思いもかけず中国大返しについて考えた話です
大坂冬の陣図屏風
TVで歴史関連の番組が有る時には、基本的に録画しておいて見ることにしています。
いつものように、溜まったバックログを消化していたんですが、思いもかけずに、中国大返しに関係する情報を見つけたので、それについての話になります。
そのバックログは、NHKの「英雄の選択」という番組の、「大坂冬の陣図屏風」に関する回でした。
再放送で、最初の放送の時に見た記憶があるので、見るともなしにBGM代わりに流していました。
「大坂冬の陣図屏風」とは、その名の通りに、大坂冬の陣の情景を屏風にしたものですが、原本は失われて、下絵のみ伝わっているようです。
それを、彩色して復元したことにより、新たな謎が出て来たという事で、それについての番組になります。
最大の謎は、豊臣家滅亡後に豊臣方優勢の場面を描く屏風がなぜ作られたのか、そして作らせたのは誰なのかという点になります。
秀忠も候補者
発注者に関しては、豊臣側、徳川側それぞれに色々と候補者が出て来るのですが、その中に、徳川2代将軍の徳川秀忠も登場します。
徳川側のそれも将軍なのにどうしてという事ですが、その原因は、関ヶ原の戦いに遡ります。
秀忠は、関ヶ原の戦いの時に、途中の信州上田城の真田昌幸を攻めあぐね、開戦に間に合いませんでした。
そこで、本隊を任された大坂冬の陣では、名誉回復を図るべく臨んだのですが、結局中心となったのは家康でした。
そこで、あえて、豊臣優勢の絵図を描かせたのではないかという訳です。
今回の眼目は
発注者が秀忠だという説は、なかなか面白いのですが、今回の眼目はそこに有りません(ここまで引っ張ってなんなのですが)。
問題は、大坂冬の陣での秀忠の行動を説明した部分に有りました。
上にも書いたように、秀忠は、汚名挽回とばかりに気合十分で臨んでいました。
その気合が空回りしてしまったのか、6万の軍勢を率いて出陣したのですが、異常に早く軍を進めたというのです。
そのスピードは、江戸から今の愛知県豊橋までの290キロを、なんと6日!で行軍したらしいのです。
もっとも、京都についた時には、兵は疲労困憊で、家康はひどく御立腹だったらしいですが。
より具体的な例が
中国大返しに関しては、それに関する記録が無いのは、当時の人間から見れば、それほど特筆すべき事では無かったからだという論を展開しました。
ところが、上記のように、疲労度は別にして、6万の軍勢が290キロを6日で行軍可能だった訳です。
これに比べれば、秀吉の中国大返しにおける、2万の軍勢による10日で200キロは、全く常識的な範囲の行軍という事になりそうです。
その程度の事だったのが、その後に秀吉が天下を取ったために、「中国大返し」と呼ばれるれる事になってしまったということなのでしょう。
今回の番組の初回放送は2019年8月のようですから、まだこのブログで「中国大返し」を取り上げる前になります。
だからなのか、秀忠の行軍の件は、全く不意打ちでした。
その時の興味の対象でないと、こうも記憶に残らないものなんですねえ。
ではでは