横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

箸の使い方矯正法?

箸の使い方矯正法?(私は矯正された)に関する話です。

 

 

両手で箸を

 私、特技という程の事では無いのですが、両手で箸を使う事が出来ます。

会食の席などで、初めての人には、話のネタとして使えるので重宝しています。

「利き手をケガしても、食べられますね。」というような反応に対して、「それよりも、両手に箸を持つことで、人より倍の速さで食べられるんですよ。」というのが定番の落ちです。

それはそれとして、両手で箸を使うようになったのは、高校生の時に、「両手で使うと、左右両方の脳を使うことになるので、頭がよくなる」みたいな話があって、ダメ元でやってみたからです。

確か、夏休みの間、食事を左手で食べて覚えたのでした。

まあ、その効果の程については、本当にダメ元に終わったのですが、両手で箸を使うことは出来るようになった訳です。

右手も上手くなった

 ただ、頭は良くはならなかったのですが、明らかに良くなったものが有りました。

それは、利き手の右手での箸の使い方です。

左手で練習するまでは、利き手の右手での箸の使い方は、気が付くと箸がクロスしてしまっているという使い方でした。
ネットで調べてみると、「バッテン箸」と言うようです。

左手で箸を使おうとすると、最初は右手と同じように使う事すら出来ず、持ち方すらおぼつかない事になります。

つまり、持つところから、ワンステップ毎に、考えながらやらなければいけない訳です。

さすがに、クロスするのは正しい使い方では無いと分かっていたので、図書館で正しい使い方の書いてある本を借りて来て(まだネットなどというものは無かったのです)、見ながら練習しました。

そうやって、夏休みの間に、大豆をつまんだり、ソバをすすったり、ほぼ支障の無いまでになりました。

この間、早く左手で出来るようにと、右手は使っていませんでした。

そして、左手が使えるようになって、久しぶりに右手を使うと、不思議なことに、右手も正しい使い方になっていたのです。

手続き記憶の上書き

 この現象に関する一応の解釈はこうです。

箸を使う時には、いちいちどう使うかを考えることなく、無意識の内に行うと思います。

これは、「自転車の乗り方」や「泳ぎ方」のような、「手続き記憶」と呼ばれているものと同じだと考えられます。

いわゆる「体が覚えている」というやつです。

始めて、左手で箸を使おうとすると、上に書いたように、意識的に考えながらやることになります。

そのことに拠り、箸を使うという「手続き記憶」が上書きされたと考えます。

そのため、右手での使い方も上手くなったという訳です。

多少疑問はあるが

 ただし、これだけだと、少し疑問が残るんですよね。

この考え方だと、左手の練習をする前の右手だけ使っていた状態でも、左手も「バッテン箸」の使い方で使えないといけないことになります。

実際には、もうチョット複雑な仕組みがあるような気がするんですが、これ以上は何とも言えません。

とは言え、左手で覚えたものが右手にも反映されたことは確かです(例としては、私一人しかいませんが)。

両手で使えるようになるというおまけもついてくるので、矯正法として面白いんじゃないかと思うのですが。


 この方法論は、他にも利き手でやる事の矯正に使えそうな気がしてきました。
とりあえず、思いつくのが、字を書くことなんですが、どんなものでしょう。


ではでは

藤圭子と美空ひばり

藤圭子美空ひばりについて考えてみた話です。

 

 

藤圭子が入っていなかった

 もう一ヶ月以上前になりますが、10月4日のTBS『本当のとこ教えてランキング』という番組内で、「プロの声楽家が選ぶ、本当に歌がうまい女性歌手ベスト30」というものが放送されました。

 プロの声楽家らが芸能界のしがらみなどに左右されず「忖度なし」で、本当に歌唱力の高い女性歌手30人を決めたというものでした。

具体的には、

  • 131名のプロの声楽家が、各々ベスト10を選ぶ
  • 各々のベスト10に対して、1位10点、2位9点・・・10位1点とする
  • 合計点を求め、得点順にベスト30を決める

というものでした。

その中に、大好きな藤圭子が、ベスト10どころか、影も形も入っていなかったのです。

ファンとしては、そんな馬鹿な!、でした。

一位はやっぱりあの人

 一位は、やっぱりというか、当然と言うか、美空ひばりでした。

もう予定調和と言ってもいい感じで、番組の出演者も、納得といった反応でした。

選んだ声楽家のコメントも、神様とか歌の女王とかの言葉が使われ、技術云々以外に、崇拝に近いものも有ったように思いました。

素人が聞いても凄いわけですが、プロの声楽家から見ても、その歌のうまさは別格という事でしょうか。

藤圭子も凄いと思うのですが

 しかし、ファンとしては、藤圭子も結構うまいんじゃないかと思う訳です。

藤圭子と言うと、どうしても、「圭子の夢は夜ひらく」とか「女のブルース」という事になりがちですが、カバーもいろいろしています。

ここは一位が美空ひばりという事で、「みだれ髪」を聞いてもらいたいと思います。


藤圭子♥追悼:みだれ髪

素人なので、どこがどうとは言えないのですが、この「みだれ髪」も中々だと思うのですが。

比較のために、本家の方もどうぞ、


美空ひばり 880508 『みだれ髪』

素人が聞いても上手いなあと思うのはさすがです。

こういう事なのでは

 その後、それを契機に、二人の歌を中心に、その他の順位の人(娘の宇多田ヒカルが、五位だったりします。)の歌とかも、色々と聞き比べたりしていたんですが、テクニックがどうとか分かる訳でもないので、釈然としないものが、残ったままでした。

ところが、最近になって、こういう事なんじゃないかというものに思い至りました。

上でも思わず書いたように、美空ひばりの歌を聴くと、先ず上手いが来るのです。

とにかく、上手すぎて、何の歌を聴いても、美空ひばりは「やっぱり上手いなあ」と感心してしまうのです。

それに対して、藤圭子の場合は、聞き終わった後に、「いい歌だなあ」と思いがちなのです。

歌の上手さが前面に出る美空ひばりと、歌の良さが前面に出る藤圭子という事でしょうか。

どちらが良いとか、悪いとかいうものではなく、二人共に天才には違いないのですが、その有り方が違うという事なのだと思います。


 まあ、自分の推しが選抜メンバーに選ばれなかったファンの、自分を納得させるための屁理屈なので、ご容赦を。


ではでは

マルチビタミンは効果が無い?

