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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

続中国大返し

中国大返し」について考えてみた話(続編)です

 

 

秀吉は一日に70km

 前回の記事では、姫路城までの二日での92kmの行程が、実際には3日間で移動したと考えると、現実的な範囲内に収まるのではという話をしました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そうだとしても、同記事の中でも考えたように、秀吉とその側近は騎馬で駆け抜けて、7日に姫路城についた訳です。

秀吉が、一日で70kmを駆けて姫路城に入ったというのは、「中国大返し」という話を前提とすると、信長の仇を一日も早く討つために、先を急いだように見えます。

しかし、前回の記事で考えたように、多くが徒歩で移動する残りの軍勢は、そのスピードで動ける訳は無く、実際には、翌日の8日までかかって到着したのです。

こういった事は、秀吉にも重々分かっていたはずです。

という事は、秀吉は、先を急いでいたわけでは無く、とにかく姫路城まで急いだという事になります。

信長死すの一報に、秀吉の考えたこと

 本能寺の変の報を、備中高松城責めの陣中で受け取った時の事を考えてみたいと思います。

とにもかくにも、最大の懸念材料は、光秀が本能寺の変の勢いのままに、秀吉に向かってくることだったと思われます。

そうなれば、その時点で相対している毛利との間で挟撃されることになってしまいます。

それを避けるには、毛利と講和を結ぶしかありません。
その結果が、何か裏が有ったのではないかと勘繰られるほどの速さでの講和だったのだと思います。

講和が成れば、あとは向かってくるかもしれない光秀に対処するために、毛利の追撃を警戒しつつ、守りを固める事が出来る姫路城への移動だという事になります。
その結果が、一日70kmの移動だったのでしょう。

という訳で、姫路城までの行程は、信長の仇を討つために東へ取って返したという性格のものでは無く、毛利と光秀による挟撃に備えるための姫路城への撤退と言ってもいい動きだったという事になります。

結局、「中国大返し」とは

 ここでもう一度、時系列を見てみましょう。

6月 6日 高松城 → 沼城  約22km
6月 7日 沼城  → 姫路城 約70km
6月 8日 姫路城
6月 9日 姫路城 → 明石  約35km
6月10日 明石  → 兵庫  約18km
6月11日 兵庫  → 尼崎  約26km
6月12日 尼崎  → 富田  約23km
6月13日 富田  → 山崎  約6km

7日に姫路城についた翌日の8日に、一日姫路城に留まっています。
これついては、従来は、前日までの奇跡的な行軍の疲れを取るためといった解釈がされてきました。

しかし、前回の記事で考えたように、決して強行軍では無かった訳で、その必要は無かった事になります。

結局、7日までの動きは、一刻も早く姫路城にたどり着き、秀吉の安全を確保するのが第一の目的だったという事になります。

その上で、遅れて来る兵を待ちながら、信長討たれるという一報後も順次入って来ていたはずの情報を分析しながら、その後の方針について考えを巡らせたのが、姫路城での8日の一日だったのではないでしょうか。

その中で、光秀が攻めて来ない状況を確認して、翌日以降の京へ向けての進軍を決めたのだと思います。

つまり、関ヶ原の変の一報を受けてからの、間髪入れずの信長の仇を討つための奇跡的な「中国大返し」などというものは無かったのです。

現実は、毛利と光永による挟撃を恐れた、素早い毛利との講和と迅速な姫路城への撤退、それに続く状況を確認しながらの京への進軍だったと言えるでしょう。

もっとも、8日の一日で、京への進軍を決断したのも、凄いと言えば凄いと言えるのかもしれません。


 誰が呼んだか、「中国大返し」という秀逸なキャッチフレーズのおかげで、勘違いさせられていたという事でしょうか。


ではでは