横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『続日本紀』その2

続日本紀』について考えた話その2です

 

 

続日本紀』の後半部分

 前回の記事に続き、『続日本紀』の後半部分の編纂についてとなります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

後半部は、Wikipediaによると、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。

ただし、調べた限りでは、桓武天皇の命というのが、何を根拠にしているのかは分かりませんでした。

それについては、一旦置いておいて、先ずは編纂の理由について見てみたいと思います。

後半の編纂理由

 光仁天皇までの記録を編纂しようとしたわけですから、その次の代の桓武天皇の正当性を主張する必要性が有ったという事になります。

桓武天皇は、先代の光仁天皇の長男ではあったが、母が皇族の出身では無かったために、皇太子になることは無いと考えられていたようです。

しかし、皇族の皇后を母に持つ皇太子の他戸親王が、その母と共に相次いで廃され、後の桓武天皇が皇太子になるという事が起きました。

尚、他戸親王とその母親は、同日に同じ幽閉先という、いかにもな状況で亡くなっていたりします。

この一連の出来事の背景には、藤原百川の影響が有ったと考えられています。

さらに、桓武天皇は百川の兄・藤原良継の娘を皇后に、百川の娘を夫人にそれぞれしています。

百川と良継なのか

 こうなると、百川か良継が、権力の継続を計って、編纂に関係したに違いないと考えたくなります。

しかしながら、現実には、両名とも桓武天皇の即位前に亡くなっており、編纂に関わることはあり得ないことになります。

百川の長男は、桓武天皇即位時にわずか7歳であり、常識的に関係したとは思われません。

更に良継には、有力な息子はいませんでした。

結局、百川、良継の二人が亡くなり、藤原家の後ろ盾を失った形の桓武天皇が、自らの立場を強化するために、編纂をさせたという事なのかもしれません。

前後半が揃ったが

 その際に、前半部分は、その1で触れた、未完になっていた藤原仲麻呂によって編纂されたものを使ったと考えられます。

これで前後半が揃って『続日本紀』が出来た、と言いたいところですが、そうは問屋が卸しません。

その1の最初にも書きましたが、『続日本紀』は、文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものです。

そうなのです、桓武天皇についての記録も含まれているのです。

加えて、『続日本紀』が完成したのは、797年で、桓武天皇の在位は、781年 - 806年になります。

ということは、『続日本紀』は、桓武天皇の在位中に、その桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂されたという事になります。

これはどう考えれば良いでしょうか。

因みに、次の正史である『日本後紀』は、律儀にといって良いのか、桓武天皇の残りの治世の記録から始まっています。


 次回は、この桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂された理由について考えてみます。


 ではでは

『続日本紀』その1

続日本紀』について考えた話その1です

 

 

続日本紀

 『続日本紀』は『日本書紀』に続く『六国史』第二の正史という事になります。

文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものとなります。

797年に完成しました。

編纂は、前半部と後半部に分けられると考えられているようです。

前半部は、文武天皇から、孝謙天皇の治世までを扱う形で作られたと思われています。

後半部は、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。

前半部は誰が

 ところで、私は、我が国の正史である「六国史」については、王朝の交代こそ無かったが、その時々において、正当性を主張したい者によって編纂されたのではないかと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

前半部と後半部それぞれについて、正当性を主張したい理由を持った人物について考えてみたいと思います。

先ず前半部ですが、文武天皇から孝謙天皇までという事なので、次代の淳仁天皇の時代に編纂されたという事になります。

ところで、この時代の権力は、藤原仲麻呂に有ったと考えてよさそうです。

前半部は、仲麻呂が作らせたのでしょうか。

淳仁天皇仲麻呂

 仲麻呂の権力の源泉は、何と言っても、淳仁天皇の先代孝謙天皇の母であり、先々代の聖武天皇の皇后であった、光明皇后(藤原家出身)の後ろ盾に有りました。

血縁関係としては、仲麻呂の父藤原武智麻呂光明皇后は兄妹であるので、甥と叔母という関係になります。

仲麻呂は、聖武天皇の遺言に反する形で、孝謙天皇の皇子に後の淳仁天皇を推した上に、自らの長男で故人の真従の未亡人を妻にさせる(もうチョット意味が分かりません。小説ならリアリティが無さすぎだとでも言われそうです。)といった形で、権力を固めていきました。

そして、孝謙天皇が譲位して、淳仁天皇が誕生することにより、仲麻呂の権力も頂点を迎えることになります。

なぜ完成しなかったのか

 こういった状況を正当化して、次代に継承するために、仲麻呂が主導する形で、後に『続日本紀』の前半部となるものの編纂が行われたと考えられます。

途中で、後ろ盾で有った光明皇后が亡くなった事も、影響していたかもしれません。

もちろん仲麻呂としては、前半部を作るつもりでは無かったはずです。

孝謙天皇までで、歴史書としてまとめるつもりだったはずです。

にもかかわらず前半部だけで形にならなかったのは、仲麻呂が、例の道鏡との対立から、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」を起こした末に、権力を失ったことによって、中断せざるを得なかったためだと思われます。


 次回は、後半部分についての予定です。


 ではでは

ギザの3大ピラミッドの作り方

ギザの3大ピラミッドの作り方について考えた話です。

 

 

祝日は別編成

 NHKBSの放送は、祝日になると、編成が通中の平日とは違うものになります。

海外ニュースなどが亡くなり、再放送が多めになることが多いです。

今年のゴールデンウィークも傾向は変わらず、懐かしい番組をいくつか見る事出来ました。

3日には、ハイビジョン特集 エジプト発掘「ピラミッドはこうして造られた」が放送されました。

フランス人の建築家ジャン・ピエール・ウーダンが唱えている説に基づいて、ピラミッドを作った方法を検証してみるといった内容の番組です。

傾斜路を引っ張り上げた

 ピラミッドの大きくて大量の石を運び上げる方法としては、普通に考えれば、傾斜路を使えばいいと考えますよね。

昔のハリウッド映画によく出て来た、奴隷がムチ打たれながら、引っ張り上げているあれです。
もっとも、奴隷が使われていたというのは、現在では否定されているようですが。