マルチビタミンの効果について考えてみた話です。

 

 

効果が無い?

 最近、ネット上のあちこちで、マルチビタミンに関する調査の話を見るようになりました。

アメリカで行われた大規模な調査の結果、マルチビタミン利用者と非利用者では、健康面で違いが無かったという報告が基になっています。

私的には、以前の記事で書いたように、いわゆる健康長寿の方法に関しては、将来的にはともかく、現状においては否定的なので、今回の結果にもそれほど違和感は有りません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

しかしながら、全く意味が無いというのもどうかなとは思うのです。

腐ってもビタミン

 何しろ、マルチビタミンというぐらいですから、当たり前ですが、ビタミンが色々はいっている訳です。

ビタミンA、B、C、Dとかのよく聞くものを筆頭に、その他にもろもろ入りという事です。

ビタミンは、Wikipediaで調べると、「生物の生存・生育に微量に必要な栄養素のうち、その生物の体内で十分な量を合成できない炭水化物・タンパク質・脂質以外の有機化合物の総称」というものになります。

生物の生存・生育に必要という事なので、全く意味が無いというのは逆に考え難いのです。

欠乏症の薬として

 そもそも、ビタミンは欠乏すると、様々な症状が現れます。

例えば、ビタミンAが欠乏すると、鳥目とも呼ばれる夜盲症になりますし、ビタミンB1の欠乏は、有名な脚気といった具合です。

これらに対する薬は、それぞれのビタミンという事ですから、ビタミンを摂取することが無意味で有る訳は無いのです。

調査の内容

 もう一度、調査の内容をよく見てみると、4万人ほどの人に健康関係の事柄について、アンケート調査を行ったものの中に、マルチビタミンの摂取の有無の項目があった事に目をつけて、健康と絡めて分析を行ったと言もののようです。

健康の内容としては、心疾患、脳疾患などの比較的深刻な病気との関係を調べているようです。

この辺りに、ビタミンの摂取が無意味だという結果の秘密が有りそうです。

ビタミンの効果

 結局、ビタミンは、我々の生存・生育に必要なものではあるが、心疾患などを予防するものでは無いという事のようです。

しかしながら、欠乏症の薬でもあるので、最近知られるようになった、エネルギー量は足りていても栄養素が足りていない、現代型の栄養失調には意味がありそうです。

今回の調査では、アンケートを基にしているので、そこまで細かい状況を調べたわけでは無いようですし、マルチビタミンの摂取も、申告を基にしているだけなので、どの程度摂取しているのかも疑問は残るところだと思います。


 調査によれば、マルチビタミンを摂取することに拠る悪影響は無いようなので、どうしてもスナック菓子が減らせない私としては、取った方がいいんですかねぇ。


ではでは

人類の考えてきた事のアウトライン

人類の考えて来た事のアウトラインについて考えてみた話です

 

 

突然やって来る

 私の場合、何かについて調べたり、勉強したりするときには、基本的に最初の手順として、アウトラインを確認して、その後各論に入っていくという事が多いです。

例えば、本を読むときには、先ず目次を見て、大体の話の流れを想像してから、読みがちです。

昨日、スーパーに向けて歩いていた時に、突然何の脈絡もなく、人類の考えて来た事のアウトラインを確認出来るかもしれない方法を思いつきました。

それにしても、頭の働き方はどうなっているのかよく分からないですねぇ。
昨日思いついた時にも、人類の考えて来た事なんてことも、自分の調べ方についてなんてことも、全く考えていなかったんですけでどね。

それはそれとして、思いついたのは、日本十進分類法を利用すればいいんじゃないかというものです。

日本十進分類法

 日本十進分類法とは、図書館で、本を分類するときに使われる分類法です。

図書館に行って、棚に並べてある本を見ると、よく次のようなラベルが張られています。

f:id:t_arata:20201112213012p:plain
引用元:背ラベル(セラベル) | 基本的な用語 | 図書館用語集 | FJAS図書館ポータル -- Fujitsu --

この一番上の段の番号が、日本十進分類法により付けられた番号です。

本を棚に戻すときに、この番号により、どの棚の本なのかが分かるという仕組みになっています。

また番号は、当然闇雲についているわけでなく、同じ分野の本については、同じ番号を付けることに拠り、分野ごとに本が棚に並ぶというシステムになっているわけです。

ちなみに、二段目は著者名なので、これに従って並べることに拠り、同一分野内で、著者名順に本が並ぶことになり、探しやすくなるという事になっています。

分類の内容

 具体的な分類方法は以下のようになります。

先ず、全体を10の項目に分類します。
具体的には、

  • 0 総記 (情報学、図書館、図書、百科事典、一般論文集、逐次刊行物、団体、ジャーナリズム、叢書)
  • 1 哲学 (哲学、心理学、倫理学、宗教)
  • 2 歴史 (歴史、伝記、地理)
  • 3 社会科学 (政治、法律、経済、統計、社会、教育、風俗習慣、国防)
  • 4 自然科学 (数学、理学、医学)
  • 5 技術 (工学、工業、家政学
  • 6 産業 (農林水産業、商業、運輸、通信)
  • 7 芸術 (美術、音楽、演劇、スポーツ、諸芸、娯楽)
  • 8 言語
  • 9 文学

のようになります。

更に、各項目を10項目に分類します。

この段階で、100項目に分類されることになります。

更に、100項目をそれぞれ10項目に分類します。

最終的に、全体が1000項目!に分類され、三桁の数字で表せることになります。

ちなみに、前掲ラベルの9136は、「現代日本文学の小説、物語」という事を表しています。

分類の意味するところ

 さて、上で見てきたように、日本十進分類法は図書館における本の分類法だった訳ですが、建前上は、これにより古今東西全ての本が分類される訳です。

ということは、本という形で表されたすべての考えが分類されていることになります。

見方を変えて大袈裟に言えば、人類がこれまでに考えて来た事が、1000項目に分類されていると言ってもいい事になります。

これは、言い換えると、この1000項目が、人類の考えて来た事が全て書かれた本の、目次のようなものだとも言ってもいいかと思います。

この1000項目に関して、調べることに拠り、人類の考えて来たことの、アウトラインを手に入れる事が出来るのではないかとおもうのです。

Wikipedia

 図書館に行って、それぞれの項目の代表的な本を探してもいいのですが、現代の我々にはWikipediaという武器が有るのでこれを使わない手はありません。

Wikipediaにもそのものずばりの、日本十進分類法という項目が有ります。

ja.wikipedia.org

そこには、1000項目(実際には未定義なども有り1000は無い)すべてが記載されているので、それを足掛かりに、調べていけばよさそうです。


 それにしても、Wikipediaを始めとして、いい時代になったものです。


ではでは

農耕文明と人生

農耕文明と人生について考えてみた話です。

 

