、部屋着と若干の外出着が有れば何の問題も有りませんでした。

別にセンスが良いとか言われたいとも思ってないですからね。

それが、リタイアをしてみると、ほぼほぼスーツの出番は無くなってしまいました。

そうなると、毎日着るものが意外と頭痛の種なのです。

試行錯誤というほどの事も無いのですが、色々試した結果、現状ではほぼトレーニングウェア(いわゆるジャージです)で過ごすことが多いです。

まあ、細かい意味合いはちょっと違いますが、一時期言われた干物女のような生活をしているわけです。

日常的にもこれだけで

 真夏は別ですが、パジャマ替わりで問題ないですし、トレーニングウェアなので外にも出れます。

日常はこれで問題ないのですが、チョット改まった時に、何を着るかいちいち考えるのが面倒だと常々思っていたのです。

年取ってきた証拠だとか言われたりもしていますが、全くその通りかもしれません。

とにかく面倒だなと。

そこで、パジャマスーツです。

これで、そのあたりの事がかなりの割合で、解決出来そうじゃないですか。

一着もっていても良いかなと。

ただ、少しスーツに寄り過ぎているかなとも。

もう少し、カジュアル寄りのバリエーションもあると、普段使いも出来て、何着か持っていれば、ほかにいらないという感じになりそうなのですが。

 

 という訳で、こういった感じのものをもっと考えてもらえないでしょうか、デザイナーの皆さん。

 

ではでは

『日本後紀』

日本後紀』について考えた話です

目次

日本後紀

 『日本後紀』は、桓武天皇の治世の途中までを記録した形の『続日本紀』の後を受ける形で、桓武天皇の残りの治世と、平城、嵯峨、淳和の、三代の天皇の治世について纏めたものとなります。

淳和天皇の後を継いだ、仁明天皇の在位中の841年に完成しています。

これまで本ブログで考えて来た事から類推すると、仁明天皇またはその時の権力者の意向で作られたという事になります。

仁明天皇系図

 何はともあれ、仁明天皇と『日本後紀』で取り上げられた天皇の関係を見てみましょう。

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引用元:仁明天皇 - Wikipedia

一見して明らかなように、『日本後紀』に纏められた、平城、嵯峨、淳和の三代の天皇は、いずれも、その先代の桓武天応の子息で有り、兄弟の間で譲位が行われたという事になります。

皇位継承に絡んだ過去の事例から考えると、素直に嫡子へ継承するということがなく、いかにも皇位継承の争いが続いたように見えます。

安定していた治世

 現実は、嵯峨天皇が退位後も、上皇として仁明天皇の治世の途中まで存命で有り、影響力を保ったために、政治的には安定した期間だったようです。

そのような状況の中で、仁明天皇の皇太子には、淳和天皇の息子の恒貞親王が建てられました。

またしても嫡子では無かった訳です。

さて、仁明天皇の時代に権力を持っていたのは、藤原良房でした。

彼も、藤原氏の伝統を踏襲するかのように、妹の順子を仁明天皇中宮とします。

そして、その二人の間に、狙い通りに男子(後の55代文徳天皇)が生まれていました。

この後の文徳天皇への皇位継承の実現と正当化の一助とするために、編纂されたのが『日本後紀』だったのではないでしょうか。

皇位持ち回りの打破

 なんとか兄弟間での皇位の持ち回りのような状況を打破して、嫡子相続という形で、自分の甥を天皇につけることにより、権力をゆるぎないものにしようと考えたのだと思います。

それを裏付けるかのように、『日本後紀』が841年に完成した後、長きに渡って君臨した嵯峨上皇が842年に亡くなると、承和の変が起こり、恒貞親王が廃され、後の文徳天皇が皇太子となります。

良房の思惑通りに事は進んだのです。

大筋は、こういった経緯だと思われるのですが、残念ながら『日本後紀』に関しては、応仁の乱の混乱により、全40巻中の10巻しか伝わっておらず、加えて、淳和天皇の代の部分は全て欠けてしまっています。