しかしこの方法には、問題点が指摘されています。

人力で石を運び上げることの出来る角度で傾斜路を作っていくと、最終的に1.6kmの長さが必要になるのです。

そうすると、その傾斜路を作るための石が、ピラミッド本体と同じぐらいの量が必要になってしまうのです。

また、その石を切り出した場所が、ピラミッドから500mの位置だったことが分かっています。
それに対して、1.6kmの傾斜路を作ると、石切り場から傾斜路の端まで、差し引き約1kmを余分に石を運ばなければならないことになります。

ウーダンの説

 これらの不都合を避けることが出来る方法としてウーダンが考え出したのが、内部トンネル説なのです。

具体的には、ピラミッドの中にらせん状の空洞が有り、そこを使って石を運び上げることで、効率的に建設をしたというものです。

ウーダンの説がらみでは、以前の記事で、近年になって発見された謎の空洞の正体に関して考えてみました。

リンク:クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体

これは、大ピラミッド内の大回廊と呼ばれている構造が、墓を構成する要素ではなく、建設に必要なものだったという彼の説を基にしたものでした。

内部トンネル

 最初に彼の説を知った時に、大回廊の使い方については、一理あるなと思ったのですが、内部トンネル説については、懐疑的でした。

次の画像は、三大ピラミッドで最後に作られたメンカウラー王のピラミッドのものです。

 

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引用元:メンカウラー王のピラミッド|メンフィスとその墓地遺跡 |世界遺産オンラインガイド

 

大きな傷がある事が分かると思いますが、これは破壊に失敗した痕だそうです。

これだけの傷をつけても、その中にトンネルのようなものは見つかっていないようです。

技術的に高度なものと考えられる内部トンネルが、3つ続けて作ったピラミッドの、最初のものには有って、最後のものには無いというのは、考え難いのではないかと思うのです。

傾斜路でもいけるのでは

 とはいえ、最も分かり易い傾斜路を使った方法では、上に書いたような不具合な点があるのも確かです。

ところが、今回再放送を見ていて、やはり単純に傾斜路でいけるのでは無いかという、仮説を一つ思いつきました。

先ず、傾斜路の長さと採石場の位置に関してですが、そもそもこれは、傾斜路を直線で作ると考えるから問題となる訳です。

ピラミッドと採石場を結ぶ500mの直線を底辺とした、他の2辺がそれぞれ800mの二等辺三角形を考え、その2辺に傾斜路を屈折する形で作れば良いのです。

これで、1kmもの遠回りは必要無くなります。

次に、本体と同程度の量の石が必要な点ですが、これは2つ目のカフラー王のピラミッドの建造に使ったと考えれば、解決しそうです。

それでも、カフラー王のピラミッドを作るための、傾斜路が必要になります。

勿論それは、最後のメンカウラー王のピラミッドを作るのに使い、最後に残った分は、周辺の施設を整備するのに使う事で、辻褄が合いそうです。


 ところで、今回の記事のきっかけになった番組ですが、もちろん再放送なのですが、初回の放送は、なんと2009年のようです。
10年以上も経ったとは、まったく月日の経つのは早いものです。


 ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その6

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その6です

 

 

今回も続きます

 前回に引き続き、タイトルに有る「編纂された目的」には直接関係は無いのですが、関連することを調べているうちに、思いついたことについてです。

さすがに、タイトルの付け方を間違えたかなと思っているのですが、
一応今回で打ち止めの予定ですので、お付き合いを。

という訳で、今回は『日本書紀』に見られる特徴の一つである、「一書」について考えてみたいと思います。

「一書曰」、「一書伝」

 『日本書紀』には、少なくない部分で、本文の後に「一書曰」または「一書伝」という書き出しで、こんな話も伝わっていますという形になっているところが見られます。

史書の中に、異説が併記されているという、あまり見られないものになっている訳です。

当然、当時の中国の歴史書にも見られません。

加えて、その理由について記した資料も無く、なぜこういった形式になっているのかについては、諸説が有るところとなっています。

『三国史』を参考に?

 例えば、古くは、鎌倉時代の『釈日本紀』に、『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けたのを参考にした、との説が見られるようです。

これなどは、仮にも一国の歴史書を作るに際して、最初から注釈入りで作るというのはどうなの、という感じなんですが。
この辺りも、私が、『日本書紀』が外国向けに作られたものでは無いと考える理由の一つなんですが。

そもそも、裴松之の注釈も、最初から『三国志』に有った訳では無く、それを参考にしてというのは、いささか無理が有るのではないでしょうか。

ではどう考えるか

 ではどう考えるかという事ですが、私の仮説は、「そこまで深く考えていない、または、考える暇がなかった」、というものです。

その4の記事で、『日本書紀』に関しては、天武天皇が纏めさせた「帝紀」と「上古の諸事」に、天武、持統両天皇の分を追加して作ったと考えました。

 

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作らせたのは、藤原不比等であり、老齢の域に達した彼が、藤原家の将来を見据えての事だったとしたわけです。

そうすると、編纂を任された人々にとっては、許された作成期間が短かった事が考えられます。

従って、すでに存在する部分に関しては、纏め直すというよりは、そのまま使ったという事だったのではないでしょうか。

資料のまとめ方

 『日本書紀』の欽明天皇の記述に、『帝王本紀』を編纂するにあたり、「古くて真偽のわからないものについては一つを選んで記し、それ以外も記せ」という旨の内容が記されています。