 

現代社会は農耕文明

 現代社会が、農耕文明をベースとして成り立っている事は、疑問の余地のないところだと思います。

都市の発生とか、鉄の利用とか、産業革命などなど、人間社会の様々な発展の過程が有る訳ですが、いずれもその根底に農業の存在が有る事は否定できません。

現在までのどのような段階に発展した社会も、農業による生産物無くしては、あっという間立ち行かなくなってしまうのは、火を見るより明らかです。

農耕の生産力

 以前の記事で、農耕社会は、狩猟採集では生存が困難になった時に、始まったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

更に、農耕による生産物を管理する独占的に管理することに拠り、権力が発生したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

まあ、狩猟採集では生きていくことが困難になった結果、その解決策として農耕を取り入れたと考えているので、当たり前と言えば当たり前ですが、農耕には、関係者全員が食べていくだけの生産力が有る事になります。

さらに、権力階級が存在し得ることからも分かるように、農耕の特徴の一つは、生産性が高いという事です。

ただ単に全員が食べていけるだけではなく、農耕に必要な人員以上の人間が食べていけるだけの、生産量が有ったという事です。

全ての人間が食べれるはず

 まとめると、農耕により、権力階級等の農耕作業に直接かかわらない者も含めて、全ての者が食べていくことが出来るようになったという事になります。

その上で、先にも書いたように、その農耕を基盤とした社会に現代の我々も生きている訳です。

その割には、ただ食べていくというだけの事が、なぜこれほどまでに難しい事になっているのでしょう。

その種類、内容は別にして、少なくとも最低限の食事を、全員が出来るはずです。

正確には、複雑化、巨大化した現代社会では、そこまで生産にリンクして人口が変化しているわけでは無いですが、それは世界から飢餓を無くすという、チョット似て非なる問題になってしまうので、ここでは十分なものが生産されると考えます。

お金が原因?

 前回の記事で、人が生きていくこと自体は辛い事でもなんでもなく、ひょっとしたら楽しい事でさえあるかもしれないが、その生きるという事のためにお金を稼がなければいけないという構図こそが、競争を生みだし、その事が生きることの厳しさの原因では無いかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

なぜお金を稼ぐことが、競争を生む程厳しい事になるのかと言えば、結局の所、現代社会においては、お金が無いと生活していけないという事に尽きるでしょう。

この事と、上述の農耕文明なのに食べていくことが難しいという話を合わせて考えると、本来ならば、農耕を取り入れることに拠り担保されるはずの、基本的な生活にもお金が必要な事が、問題の中心という事になりそうです。

であるならば、基本的な生活と、お金というものを分離することが出来れば、良いということになりそうです。

理屈はそうだが

 しかしながら、これなどは言うは易し行うは難しの典型で、実際にどうしたらいいのか、とんと浮かびません。

一瞬、最近各所で話題のベーシックインカムかなとも思ったのですが、支給されるお金で、基本的な生活を保障することは難しそうですし、そもそも、結局お金というものを分離出来ていないという事も有るので、チョット違うかなという気がします。

と、ここまで書いて来て何なんですが、残念ながら今のところこれといった良い案も浮かばないので、この件に関しては、しばらく寝かしてみようかなと思います。


 やっぱり、どんなことでも、お金が絡むと途端にややこしくなるんですよね。

とは言っても、結局は先立つものが無いという話なんですけどね。


ではでは

プロという存在と人生

プロの存在と人生について考えてみた話です。

 

 

プロの仕事は面白い

 前回の記事で、「プロ」と名のついている仕事について、共通点として、いずれも基本的な生活を維持するのに必要で無い事を生業としている点について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その、生活を維持するのに必要で無い事ですが、それでもやるのだから、人によって好き嫌いはあるでしょうが、いずれも、やること自体が面白い事だという共通点もある様に思われます。

面白い事やって、稼げるわけですから、私だって野球をやってお金を貰えるものだったら貰いたいものです。

こういう事を言うと、まあ大抵は、プロの厳しさが分かっていないという話になる訳です。

面白いが厳しい

 確かに、戦力外通告をされたプロ野球選手の話が、毎年オフシーズンになると色々と喧伝されますし、賞金で生活できるのは、プロゴルファーのごく一部だという話もよく聞きます。

最近では、藤井2冠の人気で注目を集めるプロ棋士に関して、奨励会を突破できずに、「プロ」になる夢を断たれる人達の話も知られるようになりました。

その通りではあるんですが、これよく考えると、決して野球、ゴルフ、そして将棋そのものが厳しいと言われているわけでは無い事が分かります。

いずれも、参加できる人間に制限を作り、その中での競争が厳しい事になっている訳です。

そもそも、やること自体が厳しいものを子供が喜んでやる訳は無いわけで、これらをやることは本来楽しい事のはずなのです。

ここでは触れなかった、その他のプロに関しても、同じことが言えると思います。

では何が厳しいのかと言うと、その楽しい事をやってお金を稼ぐという構図が厳しいということになるのではないかと思います。

楽しい事やってお金がもらえるのならば、上に書いた私のように、やりたいと思う人間は少なくない筈で、その結果として競争が激しくなるというのは、分かり易い構図だと思います。

人生の厳しさは

 ところで、以上の事は、私たちの人生の捉え方にも関係しているのではないかと思うのです。

現代の社会で私たちが生きていくというのは、一部のお金の心配をしなくてもいい人達は除いて、多かれ少なかれ同じような構図ではないかと思うのです。

「プロ」の場合のように分かり易いものばかりでは無いですが、結局の所、何かをしてお金を稼ぐ構図には違いが無いわけです。

「プロ」とは違って、全てが面白いからという訳では無く、生きていくために必要だからという事も、少なくない訳ですが。

いずれにしても、何をやるかという事よりも、それによりお金を稼ぐのが厳しいというわけです。

これこそが、生きる事が厳しく感じられる、最も大きな原因という事では無いでしょうか。

であるとするならば、「プロ」の在り方との比較で考えると、実は生きていくこと自体は厳しい事では無く、それどころか楽しいものであるかもしれないという事になります。

人生は、生きているだけで、楽しいものかもしれないのです。


 とは言っても、現実には、お金が無いとそれはそれで厳しいことになるのは、明らかなんですよね。
何とかなりませんかね。


ではでは

プロと名の付くもの

プロについて考えてみた話です。

 