従って、上記のような事を正当化するような内容が、淳和天皇の代の記述に有ったはずなのですが、その事を確認するための、肝心かなめの部分が欠けていて、確認の仕様が無いという事になっています。

何というか、隔靴掻痒の感は否めず、スッキリしません。

 


 何処かの旧家の蔵辺りから、ひょっこりと写本でも出て来ませんかね。

 


ではでは

英語、日本語、英語の順で

英語の学習法について考えた話です。

 

 

最近のYouTube

 現在ではYouTubeに、これまでは考えられなかった長時間の英語教材がアップされるようになって来ました。

これは、コンピューターを使った音声合成がかなり発展したことが理由の一つでしょう。
何しろ、Windows10にデフォルトで音声合成できる機能がインストールされているぐらいですからね。

例えば、「日常会話、テレビ・ラジオ番組」で話されている英単語の「92%」をカバーする英単語リストのNGLSというのが有るんですが、この動画も有ります。


www.youtube.com

その長さは、なんと3時間31分です。

これほどの長さのものは、人が録音するのは非常に大変でしょうし、無料で公開出来ないでしょう。

良さげな形式

 という訳で、色々と見て回っているのですが、その中で、これは良いんじゃないかという形式のものを見付けました。

それは、英語、日本語、英語の順で作られている形式のものです。

具体的には、こういったものです


www.youtube.com


これで、普通は別々に行わなければならない、リスニングと、音読またはシャドーイングのスピーキングの練習が一度に出来そうだと思ったのです。

最初の英語が流れる時に自然とリスニングをすることになりますし、その後の日本語で、その結果を確認できます。

更に次の英語に合わせて、音読、シャドーイングをすればいいわけです。

しかも、常に動画を見ている必要もなく、聞き取れなかったり、単語が分から無い時だけ見れば良いのです。

ながらで出来そう

 という事で、通勤時間や、家事をやる時などに、ながらでやるのにぴったりでは無いかと思ったわけです。

さすがに通勤時間に、声を出すのはまずいので(特にこのご時世ではね)、せいぜいつぶやく程度にはなるかと思いますが。

とは言っても、私自身はもう通勤することは無くなったので、専ら家事をやりながら聞く事になります。

時間的にも、毎日1時間2時間と時間単位で確保できそうです。
しかも、その他の日常を圧迫することも無くです。

便利な時代になりました。


 英語に関しては、相変わらず、屁理屈先行の実践不足な下手の横好きで、趣味の英語道まっしぐらなのですが、今回はどんなものでしょうか。


ではでは

もう一つの都合のいい話 その2

ビックバンについて考えた話 その2です。

 

 

前回のまとめ

 宇宙マイクロ放射というものがビックバンの証拠とされたのですが、同時に相対論との不整合という問題も生じたため、それを解決するためにインフレーション理論というものが考え出されます。

そのインフレーション理論が、あまりにも都合がよすぎて辻褄合わせにも思えるので、その代わりに相対論を考え成すという考え方も有るが、そうでもないよというのが、前回の記事の話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という訳で、今回は、そのそうでもないよの話です。

ビックバンの始まり

 宇宙マイクロ放射が、ビックバンそのものを示す物であればなんの問題も無いのですが、前回の記事にも書いたように、ビックバンが起きてから約38万年後の姿と考えられている訳です。

では、そもそもどうしてビックバンが起きたと考えたのでしょうか。

それは、ハッブルという人物が発見したことが基になっています。

ハッブルは、銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっていることを発見しました。

これを時間的に逆に考えると、離れていったものは集まっていくことになるので、最終的に一点から始まったと考えることが出来ます。

これとは別に、相対論の方程式からも、膨張する宇宙というものが導き出されていました。

これら二つの事を組み合わせることで、一点から始まって膨張を続ける宇宙というモデルが考えられ、その始まりにビックバンという名前が付けられたのです。

話が飛躍している?