この方針が、官僚制度の中で、その後も踏襲されていたということはあり得る話です。

つまり、天武天皇時代の『日本書紀』の基となった資料も、同様の形でまとめられていた事は十分に考えられるところです。

その結果が、「一書曰」や「一書伝」という記述だったのではないでしょうか。

そして、限られた時間制限の中で、そのままの形で纏めたために、歴史書としては異例の形式になったのです。

こう考えることで、その後の「正史」では、こういった形式が取られなくなったというのも理解出来ることになります。
編纂の時点から見て、それ程古い時期の事を扱っている訳では無いですからね。

 

という訳で、「一書」に関しては、それ程深い意味はなく、原資料を纏めた人々も、何が正解なのか分かっていなかったという事なのではないかという話でした。

 


 最初に書いたように、今のところ、他に思いついた話はないので、『日本書紀』に関してはこれにて打ち止め、の予定です。

 


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その5

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その5です

 

 

一応結論は出たので

 『日本書紀』が編纂された目的という、タイトルの内容に関しては、すでにその3で考えたように、藤原不比等文武天皇の正統性を示すことで、藤原家の権力を保つために作ったという事で、一応結論が出ています(と私は思っています)。

 

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という事だとすると、これまで『日本書紀』に関して言われてきたことの中に、見直すことが出来る点がありそうなので、そのあたりを考えてみたいと思います。

天武天皇による国家事業

先ず、『日本書紀』といえば、『古事記』と共に、天武天皇が国家事業として編纂させたと言われています。

この中で『古事記』に関しては、以前の記事で、天武天皇ではなく、物部氏が自分たちを売り込むために、私的に作られたものだと考えました。

 

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加えて、『日本書紀』は上に書いたように、藤原不比等が作った訳ですから、天武天皇はいずれにも関係していない事になります。

すると、必然的に、天武天皇が、『古事記』を国内向け、日本書記を国外向けに、それぞれ作らせたという見方は、成り立たないことになります。
それどころか、国家的事業ですらなかったことになります。

この事は、天皇が命じた国家事業だとすると、それに関する記述が少なすぎるという事実とも符合します。
特に『古事記』に関しては、全くその編纂に関しての情報が無い事も、説明が付きます。

帝紀」と「上古の諸事」

 『日本書紀』に関しては、天武天皇がまとめさせた「帝紀」と「上古の諸事」に、天武、持統両天皇の分を追加して、作ったと考えました。

帝紀」と「上古の諸事」は、歴史書としてまとめられたものでは無く、天皇政権側でのみ閲覧出来る公的な記録のようなものだったのではないかと考えたのです。

日本書紀』の形に成るまでは、一般的には、その内容を知らなかった可能性が高いと考えられます。

そのことは、『日本書紀』の勉強会である「日本紀講筵」が、完成の翌年から行われたことからも伺われます。
まあ、これについては、文武天皇の正統性を、公式な歴史として知らしめるという意味があったとも考えられますが。

なぜ漢文なのか

 この事から、漢文で書かれているという特徴に関しても、一つの仮説が考えられます。

一般に、漢文を使っていることについては、『日本書紀』が国外向けに作られたためと考えられていますが、単にベースとなったものが公的な記録だったからであり、当然それは漢文で書かれていた、というだけのことでは無かったのか。

天皇に撰上するために作った訳ですから、追加した分も含めて、そのまま公的な文書として漢文で作成されたという事では無いでしょうか。

中国を始めとする国外に対して、『日本書紀』が提供されたという事実も無いようですし、そんな目的で作られた訳では無かったのです。

 


 勿論、その目的がどうあれ、『日本書紀』と『古事記』の価値が損なわれることが無いのは、言うまでも無いですけどね。

 


ではでは

 

『日本書紀』が編纂された目的 その4

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その4です

 

 

今回は編纂周辺を

 前回の記事で、藤原不比等が『日本書紀』を編纂させてまで、文武天皇の正統性を示す必要性について書きました。

 

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その中で、編纂を行わせたのは、不比等の晩年になってからだと考えました。

今回は、その編纂の周辺を、もう少し掘り下げてみたいと思います。

手本は『史記

 不比等が晩年になって、権力の存続を考えた時に、様々な方策を考慮したと思われます。

その中で、思い至ったのが、『史記』を始めとする中国の歴代の王朝の事をまとめた歴史書だったのではないでしょうか。

藤原鎌足の次男で有った不比等は、それに見合う教育を受けていたはずです。

大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたと考えられていることからも、それなりのレベルの知識を有していたと考えるべきでしょう。

当然、中国における歴史書の、現王朝の正統性を示すためのものという有り方についても、知識が有ったはずです。

同様のものを作ればいいと思いついたのだと思います。

その上で、日本では前例がないという事になるので、参考にする対象は、最初の『史記』ということになります。

一から全て作っていない

 さて、『史記』をターゲットと考えた時に、不比等にはアイデアが有ったと思うのです。

一から全てを作らなくとも、天武天皇川島皇子以下に纏めさせた、「帝紀」と「上古の諸事」を利用すれば良いと思ったのではないでしょうか。

こうする事により、神話の5帝時代から始まる『史記』に匹敵するものが作れると考えた訳です。

当然、天武天皇より前までの部分が纏められているはずで、それに天武、持統の両天皇に関する部分を追加した上で、全体の体裁を整えたのが『日本書紀』だったのです。

舎人親王撰上の意味

 これを舎人親王元正天皇に撰上したのですが、これも正統性を確かにするために必要な事だったと考えられます。

舎人親王は、天武天皇の息子です、その息子が撰上した歴史書に、前回の記事で触れたように、皇位禅譲される人物だったと文武天皇は書かれていたことになります。

舎人親王が、兄弟の誰かではなく、天武天皇の孫の文武天皇への、その母持統天皇経由の譲位を是としたことになる訳です。

日本書紀』の編纂に、舎人親王が直接関わったのかどうかは定かではありませんが、彼が撰上することに大きな意味があったのです。


 『日本書紀』の成り立ちを、以上のように考えると、『日本書紀』に関する、謎とまでは言いませんが、気になる点が説明出来る点があると思うのですが、次回という事で。


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その3

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その3です

 