 

プロとプロフェッショナル

プロについて考えるにあたり、先ずプロフェッショナルとプロについて考えてみます。

プロフェッショナルを略したのが、プロじゃないかという話も正しいのですが、それだけでもないように思うのです。

NHKのドキュメンタリー番組に「プロフェッショナル仕事の流儀」というものが有ります。

今調べてみたら、2006年の開始以来、450回以上放送されているようです。
という事は、対象となった人、つまりプロフェッショナルもその位の人数になる訳です。

先日、その放送を見ていて、改めて、プロフェッショナルとプロって、同じ言葉のように見えて、チョット使い方が違う点があるように思ったのです。

プロとは呼ばれない

 その回に取り上げられていたのは、魚仲買人でした。

別に魚仲買人についてどうこう言う訳では全く無いのですが、私が考える「プロ」では無いと思ったのです。

そう思ってみれば、番組のタイトルも、プロではなくプロフェッショナルです。

プロと言えば、すぐに思いつくのが、プロ野球、プロゴルファーのように、スポーツを行う事によりお金を稼いでいる人たちの事です。

これが私の考えている「プロ」です。

魚仲買人は、明らかにそういった人たちとは違います。

この番組の内容から考えると、「特定の仕事の中で能力が高く、技能に優れる人」といった意味でプロフェッショナルを使っている事になります。

”さすがあの人の仕事は、プロの仕事だね”といった言い方をするときのプロにあたるものだと言ってもいいでしょうか。

この場合のプロは、プロフェッショナルの略という事になると思います。

では、普通に思い浮かぶ「プロ」というのは、どういう事になるのでしょうか。

プロと呼ばれるのは

 もう一度、話を番組の内容に戻すと、その対象は、先にも書いたように魚仲買人でした。

「能力が高く、技能に優れる人」という意味では、確かに取り上げられていた人は、プロフェッショナルと言っていい人でした。

しかし、よく考えると、どれほど技能が高くても、プロの魚仲買人と呼ぶことは有りません。
そもそも、アマチュアの魚仲買人という呼び方は有りません。

プロのゴルファーとは呼んでも、プロの魚仲買人とは呼びません。
これはどう考えれば良いでしょう。

こういう時には、同じ種類のものから共通点を考えるのが常套手段です。

という訳で、「プロ」の例を見てみましょう。

プロ野球選手
プロゴルファー
プロのピアニスト
プロの作家
プロゲーマー
プロ棋士

と思いつくままに挙げてみましたが、どうやら一つの共通点が有りそうです。

いずれも、人間が、生命を維持していくのに必要不可欠なものに、関わっているのでは無いという事では無いでしょうか。

とは言っても、魚仲買人は、一見生命維持に必要ではなさそうです。

そのあたりは、現代社会が複雑になってしまっているので、簡単に線引き出来るわけでは無いという事になるでしょうか。

現代社会の中で、基本的な生活を維持するのに必要なものを構成する一部かどうかという括り方がいいのかもしれません。

極端に言えば、「プロ」は有っても無くても、人間の生存には関係が無いという事です。

 


勘違いしないでいただきたいのは、決して、プロのようなものを問題にしている訳では無いという事です。
私個人としては、プロ野球が無くなると、確かに生存には問題が無いかもしれないですが、何とも味気ない生活になる可能性が高いです。

ただ、生存に関係の無い事で、お金を稼ぐ、すなわち生存を行うという構造が、我々の社会には有るという事が興味深いのです。

 


ではでは

続々中国大返し

中国大返し」について考えてみた話(続続編)です

 

 

NHK BSの番組

 前回、前々回と「中国大返し」について書いてきましたが、その発端とも言える、NHK BSの番組(「英雄たちの選択」)の内容にも触れておきたいと思います。

その番組の内容も、基本的には、「中国大返し」を奇跡的な出来事と呼ぶのはどうか、という論調のものでした。

具体的には、兵庫城発掘調査の結果などから、秀吉が信長を援軍として迎えるにあたり、各所に休息・宿泊できるように、御座所を整備して兵糧も蓄えていたと推測し、それが中国大返しの時に役に立ったという事を根拠としていました。

正直、その事だけで、そこまで言うのはどうかと思いました。

勿論、発掘調査の結果を否定する気は毛頭ありませんし、秀吉が信長のために御座所のような施設を作っていたとしても不思議は無いと思います。

更に、それらの施設が、「中国大返し」の際に役に立ったという事も有ったとは思います。

食料問題

 そもそも、このような話が出て来る背景には、「中国大返し」を奇跡的な出来事と考える時に、その行軍中の食事の面からも、そう考えられるのではないかという観点が有ります。

2万にも及ぶ人間が、迅速に移動するのに対して、食事の準備はどうしたのかという訳です。

中には、一人当たりの行軍に必要なカロリー数と軍勢の規模を二万と考えて、一日当たりおにぎり換算で約40万個、重量にして約40トン必要とし、その調達自体も容易でないと考えたという研究も有ります。

確かに、計算上はそうなるのかもしれませんが、これは「中国大返し」を、単独の出来事として考えた場合にはそうなるという事でしょう。

大返しの前も戦っていた

中国大返し」という事を行ったのが、約二万とも言われる秀吉の軍勢で有ったのは確かな事です。

しかし、その二万の人間は、「中国大返し」を行う時だけ忽然と現れた訳ではありません。

当然の事ですが、秀吉の軍勢は、「中国大返し」を行う直前は、毛利方の備中高松城を攻めていた訳です。

その戦いは、勿論日帰りや一泊二日で終わる訳では無く、3月に姫路城を立って以来、大返しを開始する時点で、すでに約3ヶ月が経過していました。

その間、飲まず食わずで戦う訳は無く、先の説のように、一日40万個のおにぎりかどうかはともかく、それなりに食料は必要だったはずです。

兵站は常に重要

 古今東西、戦いにおいて、兵站の重要性は言われているところです。

それは、秀吉の軍においても同様であったはずです。

当然、東の方面から、備中高松に向けて兵站線が伸びていたはずで、必要に応じて、食料を運び込んでいたはずです。

そうでなければ、3か月に渡って、城攻めを続ける事が出来るわけが有りません。

結局、中国大返し」においては、その高松城攻めのための兵站線を逆に辿ることで、食料を確保しつつ東に進んだのだと思われます。

その兵站線の中に、兵庫城のような信長の御座所としての機能を持ったところも有ったという事なのでは無いでしょうか。


 3回に渡って見て来た「中国大返し」ですが、決定的な時に絶妙なところにいた秀吉は、やはり持っている人だったという事になるのでしょうか。


ではでは

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

続中国大返し

中国大返し」について考えてみた話(続編)です

 