 という訳なんですが、この話よく考えると、チョット飛躍した点があると思うのです。

銀河が地球から遠ざかっているので、昔にさかのぼると反対に集まって来るというのは良いでしょう。

でも、それが最終的に一点にまで収束するというのはどうなんでしょう。

常識的に考えて、逆方向に離れていくものを見て、過去の何処かの時点で、集まっていたと考えるのは普通だとして、それが一点になるとは考えないですよね、という事です。

まあ、理屈としては、相対論の方程式から考えれば、数学的に一点になる事も有り得るという事なんでしょうが、数学的に正しいからと言って、それが現実の世界でも起こったと考えるのはどうなんだという事です。

最初の一点は無い

 ではどう考えるのかという事ですが、先ず、現在膨張している宇宙が、遠い未来には、収縮し始めると考えます。

この辺りは、研究者の間でも議論の分かれるところですが、あり得ないことではないことのようです。

すると、一点に向かって収縮していきます。

しかし、最終的に一点になることはなく、どこかの時点で膨張に転じると考えるのです。

常識的に考えれば、こちらの方があり得るでしょう。

宇宙背景放射の示す状態に合う形で膨張に転じたと考えれば、最初の一点も、そして都合の良いインフレーション理論も必要無くなります。

さらに、最初の一点が無くなる訳ですから、その一点を記述できる理論がないといった問題も回避できることになります。

また、この問題に関しては、相対論の変更も必要ない事になります。

こういった考え方は、バウンス理論などと呼ばれているようです。

という訳で、一点から始まるという意味でのビックバンは無かったのです。


 という事は、宇宙は膨張と収縮を繰り返しながら、永遠に続くという事になりそうです。
それはそれで、新たな謎な訳ですが、こちらの方が納得感が有ると思うのですが。


ではでは

もう一つの都合のいい話 その1

ビッグバンについて考えた話 その1です。

 

 

もう一つの都合のいい話

 以前の記事で、近年の宇宙論のトピックの一つであるダークマターについて考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

観測結果が、現状の標準的な宇宙論と整合性が無いのを説明するために、見ることが出来ず、他の方法でも観測することが出来ず、重力のみ持っている、なんていうものを考えるのは、都合よすぎませんかねえ、という話でした。

実は、宇宙論がらみでは、もう一つ都合よすぎるんじゃないかと考えているものが有ります。

それは、インフレーション理論です。

ビックバンの証拠

一般的な宇宙論では、現在の宇宙は、約137億年前に1点から爆発的に始まったと考えられています。

いわゆる、ビックバン理論です。

この荒唐無稽とも思える理論(なにも無いただの点から、今現在の無数の星が存在する宇宙が出来たなんていうのは、控え目に言っても荒唐無稽ですよね。)の証拠と考えられているのが、宇宙マイクロ放射です。

宇宙マイクロ放射というのは、読んで字のごとく、特定の波長のマイクロ波が、宇宙あらゆる方向からやって来る事を指します。

近年になって、人工衛星により精密な測定が行われています。

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引用元:宇宙マイクロ波背景放射 - Wikipedia

 

どうしてこれがビックバンの証拠になるのかは、ここで説明できるほどにはよく分かっていないのですが、どうやら、これがビックバン後約38万年後の宇宙の姿という事のようです。

因みに、これを発見した人は、このことによりノーベル賞を受賞しています。

証拠だが問題も

 画像には色のムラが有りますが、10万分の1単位の違いを表したもので、実質的に均一と言っていいレベルになります。

この全体に均一というのが問題なのだそうです。

一点から始まったものが、約30万年後に、このような均一な形に成っているというのが、相対論的にはあり得ないことの様なのです。

これまた申し訳ないことに、内容がよく分かってないのですが、どうも、「いかなる物質も光よりも早く動くことが出来ない」という、相対論の大前提に引っ掛かるらしいのです。

という訳で、ビックバンを証明したものが、一方ではあり得ないという謎にもなったのです。

それに対する仮説が、インフレーション理論なのです。

都合の良いインフレーション理論

 その内容は、宇宙は、ビックバン開始後の10 のマイナス 44 乗秒後から、10 のマイナス 33 乗秒後までに(1兆分の1の1兆分の1の、そのまた10億分の1秒!まあ無茶苦茶短い時間ということです)、異常な膨張をしたというものです。