 

今回は理由の回

 今回の記事は、藤原不比等を『日本書紀』の編纂の黒幕と考えた前回の記事を受けて、その理由を考える回となります。

 

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不比等が仕えた天皇

 理由を考えるにあたって、先ずは、不比等が仕えた、持統、文武、元明、元正の4代の天皇の関係を見てみたいと思います。

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引用元:元正天皇 - Wikipedia

 

天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子が即位する前に亡くなってしまいます。

母である天武天皇后は、孫で後の文武天皇皇位に就けるために、それまでの間自ら皇位に就き、持統天皇となります。
この時に、草壁皇子の兄弟の高市皇子などが、皇位を継ぐことも考えられます。(先代の天武天皇も、先々代の天智天皇の弟ですからね。)
それを実現させないように、天武天皇の妻の持統天皇の即位という手を打った訳です。

その後、文武天皇に譲位します。
この時、文武天皇はわずか15歳であり、前例のない若さでの即位でした。

さらに文武天皇が25歳の若さで亡くなってしまうと、その子で後の聖武天皇に繋ぐために、母の元明天皇、姉の元正天皇と、まさになりふり構わずといった感じで代を重ねていきます。

不比等も関わっていた

 この流れには、不比等が大きく関わっていたと考えられます。

先ず、元々不比等草壁皇子に仕えていたと考えられており、その子である文武天皇皇位に就ける工作に、当然関わっていたと思われます(自分の将来を賭けたと言っても良いかもしれません)。

その文武天皇の夫人は、不比等の娘の藤原宮子であり、その間に出来た子が後の聖武天皇になります。

更に、聖武天皇にも、もう一人の娘光明氏を嫁がせています。

このようにして、外戚としての立場を作り上げることにより、自らの権力を作り上げていったのです。

日本書紀』の編纂

 そんな中、元正天皇の720年に、『日本書紀』が舎人親王より撰上されます。

上記記事でも書きましたが、不比等が亡くなったのが同じ720年です。
63歳でした。

日本書紀』は、彼の晩年に作られたという事になります。
勿論、いつ死ぬのかは分からない訳ですが、当時の平均から考えれば、いつ死んでもおかしくないという意味での晩年です。

晩年になって不比等が考えていたのは、上記のような無理に無理を重ねて作り上げてきたと言っても良い権力構造を、自分の死後の藤原家が維持していけるようにする事だったでしょう。

そのための方策の一つとして作らせたのが、『日本書紀』だったのではないでしょうか。

彼の権力構造の全ての始まりである、文武天皇の即位の正統性を示すために、その直前の持統天皇までの歴史を纏めさせたのだと思います。

日本書紀』での譲位の表現

 全30巻『日本書紀』の最終巻持統天皇の最後の記述は、
 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子
となっています。

ここで注目すべきは、「禪」という文字です。
この文字は、「禅」の旧字体で、訓読みは「ゆずる」となります。
しかし「禅」なわけですから、多分に「禅譲」を意識していたと考えるべきでしょう。

ちなみに、持統天皇以前に、生前に譲位を行った天皇は35代の皇極天皇しかいません。

皇極天皇の譲位に関する『日本書紀』の記述は、皇極天皇の巻の最後に、
 庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子
とあり、「譲」が使われています。

つまり、文武天皇は、天皇位を、単なる「譲」ではなく、「禅譲」されてしかるべき人物だという事です。

不比等は、この「禪」の一文字が欲しくて、『日本書紀』を編纂させたのだと思います。

その上で、天皇に撰上することにより、大和政権としての公式な見解としたということでは無いでしょうか。


 『日本書紀』が撰上されたのは720年5月であり、不比等が亡くなったのは720年8月です。
歴史小説ならば、『日本書紀』が出来上がるまでは、死んでも死にきれないとでも表現するところですが、果してどうだったのでしょうか。


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その2

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その2です

 

 

黒幕と理由

 『日本書紀』の編纂については、従来考えられている、天武天皇の命によるとは考えられず、さらに、同書が完成した時点の天皇である元正天皇の命でもない可能性が高いと、前回の記事で考えました。

 

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その上で、実際に編纂を行った黒幕と理由が別に有ったという事では無いかと想定しました。

ところで、日本では中国のように王朝交代は無く、形式的な最高権力は、常に天皇に有りました。

その下で、実質的な権力を巡って行われた闘争が、日本の歴史だったという捉え方も出来るかと思います。

そう考えると、日本の「正史」は、形式的な権力者である天皇の事跡を記録する事により、間接的にその時々の実質的な権力者の正統性を示すために書かれたのではないかという仮説が建てられます。

権力者が、黒幕であり、その権力の正統性を示すのが編纂した理由という事になります。

黒幕は不比等

 さて『日本書紀』が編纂された当時の、実質的な権力者はというと、藤原不比等という事になります。

では、『日本書紀』は藤原不比等の権力の正統性を示すためにつくられたのでしょうか。

逆に言うと、正統性を示さなければならないような状況に、藤原不比等が有ったのかという事になります。

不比等に関する記述が『日本書紀』に現れるのは、持統天皇3年(689年)が初めてで、30歳の時となります。

亡くなったのは、元正天皇5年(720年)で、その間に、持統、文武、元明、元正の4代の天皇に仕えたことになります。

日本書紀』は持統天皇までの記録

 ここで、注目すべきは、『日本書紀』は持統天皇までの記録だという点です。

上に書いたように、不比等は4人の天皇に仕えた訳ですが、その不比等の編纂させた『日本書紀』が、一人目の持統天皇までというのはどういうことなのでしょうか。

中国の「正史」の考え方からすれば、持統天皇の先代の天武天皇までとして、その内容により、自分の仕えた最初の天皇である持統天皇の正統性を示すものになったはずです。

しかしそれが持統天皇までであったからには、『日本書紀』が編纂された目的は、持統天皇の次の文武天皇の正統性を示すためだったという事になります。

そうなると、文武天皇の正統性が疑われた場合に、不比等の権力基盤も揺らぐことが有るのかどうかを、考えてみる必要が有りそうです。

さらに、『日本書紀』が出来上がり、撰上されるまでに、元明、元正の2代の天皇も存在する訳ですが、なぜ元正天皇に撰上されたのかも気になるところではあります。

 