 

秀吉は一日に70km

 前回の記事では、姫路城までの二日での92kmの行程が、実際には3日間で移動したと考えると、現実的な範囲内に収まるのではという話をしました。

 

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そうだとしても、同記事の中でも考えたように、秀吉とその側近は騎馬で駆け抜けて、7日に姫路城についた訳です。

秀吉が、一日で70kmを駆けて姫路城に入ったというのは、「中国大返し」という話を前提とすると、信長の仇を一日も早く討つために、先を急いだように見えます。

しかし、前回の記事で考えたように、多くが徒歩で移動する残りの軍勢は、そのスピードで動ける訳は無く、実際には、翌日の8日までかかって到着したのです。

こういった事は、秀吉にも重々分かっていたはずです。

という事は、秀吉は、先を急いでいたわけでは無く、とにかく姫路城まで急いだという事になります。

信長死すの一報に、秀吉の考えたこと

 本能寺の変の報を、備中高松城責めの陣中で受け取った時の事を考えてみたいと思います。

とにもかくにも、最大の懸念材料は、光秀が本能寺の変の勢いのままに、秀吉に向かってくることだったと思われます。

そうなれば、その時点で相対している毛利との間で挟撃されることになってしまいます。

それを避けるには、毛利と講和を結ぶしかありません。
その結果が、何か裏が有ったのではないかと勘繰られるほどの速さでの講和だったのだと思います。

講和が成れば、あとは向かってくるかもしれない光秀に対処するために、毛利の追撃を警戒しつつ、守りを固める事が出来る姫路城への移動だという事になります。
その結果が、一日70kmの移動だったのでしょう。

という訳で、姫路城までの行程は、信長の仇を討つために東へ取って返したという性格のものでは無く、毛利と光秀による挟撃に備えるための姫路城への撤退と言ってもいい動きだったという事になります。

結局、「中国大返し」とは

 ここでもう一度、時系列を見てみましょう。

6月 6日 高松城 → 沼城  約22km
6月 7日 沼城  → 姫路城 約70km
6月 8日 姫路城
6月 9日 姫路城 → 明石  約35km
6月10日 明石  → 兵庫  約18km
6月11日 兵庫  → 尼崎  約26km
6月12日 尼崎  → 富田  約23km
6月13日 富田  → 山崎  約6km

7日に姫路城についた翌日の8日に、一日姫路城に留まっています。
これついては、従来は、前日までの奇跡的な行軍の疲れを取るためといった解釈がされてきました。

しかし、前回の記事で考えたように、決して強行軍では無かった訳で、その必要は無かった事になります。

結局、7日までの動きは、一刻も早く姫路城にたどり着き、秀吉の安全を確保するのが第一の目的だったという事になります。

その上で、遅れて来る兵を待ちながら、信長討たれるという一報後も順次入って来ていたはずの情報を分析しながら、その後の方針について考えを巡らせたのが、姫路城での8日の一日だったのではないでしょうか。

その中で、光秀が攻めて来ない状況を確認して、翌日以降の京へ向けての進軍を決めたのだと思います。

つまり、関ヶ原の変の一報を受けてからの、間髪入れずの信長の仇を討つための奇跡的な「中国大返し」などというものは無かったのです。

現実は、毛利と光永による挟撃を恐れた、素早い毛利との講和と迅速な姫路城への撤退、それに続く状況を確認しながらの京への進軍だったと言えるでしょう。

もっとも、8日の一日で、京への進軍を決断したのも、凄いと言えば凄いと言えるのかもしれません。


 誰が呼んだか、「中国大返し」という秀逸なキャッチフレーズのおかげで、勘違いさせられていたという事でしょうか。


ではでは

中国大返し

中国大返し」について考えてみた話です。

 

 

中国大返し

 BSの「英雄たちの選択」という番組で、豊臣秀吉の有名なエピソード「中国大返し」についてやっていました。

それに触発されて、改めて「中国大返し」について考えてみました。

中国大返し」といえば、ご存知のように秀吉が、信長の死後、極めて短期間で中国地方から引き返して光秀を討ったと言う話になります。
その引き返すスピードがあり得ないほど早いように思えることから、事前に本能寺の変について知っていたのではないか、つまり黒幕では無いかという説も有ったりします。

そのスピードについて考えるために、先ず時系列で見てみたいと思います。

日付等には、様々な説が有りますが、一応よく言われているものを上げます。

6月 6日 高松城 → 沼城  約22km
6月 7日 沼城  → 姫路城 約70km
6月 8日 姫路城
6月 9日 姫路城 → 明石  約35km
6月10日 明石  → 兵庫  約18km
6月11日 兵庫  → 尼崎  約26km
6月12日 尼崎  → 富田  約23km
6月13日 富田  → 山崎  約6km

特に、開始日に関しては、6日のほかに、4日、5日といった説も有りますが、いずれも、日程的には楽になる訳で、ここでは、最も短期間となる6日で考えたいと思います。

姫路城までの70km

 この中では、やはり6月7日の姫路城までの約70kmが目に付きます。

これまでは、この事を捉えて、一日で70kmという非常識とも言える速さをどう考えるかという点が問題となって来ました。

この点に関しては、次のように考えれば、常識的な範囲に落ち着くのではないかと思っています。

それは、各地点に、ここでは姫路城ですが、2万~3万と考えられる全軍が到着したのではなく、秀吉が到着した事を表していると考えるのです。

勿論、秀吉が一人で到着した訳では無く、その重臣や直属の部隊も一緒だとは思いますが。

当然、彼らは徒歩ではなく、騎馬だったと考えられますから、70kmは無理ではない距離だったと思われます。

残りの軍勢は、8日までかかって姫路城に到着したと考えれば、6から8日までの三日間で22+70の約92kmを移動すればいいことになります。
つまり、一日当たり30km強という事になります。