その膨張の大きさは直径 10のマイナス 34 乗㎝から 1 ㎝と言われているようです。
なんだ1㎝かと思われるかもしれませんが、スケール的には、砂粒が銀河ぐらいの大きさになったことに相当するようです。

光速より早く大きくなったような気がしますが、物質が大きくなったのでは無く、空間が大きくなったので、OKだそうです。(なにか騙されたような気もしますが)

空間があっという間に大きくなったので、その中は引き延ばされて、ほぼ均一になったのだという事のようです。

因みに、どのようにしてこんなことが起こったかという事については、よく分かっていないようです。
勿論、どうして程良いところで止まったかについてもです。

これは、ダークマターと同じような匂いがしないでしょうか。

あまりにも都合が良すぎるような気がしませんか。


 この話についても、相対論の方を修正すべきではないのかと、最近まで考えていましたが、違う見方も有ったという話は次回という事で。


 ではでは

『続日本紀』その3

続日本紀』について考えた話その3です

 

 

前回の記事の続き

 前回の記事その2は、桓武天皇が編纂させたと考えられる『続日本紀』が、桓武天皇の治世の途中までを含めた形となっており、加えて桓武天皇の在位中に完成したのは何故かというところで終わりました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という訳で、今回の記事はその理由を考えてみたいと思います。

桓武天皇は在位中だった

 と言っても、前の記事でも書いたように、『続日本紀』の完成した797年には、まだ桓武天皇は在位していました。

その状況で、臣下の誰かが、在位期間の途中までを、言わば私的な目的で纏めることは考え難いでしょう。

更にこれも前期記事で書きましたが、藤原百川、良継が亡くなった後に、天皇を差し置いて、そのようなことが出来る人物はいませんでした。

やはり、桓武天皇自らが纏めさせたと考えるのが妥当だと思われます。

そうだとすると、桓武天皇は、何の正当性を主張したかったかという事になります。

何が目的だったのか

 当然天皇の交代は無かった訳ですから、それ以外のエポックメイキングな出来事が関係していると考えるべきでしょう。

続日本紀』は、桓武天皇の治世の内の791年までを記録しています。

791年前後でエポックメイキングな事と言えば、これはもう「泣くよウグイス」で有名な、794年の平安京遷都以外にはないでしょう。

桓武天皇は、平安京への遷都の正当性を示すために、『続日本紀』を編纂させたのではないでしょうか。

平安遷都までに何があったのか

 何はともあれ、791年までの出来事を見てみます。

先ず、桓武天皇は、それまでの平城京から、山城の長岡京に遷都します。
理由としては、奈良仏教を始めとする、既存勢力から距離を置くためと考えられているようです。

遷都は784年でしたが、その翌年に、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されるという事件が起きます。

この事件に、桓武天皇の皇太弟早良親王も関わっていたとされ、皇太子を廃されます。

その上、淡路国に流される途中で、絶食して亡くなってしまいます。

その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇近親者の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎました。

こういった出来事を纏めることで、暗にそれらを人心一新するために平安京への遷都を行ったという形にしたかったのでは無いでしょうか。

相良親王の件の記述はない

 ところで、出来上がった『続日本紀』には、早良親王廃太子の件は記録されていません。

この事件については、後に作られた『日本紀略』の内容から、それに関する記述が、当初は『続日本紀』に含まれており、完成前に桓武天皇によって削除されたことが分かっています。

桓武天皇が命じて編纂させたわけですが、完成するまでの間に、上記した様々な出来事が、陰陽師により早良親王の祟りだと認定されました。

そのため、出来上がった『続日本紀』から、最終的に削除されたのだと思います。

平安京遷都の原因となった出来事に、桓武天皇に責任のあるものが有っては、いささかまずいですからね。

この事を見ても、『続日本紀』編纂の目的は、前後半部の別々の編纂などの込み入った成立過程を経たものの、最終的には桓武天皇による平安京遷都の正当化に有ったと考えられると思うのです。


 ここまでした平安京は、その後千年以上都だった訳で、やった甲斐が有ったという事が言えるのかもしれません。


 ではでは