 引っ張り過ぎだと言われそうですが、次回は不比等が『日本書紀』を編纂させた背景についての予定です。

 


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その1

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その1 です

 

 

日本書紀』には序文は無い

 『日本書紀』の作られた理由について考えるわけですが、先ずその編纂についての通常の考え方を見てみたいと思います。

日本書紀』がいつ作られたのかについては、『日本書紀』に、『古事記』の序文のような、編纂の経緯に関する記述が無いので、間接的な情報からの推定となっています。

もっとも、『古事記』のように序文が有っても、それが正しいとは限らないのですが。

そのあたりについては、以前記事に書きました。

 

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日本書紀』の編纂

 それはともかくとして、『日本書紀』の成立を推定する基となった情報は、次の「正史」である『続日本紀』の記述です。

その元正天皇720年5月の部分に、

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷

以前から、一品舎人親王天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。

引用元:日本書紀 - Wikipedia

 

 と有るのです。

この事から、『日本書紀』の成立は720年と考えられているようです。

 さらに、上記の記述ではよく分からない、編纂が始まった時期に関しては、次のように考えられているようです。

日本書紀』の天武天皇10年(681年)に、天皇川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという記事が有り、これをもって、『日本書紀』の編纂の開始とするというものです。

ということで、一般に『日本書紀』は、681年から720年の約40年かかって編纂されたと考えられているという事になります。

疑問な点がある

 これで、『続日本紀』に書かれている舎人親王が、681年に天武天皇に命じられた川島皇子以下の12人に入っていれば、話は上手く収まることにになります。

現実には、舎人親王は676年生まれで、681年にはわずかに5歳であり、さすがに、5歳の人間に命ずることはないと考えられます。

更に、「上古の諸事」の編纂を命じられているにも関わらず、命じられた以降の天武、持統両天皇の記事が入っている点も、疑問が残ります。

舎人親王が命を受けた相手についても、歴史書での表現という事から見ても、ただ「天皇」とあれば、その記事が含まれてる部分の当代天皇を指していると考えるのが妥当でしょう。

とすると『続日本紀』にある、「天皇の命を受けて」という表現は当代の元正天皇の命を受けてという意味だという事になります。

一応結論は出るが

 以上の事をまとめると、天武天皇が命じたのは、あくまで「帝紀」と「上古の諸事」の編纂であって、『日本書紀』の編纂ではなく、元正天皇の代になって舎人親王が纏めたものこそが『日本書紀』だという事になります。

しかしながら、この結論にも疑問が残ります。

先ず、「天皇の命を受けて」と言いながら、元正天皇が命じたという記録がない事が上げられます。

また、記録が無いだけで、元正天皇が命じていたのだとすると、今度は、なぜ持統天皇までの歴史を纏めさせたのかがよく分かりません

しかし、「正史」に全くの嘘を載せることは考えにくいので、『続日本紀』の記述に有る様に、確かに舎人親王が撰上したという事実はあったのだと考えられます。

ただそれは、あくまで舎人親王が撰上しただけで、実際に編纂を行った黒幕と理由が別に有ったという事では無いかと思うのです。


さてその黒幕と理由は、という思わせぶりなところで、次回に続きます。


ではでは

日本の正史

日本の正史について考えてみた話です。

 

 

日本にも正史がある

 邪馬台国フリークとしては、正史というと『魏志倭人伝』が含まれる『三国志』を始めとする中国のそれという事になる訳ですが、我が国日本にも「正史」が存在します。

 日本の正史は、最初にして最も有名な『日本書紀』から始まるわけですが、正史と呼ばれているものは6つ有り、合わせて「六国史」と呼ばれています。

具体的には

日本書紀
続日本紀
日本後紀
続日本後紀
日本文徳天皇実録
日本三代実録

の6つという事になります。

中国の「二十四史」は、漢代に成った『史記』から、清代に成った『明史』まで、長い時代に渡っています。

それに対して、日本の「六国史」の編纂時期は、飛鳥時代から平安時代となります。
いわゆる律令国家が、国家事業として編纂したという形です。

その後の、武士の時代となった鎌倉時代以降に、国史が編纂される事は有りませんでした。

そのためこれまでは、対外的に国家としての成り立ちを示すためのものと考えられている『日本書紀』は別格として、その他は律令体制の下で国家の記録を取ったぐらいに考えていました。

中国の正史との違い

 ところで、中国の正史は、いかに前王朝が徳を無くし、新たに天帝より命を受けた現王朝が取って代わったかを、その歴史を通して示し、それにより、現王朝の正当性を知らしめるために、作られました。

そのために『魏志倭人伝』を書いた西晋陳寿は、邪馬台国への行程に情報操作を行ったというのが、私の取る邪馬台国論の主たる論点の一つで、以前に記事を書きました。

 

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それに対して我が国には、天命によって王朝が交代するという、いわゆる「革命」思想は有りません。

加えて、大和政権は、一系の天皇家が続いており、王朝の交代がそもそもありません。
この辺りは、様々な王朝交代説の有るところではありますが、正史による限り、王朝交代はなかった事になっています。