30km強は可能か

 それにしても、次の日の明石までの35kmも含めて、一日30km強を4日というのは可能なんでしょうか。
少なくとも、私には、もし最も体力の有った20代だったとしても、出来るとは思えません。

昔の人はどうだったんでしょう。

江戸時代に、東海道をどれぐらいかかっていたのか調べてみると、途中で観光したりする物見遊山の旅は別として、大体11から12泊の12から13日で、歩いていたようです。

さて、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492kmだそうです。
という事は、13日だと一日当たり約37.8キロ、12日だと、なんと一日当たり40.8キロにもなります。

現代の人間にとって、40.8kmを一日で歩くのは、なかなか大変な事です。
しかもそれを12日間毎日行うというのは、ほぼ考えられないでしょう。

太平の世の江戸時代の、武士では無い庶民でも、このぐらい歩けた訳です。

加えて、戦国時代の、軍事行動としての行軍なのですから、30km強を4日間というのは、それほど非常識な事では無かったのではないでしょうか。

という事で、「中国大返し」の行軍は、よくTVで流される映像のように、騎馬を先頭に足軽が列を成して走っているようなものでは全く無かったという事になります。


 結局、「中国大返し」のスピードからは、秀吉が本能時の変の黒幕とは言えないという事の様です。


ではでは

大坂の陣

大坂の陣について考えた話です

 

 

関ヶ原の戦い以降

 先ず、前回の記事と同じ、関ヶ原の戦い以降の家康関係の出来事を時系列にしたものを見てもらいたいと思います。

1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1614年 72歳 大坂冬の陣
1615年 73歳 大坂夏の陣武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去

ここでのポイントは、征夷大将軍になってから大阪の陣までに、11年の時間が有るという点です。

前回の記事で考えたように、関ヶ原の戦いとその後に、家康は、豊臣家の事を滅ぼさず、天下二分の計とも言える立場を取りました。

 

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家康としては、征夷大将軍を辞職して秀忠に譲り、大御所となった時点で、一応関東で徳川家を存続させるという構想は成ったと考えたでしょう。

豊臣家との関係

 家康が、豊臣家に手を出さずに、関東での徳川家の存続を図った背景には、豊臣恩顧の大名たちの存在があり、豊臣家と事を構えるのが難しいという点があった事は確かですが、もう一つの要因が有ったと考えます。

それは、豊臣家が、秀吉、秀次と二代続けて関白を出した家だという事です。

これは、豊臣家が、関白を出す事が出来る家柄になったという事を意味します。

関白という事は、理屈の上では、権力構造の中では征夷大将軍より上、というか征夷大将軍の任命、罷免を出来る立場だという事です。

そういった立場にある豊臣家を、特に征夷大将軍といういわば権力構造の中に取り込まれた格好になってからは、むやみに攻め滅ぼすことが出来なくなったのが、大きな要因だったのではないでしょうか。

征夷大将軍になった後は、秀頼の関白就任が最大の懸念材料だったと考えられます。

関白就任の阻止

 もっとも、家康が征夷大将軍になった時点で、秀頼はまだ10歳でしかなかったということが有ります。

少なくとも、成人するまでは、すぐに関白どうこうと言う話では無いので、表立って行動する必要もありません。

その結果が、大坂の陣までの時間だったのだと考えます。
ちなみに、大坂冬の陣の時点で、秀頼は21歳です。

勿論、家康も何もしていなかった訳では無く、時の後陽成天皇に政仁親王を後継として認めさせるなど、天皇への影響を強める動きをしています。

そして、1611年に政仁親王後水尾天皇として即位します。
更に、翌年に、家康が推挙した鷹司信尚が関白となります。

これにより、家康は、秀頼が成人した後も、当面は関白への就任を阻止できる状況になったと考えたのではないでしょうか。

自分が生きている間に、ここまで出来て、家康も安堵したはずです。

豊臣側の想定外の反応

 ところが、家康にとって想定外だったのが、豊臣側の反応が、予想以上に敵対的だったという事では無いでしょうか。

そもそも、家康の方が先に亡くなるのは明らかなことな訳で、関白の件を含め、様々な事が、家康の死後どうなっていくのかは、まだまだ流動的だと考えられたはずです。

にもかかわらず、この当時の豊臣側は、兵糧や浪人を集め始めるなど、次第に対立的になっていくのです。

そのあたりを、長期的な戦略を基に説得出来る人物が、この時期の豊臣側にはいなかったのが不幸だったのかもしれません。

これに対して、家康が、自分の生きている間に豊臣の軍事力を削いでおこうと考えて起こしたのが、大坂冬の陣だと考えます。

豊臣家を滅ぼす気は無かった

 ただし、ここでも家康は、豊臣家を滅ぼす気は無かったのだと思います。

それは、冬の陣が講和で終わっている事に現れていると思います。
和議に至ったた理由の一つとして、本丸まで砲弾が撃ち込まれたことに、淀殿が恐れたためといった話がある様に、大阪城を攻め落とすことも可能だったと思われます。
それにも関わらず、秀頼の身の安全と領地の安堵を条件に和議に応じたという事は、豊臣家を滅ぼす気は無かったのだと思います。

何しろ、この時家康は72歳なので、攻め滅ぼす気なら、ここで最後までやっておかないと、自分の方が先に死んでしまうかもしれないですからね。
事実、2年後には亡くなっていますから。

それでも、敵対的行為を続ける豊臣方に対して、最終的には、大坂夏の陣で答えることになるのですが、その際にも、最初に浪人の解雇か、豊臣家の移封を要求しており、あくまで豊臣家を討つ気は無かったように思われます。

結果的には、豊臣家は滅亡することになり、徳川家が天下を統べる事になりました。
その時になって初めて、家康は、武家諸法度禁中並公家諸法度に代表される、幕府の体制を考え始めたという事だと思います。


 冬の陣の後辺りで、大阪城を出ていれば、西日本勢力を背景として関白を目指して、徳川と対抗するという事も考えられたと思うのですが。
秀吉の作った大阪城が、あまりにも立派でシンボリックでありすぎたために、最後まで捨てられなかったというのが、仇になったような気もします。


