「中国大返し」について、もう一度考えてみた話です
以前の記事
秀吉を語る上では、外すことの出来ない「中国大返し」については、以前の記事で考えてみました。
私の基本的な立場は、秀吉が10日間で二百数十キロを取って返して、明智光秀を打ち負かしたという事実は有るにしても、それが巷間言われているような、常識では考えられない速度での行軍だったというような事は、無かったのではないかというものです。
誰が考えたのか、「中国大返し」という秀逸なキャッチコピーに惑わされているだけじゃないかという訳です。
TVで見た説
先日も大返しを扱った番組をやっていたので、勿論見たのですが、その番組内で新説として取り上げていたのは、船を使ったというものでした。
武器や武具などの装備一式を着けたままで高速で移動するのは難しいので、装備一式は船で別に送ったのではないかというのです。
一見すると、なるほどその手が有ったかとも思います。
以前の記事にも書いたように、そんなに無理な移動では無かったというのが私の考えなのですが、百歩譲ってそうだったとしても、これはあり得ないでしょう。
なぜなら、前方には信長を討った明智、後ろには毛利という状況で、2万とも言われる軍勢が、丸腰で移動する事は考えられないと思うのです。
途中、周辺の勢力が、秀吉の軍が丸腰で移動しているのを見たら、襲いかかってくることも十分考えられる訳ですから。
当然、秀吉の軍は戦闘態勢を整えながら進軍したはずなのです。
記録が無いのが原因で証拠
今回の海上輸送を始め、中国大返しについては、その実現方法に関して様々な説が唱えられる訳ですが、その原因は、ひとえに大返しに関する記録が殆どないという事に有ります。
番組を見ながら、この記録の無い事こそが、秀吉の行ったことが、「中国大返し」と言われるほどの大袈裟なものでは無かったという証拠になると思いつきました。
無かったから無いという当たり前の事なんですが。
もし本当に有ったとしたら
今度は二百歩譲って、中国大返しが有ったとしましょう。
すると、秀吉軍が、常識ではあり得ないほどのスピードで行軍してきたという事になります。
その事実を前にして、全国の戦国大名はどう思ったか考えてみましょう。
当然、ぜひともその方法を知りたいと思ったはずです。
敵対する大名より早く導入できれば、先制攻撃を仕掛けることが出来るかもしれません。
反対に、先に知られれば、思わぬ攻撃を受けることになるかもしれません。
全ての大名が、競ってその方法を知りたがったと思うのです。
記録が残った、はずだ
そして、その方法を入手した後は、当然記録に残したはずです。
その結果、「太閤神速行軍の法」とでも名付けられて、兵法として伝わっていてもおかしくは有りません。
いやいや、秀吉側は当然秘密にしたに違いない、という反論も有るかと思いますが、それでも少なくとも秀吉の家臣は知っていたわけですから、彼らが記録に残したはずです。
しかし、現実には兵法はおろか、大返しに関する記録そのものが殆ど在りません。
という事は、やはり「中国大返し」は、実際には常識の範囲内の行軍だったという事を物語っているのではないでしょうか。
勿論、信長死すの報を受けた後の、秀吉の判断力と行動力の非凡さというのは否定出来ないですけどね。
ではでは