従って、「六国史」は、中国の正史のような性格を持ったものではないという事になります。

何のために編纂されたのか

 では、何のために編纂されたのでしょうか。

各正史の扱っている天皇の数は、『日本書紀』41代、『続日本紀』9代、『日本後紀』4代、『続日本後紀』1代、『日本文徳天皇実録』1代、『日本三代実録』3代と、まちまちです。

計画的に、後世に歴史を書き残すといった目的ではなさそうに見えます。

ということは、それぞれの正史に、その編纂をすることになった理由があったということになるのではないでしょうか。

それは、王朝の交代こそ無かったが、その時々において、何らかの正当性を主張するために編纂されたのではないかというのが私の考えです。

自らの利益のために編纂した、勢力または個人がいたのではないかという事です。


という訳で、次回は正史の始まり『日本書紀』が編纂された目的についてです。


ではでは

料理の枠組み

私が考える、料理の捉え方の話です

 

 

料理らしきものもやっています

 わたくし、料理らしきものもやっております。

一応なにも見ずに作れるレパートリーといえるほどのものは、それほど多くないのですが、その一つが消えてしまった話を以前の記事で書きました。

 

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私が料理を始めたのは、アラフィフになってからでした。

それまで、ほぼ料理なんかしていなかったので、包丁を使う事自体が怖かったのを今でも覚えています。

その後、ネットで調べながら、包丁の使い方から始まって、レシピを頼りに料理をして、今に至っています。

それでも、ネットで調べたレシピを見れば、それらしいものは作れるようになりました。

回数はそれなりにこなしているので、これをやるとまずいなといった、それなりにカンのようなものが働くようになったというのも有りますが、料理の枠組みという考え方をしていることも大きいと思っています。

味の基本

 料理を始めたころに、様々な料理関係のサイトを見て回っていたのですが、その中の一つで、興味深い記述に出会ったのです。

それは和食関係のサイトだったと思うのですが(今回、探してみたのですが見つかりませんでした。)、味付けは甘辛1対1が基本だとあったのです。

和食なので、この場合甘辛1対1というのは、基本的に醤油とみりんを指していたと思います。

へえと思って、ネット上のレシピを見ると、確かに多くのレシピが、概ね近い比率になっていました。

更によく見ると、人によって、この比率を中心に、甘い方によっていたり、辛い方に予定たりして、興味深いです。

また、和食以外にも、結構当てはまりました。

例えば、中華では、豆板醤は辛、甜面醤は甘といったように調味料によって割り振って考えれば、概ね当てはまったりします。

味付けに迷った時には、甘辛一対一です。

自然科学の方法が

 これを知って、そうか料理も、自然科学と同じ方法論で考えられるかもしれないと思ったのです。

それぞれの料理を作れるようになることに一生懸命で、料理全体の事を考える余裕は全くありませんでした。

それが、味付けという同じ項目に目をつけてデータを集めることにより、共通点が見えてきた訳です。

あとは、理系的に考えて、料理全体を分析してみれば良いわけです。

そんなことを考えた結果、現在では、料理を一定の枠組みによってとらえるようになっています。

料理の枠組み

 その枠組みは

 食材 → 前処理 → 熱処理 → 味付け → 後処理

という簡単なものです。

料理の多くは、概ねこの枠組みで捉えることが出来ます。

勿論、各種の切り方や、ゆでる、蒸す、煮る、焼くといった技術については、料理をしながら慣れていくのですが、各枠組みのどこで使うものなのかを意識しながら、個別の料理のレシピとは切り離して理解するようにするのです。

例えば、ハヤシの一種だと分かったハッシュドビーフだと、

食材:牛肉、玉ねぎ、ニンジン、マッシュルーム
前処理:皮等を取ったうえで、食べやすい大きさに切る
熱処理:炒めてから煮る
味付け:ルーを入れる
後処理:煮込む

というところでしょうか。

初めてのレシピを使う時も、このように考えることにより、とりあえずそれなりのものは出来るようになるという寸法です。

アレンジも出来るようになる

 更に、アレンジもそれなりに利くようになります。

食材を変えるという観点から、ハッシュドビーフという名前ですが、牛肉を、豚肉、鶏肉に変えてみることを考えます。
グリーンピースを入れても良いわけです。

味付けという点から、カレーのルーにすればカレーにすることも出来ます。
勿論、スパイスで作っても良いわけです。

後処理で、チーズをのせても良いでしょう。さらに、トースターで焼き目を付ける事も出来るといった具合です。

また、中には、熱処理と味付けが混然一体といったものも有りますが、それも、枠組みをベースにどう違うかを考えれば、理解することはさほど難しく無くなります。

勿論、それぞれの料理によっては、その料理特有の様々なテクニック等がある訳ですが、それが完璧に出来なければ食べられない訳ではないので(出来た方がおいしい可能性は高いですが)、出来ればやればいいですし、なくてもそこそこの物は出来たりします。
それに、枠組みをベースに考えれば、どのあたりがその料理特有のテクニックなのか、理解し易いという面もあります。


 まあ、お金を貰おうという訳では無いので、出来る範囲でいいのだと思っています。
それに、意外と自分で作ったものはおいしく感じたりしますからね。


ではでは

 

 

 

 

都市ガスとプロパンガス

都市ガスとプロパンガスについて考えた話です

 

 

メタンガスがらみで

 前回の記事で、サツマイモのエネルギー源化がらみでメタンガスの話を書きました。

 

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その中で、試験的なメタンガスの導入に関しては、都市ガスのインフラに組み込むよりも、プロパンガスのようにボンベで供給する方法を取る方が、簡便でいいのではないかと考えました。