ではでは

関ヶ原後の家康と天下

関ヶ原の戦い後の家康と天下について考えてみた話です。

 

 

征夷大将軍就任

 関ヶ原の戦いと来れば、家康を語る上で残るは、もう一つのクライマックスである大阪の陣という事になりますが、その前に、征夷大将軍となった以降の動きについて少し考えてみたいと思います。

関ヶ原の戦いの三年後、1603年に家康は征夷大将軍となります。

これにより、豊臣家の大老筆頭ではなく、朝廷より与えられた、武家の棟梁としての立場を確立した事になります。

その後、武家諸法度禁中並公家諸法度の制定に代表される幕藩体制の構築と共に、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすことに拠り、その後の徳川家による長期政権の基礎を作ったとされます。

事実関係は、この通りで間違いないですが、これらの事実を時系列で見てみると、少し違ったものが見えてくるような気がしています。

1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1614年 72歳 大坂冬の陣
1615年 73歳 大坂夏の陣武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去

二年で征夷大将軍を辞職

 先ず、目につくのが、征夷大将軍を、わずか二年で辞職しているという事です。

これに関しては、一般的には、この後征夷大将軍職を徳川家が世襲していくことを、世に示したと考えられることが多いです。

しかしながら、鎌倉、室町の両幕府の先例を考えれば、徳川の一族が世襲するのは特別な事ではなく、むしろ当然のことで有り、世間的にも、そのように考えられていたと思われます。

それよりも、家康は、自分の61歳という年齢と、自らが関係者として経験した、信長と秀吉の死後の混乱のような事を回避すべく、後継者を決めておくことを優先したのではないでしょうか。

そして自らは、駿府に移り、大御所政治と呼ばれている体制を取ったのだと思います。

大御所政治

 その大御所政治で、着々と幕府の体制を作り上げていったのかと言うと、そうでも無いようなのです。

そのことは、江戸幕府の体制の基本とも言える、武家諸法度禁中並公家諸法度の制定の時期を見ても明らかなように思えます。

上記の時系列を見てもらえば分かるように、両法度の制定は1615年で、大御所政治を始めてから10年が経っており、家康は73歳になっています。

大御所になった時点で、幕府の体制を構築することを考えていたのならば、これほどの時間が掛かったのは不自然です。

そもそも、家康本人にも、自分がいつ死ぬのか分かっている訳はないので、大御所どころか、征夷大将軍になった時から、制定を急ぐはずです。

そうではないことから、大御所になった頃には、後の江戸幕府のような体制は、意図していなかったと考えられるのです。

更に、両法度の制定が、大坂の陣で豊臣を滅亡させた後だったという事を考えると、それ以前には豊臣との共存を考えていたように思われるのです。

前回の記事で書いたように、西の豊臣、東の徳川という、天下二分を考えていたのでは無いでしょうか。

 

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征夷大将軍を譲った後、大御所として江戸に有って政治的実権を握ることをせず、駿府に居を構えたのも、西の豊臣を意識してのものだったと考えれば、納得出来るように思えます。


 以上を踏まえて、大坂の陣に続く、予定です。


ではでは

関ヶ原の戦いと天下

関ヶ原の戦いについて考えてみた話です。

 

 

天下分け目の戦い

 家康を語る上で避けて通る訳にいかないのは、関ヶ原の戦いでしょう。

何しろ、「天下分け目の戦い」ですからねえ。

その関ヶ原の戦いでありがちなのが、「天下分け目」という響きから、豊臣対徳川の天下争奪戦だと考えてしまうものです。

私も、学校を出てからも、結構な年になるまで、そうだと思っていました。

しかし実際には、毛利元就を総大将とする西軍と徳川家康を中心とした東軍による戦いでした。

豊臣家の当主、秀頼は参加していません。
もっとも、この時秀頼はわずか七歳なので、参加云々以前の問題とも言えるわけですが、名目上も豊臣家は参加していないことになります。

関ヶ原の戦いとその後

 西軍側の名分は、秀吉の遺言により、五大老の筆頭と目されることになった家康の、その遺言からの逸脱を弾劾するというものでした。

それに対して、東軍側は、最初に挙兵した西軍の実質的な中心とも言える石田三成を、「秀頼公に害を成す君側の奸臣」と呼び、これを討つためとしました。

結局、何れの側も豊臣政権の為を標榜しての、権力争いだった訳です。

結果は、ご存知のように、東軍の圧倒的な勝利に終わります。

その結果、西軍の首謀者とされた、石田三成ら三名が京六条河原にて斬首という事になりました。

当然、豊臣政権はそのまま存続していることになります。

勿論、豊臣政権下での家康の力は、さらに強化されることになりました。

その力を背景に、戦後処理が行われました。

その結果、西軍の大名は、ごくわずかの例外を除き、改易、厳封となりました。

それに対して、東軍の大名は、多くが領地を加増されました。
しかしながら、東軍に参加した、福島正則加藤清正小早川秀秋等の豊臣恩顧の大名たちは、加増されたものの、西日本の遠隔地に移封となってしまいました。

戦後処理の意味するもの

 天下分け目の戦いとは言われていますが、家康は、それに乗じて、豊臣家を滅ぼす気は無かったように思われます。

前回の記事で、年齢から考えて、秀吉から関東移封を命じられた時に、室町幕府における鎌倉公方のように、豊臣政権下での関東において、徳川家の存続を図ったのでは無いかと考えました。

 

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その後も、関ヶ原の戦いまでに、政権内での力関係を巡っての様々な動きは有っても、積極的に豊臣家と敵対関係を取るような行動はしていないように見えます。

そして関ヶ原の戦いを迎えた時には、58歳になっているわけです。
もうそこから、まだ恩顧の武将も数多く残っている豊臣家と事を構えて、天下を狙う気は、関東移封時よりも、さらに無くなっていたと思うのです。

それよりも、関東を中心とした徳川家の存続を、確かなものにしたいと思っていたと考えられます。

その表れが、豊臣恩顧の武将の西日本への移封だったのだと思います。
より鮮明に、西の豊臣、東の徳川という形を打ち出したという事なのだと思えるのです。

つまり、実質的な天下二分の計だったのでは無いでしょうか。


そうすると、大坂の陣はどうなんだと言われそうですが、そのあたりは回を改めてという事で。


ではでは

家康の関東移封と天下

家康の関東移封と天下について考えてみた話です

 