そのための下調べをしている中で、当然、都市ガスとプロパンガスに関しても調べることになりました。

個人的には、実家も都市ガスでしたし、それ以降現在に至るまで都市ガスしか使った事が無いので、正直なところ、これまでプロパンガスについて考えたことはほとんど無いですが、
調べてみて、実はプロパンガスが非常時対策としていいのではないかと思ったのです。

都市ガスは復旧が遅い

 我が家は、都市ガスが止まる事を想定して、カセットコンロとボンベ(ブタンガスですね)をストックしています。

しかしながら、首都直下などの大地震では、都市ガスの復旧には月単位の期間がかかると想定されています。

例えば、内閣府の想定では、首都直下型地震後のガスの復旧は、約55日を想定している様です。

勿論、全ての家庭で55日間ガスが止まるという訳では無く、ほぼ100%復旧するのにかかる期間なので、場所によっては早期に復旧することも考えられます。

それにしても、多くはある程度の日数を覚悟しなければならない訳です。

そうすると、カセットボンベでその日数に対応するのは、心許ない事になります。

だいたい、お風呂は全く対応出来ないですからね。

プロパンガスなら比較的容易に

 そういう点から考えると、プロパンガスは、常用するボンベの数を増やせば、月単位での備蓄も比較敵容易に出来そうですよね。

加えて、地中のパイプなどの耐震化などを考えなくても済みます。

災害発生時には、地上の設備を点検するだけでいい事になります。

もっとも、そうだからといって、現状の都市ガスをいきなりやめて、全てプロパンガスにするというのは、現実には不可能でしょう。

少し考えただけでも、関連して働いている人をどうするのかとか、インフラを全て捨て去るのか、各家庭の機器の取り換えはどうするのかとか、いろいろありそうです。

サツマイモをエネルギー源として組み込む時に、順次都市ガスからメタンガスボンベに切り替えていくのが現実的でしょうか。

今現在も、全国の約半数の世帯がプロパンガスを利用しているようですので、そういった家庭は、ガスの備蓄を考えるのも有りかと思うのですが。


 ちなみに、オール電化でいいんじゃないかという話もありますが、個人的には、一つのエネルギー源に頼るのはあまりよろしくないと思っています。


ではでは

メタンとライフライン

ライフラインとしてのメタンについて考えた話です。

 

 
サツマイモのメタン

 前回の記事で、温暖化対策としてサツマイモをエネルギー源にするのはどうかという話を書きました。

 

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その中で、サツマイモを発酵させることにより、エチルアルコールと共に、メタンが得られるので、発電が可能になり、さらに、メタンそのもので煮炊きも出来ると書きました。

この煮炊きの部分については、以前TVで、家畜の糞尿から発生するメタンガスを台所に引き込んで、煮炊きに使っているのを見たことが有ったのが記憶に残っていたので、こう書きました。

記事を公開した後で、現状のライフラインとしてのガスの代替として大丈夫なのか、少々心配になったので調べてみました。

都市ガスの天然ガス

 調べ初めてすぐに杞憂だということが分かりました。

代替としての可能性を調べるために、先ずは現状の都市ガスについて調べてみた所、答えはすぐに分かりました。

現在の都市ガスの主成分はメタンガスだったのです。

勿論、都市ガスが供給しているのが天然ガスだというのは分かっていましたが、その成分までは深く考えたことも無く、天然の様々なガスの混合物だろうぐらいにしか考えていませんでした。

天然ガス」という秀逸なネーミングに騙されたとは言いませんが、思考が止まってしまっていた感じでしょうか。

実際には、約90%がメタンで、残りがエタン、プロパン、ブタンという感じのようです。
ちなみに、プロパンはご存知プロパンガスで、カセットボンベに使われているのがブタンだそうです。
エタンに関しては、化学工業での原料としての利用が主なようです。

メタンを使う時には

 という事で、サツマイモをエネルギー源としても、生成したメタンガスは、現状のライフラインをそれほど変更することなく利用出来そうです。

ただし、前回の記事で提案した、実証実験(イーモンシティ)を行う時には、やめる時の事も考えて、プロパンガスのボンベによる供給を代替する形にした方が良いかもしれません。

都市ガスのシステムを変更するよりも、ボンベによるプロパンガスの供給に戻す方が問題が少ないと考えられるので。

メタンガスで発電もすることになるので、オール電化でもいいわけですが、停電した時のタワーマンションでの事例などを見ても分かる様に、ライフラインは複数あった方が良いので、ガスも利用した方が良いでしょう。


それにしても、調べながら、やっぱり化学は苦手だという事を再認識させてもらった話題でした。


ではでは

サツマイモをエネルギー源に

サツマイモをエネルギー源にすることについて考えてみた話です

 

 

吸収は木で出来るが

 温暖化対策としては、個人的には木を植える方法を推しています。

 

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やる事が単純明快で、その結果としての未来も想像可能で、技術的にも確立されているというのが、大きな理由です。

しかし、確かに木を植えることにより、CO2を吸収できるのは確かなんですが、さりとて、排出する方で何もせずにCO2が増え続ければ、どこかの時点でまずい事になるのは明らかなので、対策を模索する事が必要となります。