 

もう一つの天下分け目の戦い

 天下分け目の戦いといえが、ご存知関ヶ原の戦いですが、家康にとっては、もう一つの天下分け目の戦いともいえる戦いが有りました。

小牧・長久手の戦いがそれです。

信長の嫡孫・三法師を擁する秀吉に対して、家康が信長の次男・織田信雄と共に対抗して、信長亡き後の織田家における権力をめぐって起きた戦いとなります。

その後の秀吉を見れば、まさに天下分け目の戦いだった事が分かります。

戦いとその後

 戦いは、雌雄を決することなく推移します。

結局、織田信雄が秀吉と単独で講和をしてしまい、大儀名分の無くなる形となり、家康も講和を結ぶことになります。

その後、最大の敵対勢力の無くなった秀吉は、天下を目指すことになります。

その一方、家康は、北条氏が討伐された後、その旧領国にうつされる形で、関東に移封されます。

秀吉としては、関東・奥両国惣無事令のもと、関東以東の監視役として考えていたと共に、関東に封じ込めておく意図も有ったと考えられます。

家康の選択

 それに対して、家康は、勿論、秀吉の勢力に対して抵抗出来ないという事も有ったのは確かですが、一旦この時点で、関東の地で徳川家を存続させる道を選んだのではないかと思うのです。

関東移封の時点で、家康は48歳でした。
その時点から、再び秀吉に対抗していくよりも、徳川家の将来を考えたのではないでしょうか。

その傍証とも言えるのが、源氏姓への復姓です。

もともと源氏であった家康ですが、徳川を名乗った時に、藤原に改姓をしていました。
その後、再び源氏に戻るのですが、その時期に関しては、征夷大将軍に任じられたのに合わせてだと考えられて来ました。

しかし、関東移封の頃から源氏を名乗っていたという資料が発見されるようになりました。
つまり、関東移封が復姓の契機になったとも考えられる訳です。

関東で源氏と来れば、鎌倉幕府という事になりますが、さすがに秀吉がほぼ全国を制覇しつつある状況で、征夷大将軍で幕府を開くというのは考え難いので、将来的にそこを狙っていたわけでは無いでしょう。

むしろ、室町幕府の時代の、鎌倉公方のようなものを考えていたのではないでしょうか。

豊臣家の天下の下、関東以東を治める役割を担う事により、徳川家を存続させようとしたのです。


 秀吉の生きている間はともかく、将来的には、西の豊臣、東の徳川で、天下を二分することが出来ないとも限らないと考えていたかもしれません。
さすがに、朝鮮出兵は想定外だったとは思いますが。


ではでは

秀吉と朝鮮出兵

秀吉の朝鮮出兵に関して考えてみた話です。

 

 

朝鮮出兵

 秀吉を語る上で、避けて通るわけにいかないのは、朝鮮出兵という事になるでしょう。

もし朝鮮出兵をしていなければ、秀吉の死後、豊臣政権があれほど早く瓦解することは無かったように思われます。

それ以前に、確かに朝鮮出兵というのは大事件で有る事は間違いありません。

秀吉より前に、日本軍が朝鮮半島まで進軍したのは、663年の白村江の戦いまでさかのぼることになるようです。

また、現代に置き換えれば、自衛隊朝鮮半島に侵攻するという事になる訳で、とんでもない事ですし、普通には考えられないことな訳です。

そのため、その動機に関しては色々と言われていますが、記録として残っているものは発見されておらず、いずれも決め手には欠けるようです。

信長の意志

 私は、秀吉の天下統一は、それが信長の意志だと考えて、信長の死後に引き継ぐつもりで行ったものと考えています。

 

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朝鮮出兵についても、同様に信長の意志だと考えていたのではないかと思います。

以前の記事で、信長自身は、唐入りは考えていなかったと考えました。

 

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ただ、その記事の中で触れたように、宣教師のフロイスには、冗談話として話した可能性が高いと考えています。

その折の事が、同席者を通じて、後日秀吉の耳に入ったことは、十分有り得ることだと思われます。

また、フロイスは、信長の死後、秀吉とも面会しており、その折に、信長の唐入り構想の話になった事も、有り得る話だと考えられます。

それにより、天下統一後の唐入りを、信長の意志と考えたのではないでしょうか。

天下統一の延長

 最初に書いたように、現代の我々から見ると、朝鮮出兵はとんでもない出来事な訳ですが、どうも秀吉は、それほどの重大事だと認識していなかったのではないかと思えるのです。

それは、朝鮮に派遣された軍の規模にも見る事が出来ます。

朝鮮出兵以前の天下統一の段階で、各地の平定、征伐が行われたわけですが、その時の派遣軍の人数は、四国平定10万、九州平定10万、小田原征伐とそれに続く奥羽仕置20万というものでした。

それに対して、朝鮮出兵は、文禄の役16万、慶長の役14万と、天下統一に際しての陣立てと変わりない規模と言えるものでしかありません。

小田原征伐とそれに続く奥羽仕置の際にすでに20万の兵力を動員出来たわけで、天下統一を成し遂げた後では、それ以上の人員を動員出来たはずです。

にもかかわらず、16万程度にとどまっていたという事は、秀吉自身は、朝鮮出兵さらにはその先の唐入りを、国内における各地の平定、征伐程度のものだと考えていた節があると考えられるのです。

中国大陸の大きさをどこまで認識出来ていたのかは、判然としませんが、国内における平定、征伐程度の戦の繰り返しで平定出来る位に考えていたのではないでしょうか。

それを裏付けるように、いくつかある秀吉の遺言書のそのいずれにも、朝鮮出兵に関しては一言も書かれていません。

その時にも、朝鮮半島では小早川秀秋をトップとする派遣軍が戦っていたたにもかかわらずです。

秀吉にとっては、豊臣政権の将来構想としての深慮遠謀が有る訳では無く、一地域で平定、征伐を行っている程度の事であり、わざわざ遺言で指摘するほどの事では無かったのです。

その事を示すかのように、秀吉の死後、朝鮮出兵は中止されることになります。


とは言っても、日本、朝鮮いずれの当事者にとっても、とんでもない事だったのは間違いのない事なんですけどね。


ではでは