で排出側の方法として、面白いんじゃないかと思うものを見付けました。

サツマイモを使うというものです。

内容はごくシンプルで、サツマイモを作ってエネルギー源として使う、というだけです。

エネルギー源としてのサツマイモ

 サツマイモを、エネルギー源とする方法には、いくつかあります。

先ず最も分かり易いのが、乾燥して燃やすというものです。
同じ植物の木を燃やして燃料にするのと同じ事です。

次に、発酵させて利用するというのが考えられます。

サツマイモといえば、芋焼酎が思い浮かぶ人もいるでしょう。
焼酎というのは、言い換えれば、エタノールの水溶液です。

エタノールは、燃やせば発電も出来ますし、自動車などの内燃機関の燃料にもなります。

また、さらに発酵させることにより、メタンガスが生成されます。
これも、燃やすことにより発電が出来ますし、煮炊きに使うことももちろん可能です。

メタンガスによる発電に関しては、宮崎県の霧島酒造が実際に、焼酎製造時に複成される焼酎粕と芋くずをメタン発酵することにより、発電が出来ることを実証しています。

このように、サツマイモは、固体、液体、気体と多様な形態のエネルギー源として利用可能です。

サツマイモの入手可能性

 問題は、必要な量のサツマイモを生産出来るのかという点ですが、このサツマイモ利用を精力的に研究されている、近畿大学の鈴木高広教授が試算されています。

それによると、普通我々がサツマイモ栽培というと思い浮ぶ、畑での平面的な栽培ではなく、ポリ袋に必要なものを入れて棚に何段もつるす方法で立体的に栽培をします。

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引用元:芋エネルギーは日本を救う!鈴木高広教授の近未来研究所

 

こうして、単位面積当たりの収量を上げることにより、全国の休耕地、遊休地を利用することにより、計算上は、十分に必要量を確保できるという事です。

従って、現状の農作物の生産には全く影響がない事になります。

それどころか、休耕地を使って生産する訳ですから、農業の振興にもなるはずです。
農業が、食料生産だけではなく、エネルギー産業にもなる訳です。

サツマイモ利用の利点

 このように様々なエネルギー問題の解決策として利用可能なサツマイモですが、その他にも利点が多く上げられます。

・サツマイモが空気中から固定した炭素がCO2に戻るだけなので、CO2が増えることはない。

・北海道から沖縄まで、日本全国で栽培できる。

・江戸時代の飢饉時に多くの命を救った事からも分かる様に、比較的気候異常に強い。
 もしもの時には、食料としても利用可能。

・純国産エネルギーである。

・必要な技術が比較的ローテクであり、すでに存在している。

・エネルギー供給に関して、比較的狭い地域、小規模で完結できる。

もし試してみて、何か不具合が有っても、やめることは比較的簡単だと思われる(少なくとも核廃棄物のような問題はないですよね)ので、どこかの地域で実証実験をやってみるというのはありだと思うのですが。


 実験をやる時には、某自動車会社の未来都市に対抗して「イーモン・シティ」というのはどうでしょうか。


ではでは

もっと色々なところを見たい

宇宙探査について考えてみた話です。

 

 

はやぶさ2」と「みお」

 昨年の年末に、「はやぶさ2」が小惑星リュウグウ」から見事にサンプルリターンを成功させました。

その後、「はやぶさ2」は次の小惑星へ向かうべく飛行を続けています。

その到着予定は、なんと2031年7月だそうです。

その他にJAXAが関係しているものに、水星の探査を目指している「みお」が、現在も飛行を続けています。

こちらの水星到着予定は、少し早くて2025年12月の予定です。

これから10年で、2回の楽しみが有る訳です。

問題はお金

 理系のSF好きとしては、こういったイベントには目がありません。

門外漢のお気楽さで考えるのですが、もうチョット探査計画が無いかなと思うのです。

現状のような状況なのは、勿論様々な要因が重なっているわけですが、小さくない理由として挙げられるのはお金の問題でしょう。

はやぶさ2」は、約160億円、「みお」は約150億円の費用がかかっています。

さすがにこれだけの金額が必要だと、毎年のように打ち上げるという訳にも行かないのかもしれません。

この費用を低くすることが出来れば、もっと探査計画を増やすことが出来るかもしれないという事になります。

費用が掛かるのは

 費用が掛かる原因の一つとして、探査機は基本的に、各々の探査計画に合わせて作られる一品ものだという事が有ると考えられます。

そのために、自動車における一品ものと言っていい、F1カーが高価なように、どうしても高くなってしまうようです。

ご存知のように、自動車の世界では、高価なF1に対して、様々な性能、価格の車が存在しています。

この自動車と同じようなことが、宇宙探査でも出来ないかと思うのです。

技術はすでに有る

 初代「はやぶさ」で有名になった、イオンエンジンを始めとして、通信技術、ソフトウェア、運用技術などの、長距離の探査を可能とする要素技術は既に存在します。

しかも、今回の「はやぶさ2」の完璧とも言える成果を見ても、その技術の信頼性がある程度高いレベルにあることは確かでしょう。

そこで、自動車でのシャシーの共通化のような事を、探査機の作成でも考えてみてはどうかと思うのです。

長距離の飛行を行う基本的な部分を、運用技術も含めてあらかじめ設計しておき、パッケージとして提供することにします。

エンジンの排気量、気筒数が様々ある様に、イオンエンジンの数や出力もある程度選択できるようにします。

それに合わせて、基本となるフレーム、通信機器その他のベースとなる部分の設計を何種類か作っておきます。

目的とする探査の距離と積載する機器の重さから、エンジンとベースを選択して、後は探査計画の内容に合わせて、積載する機器を、他の探査で使われたものから調達するなり、新たに作るなりして用意すれば、探査機が出来上がるという訳です。

費用が低くなれば

 こうすれば、全てを毎回一から作り上げるよりもはるかにコストを下げられるはずです。

更に、ベースとなるパッケージの部分は、数量が出ることによるコストの低減も期待出来ますし、何度も使われることにより枯れた技術になり、信頼性はより高いものになるはずです。

運用技術も、習熟が進むはずです。

また、現在の探査機のように、一品ものでの一発勝負というリスクの高いやり方をしなくも、複数の探査機に機能を分散して送り込むことにより、全くデータが取れないというリスクを下げる事も可能なはずです。

「数打ちゃ当たる方式」です。

これで、毎年のように、驚きの探査結果が送られてくる、なんていう事になりませんかね。


 まあ、SF好きとしては、ある日突然UFOに乗せられて、という事が起きないかなと思っているのですが。


ではでは