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大坂の陣

大坂の陣について考えた話です

 

 

関ヶ原の戦い以降

 先ず、前回の記事と同じ、関ヶ原の戦い以降の家康関係の出来事を時系列にしたものを見てもらいたいと思います。

1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1614年 72歳 大坂冬の陣
1615年 73歳 大坂夏の陣武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去

ここでのポイントは、征夷大将軍になってから大阪の陣までに、11年の時間が有るという点です。

前回の記事で考えたように、関ヶ原の戦いとその後に、家康は、豊臣家の事を滅ぼさず、天下二分の計とも言える立場を取りました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

家康としては、征夷大将軍を辞職して秀忠に譲り、大御所となった時点で、一応関東で徳川家を存続させるという構想は成ったと考えたでしょう。

豊臣家との関係

 家康が、豊臣家に手を出さずに、関東での徳川家の存続を図った背景には、豊臣恩顧の大名たちの存在があり、豊臣家と事を構えるのが難しいという点があった事は確かですが、もう一つの要因が有ったと考えます。

それは、豊臣家が、秀吉、秀次と二代続けて関白を出した家だという事です。

これは、豊臣家が、関白を出す事が出来る家柄になったという事を意味します。

関白という事は、理屈の上では、権力構造の中では征夷大将軍より上、というか征夷大将軍の任命、罷免を出来る立場だという事です。

そういった立場にある豊臣家を、特に征夷大将軍といういわば権力構造の中に取り込まれた格好になってからは、むやみに攻め滅ぼすことが出来なくなったのが、大きな要因だったのではないでしょうか。

征夷大将軍になった後は、秀頼の関白就任が最大の懸念材料だったと考えられます。

関白就任の阻止

 もっとも、家康が征夷大将軍になった時点で、秀頼はまだ10歳でしかなかったということが有ります。

少なくとも、成人するまでは、すぐに関白どうこうと言う話では無いので、表立って行動する必要もありません。

その結果が、大坂の陣までの時間だったのだと考えます。
ちなみに、大坂冬の陣の時点で、秀頼は21歳です。

勿論、家康も何もしていなかった訳では無く、時の後陽成天皇に政仁親王を後継として認めさせるなど、天皇への影響を強める動きをしています。

そして、1611年に政仁親王後水尾天皇として即位します。
更に、翌年に、家康が推挙した鷹司信尚が関白となります。

これにより、家康は、秀頼が成人した後も、当面は関白への就任を阻止できる状況になったと考えたのではないでしょうか。

自分が生きている間に、ここまで出来て、家康も安堵したはずです。

豊臣側の想定外の反応

 ところが、家康にとって想定外だったのが、豊臣側の反応が、予想以上に敵対的だったという事では無いでしょうか。

そもそも、家康の方が先に亡くなるのは明らかなことな訳で、関白の件を含め、様々な事が、家康の死後どうなっていくのかは、まだまだ流動的だと考えられたはずです。

にもかかわらず、この当時の豊臣側は、兵糧や浪人を集め始めるなど、次第に対立的になっていくのです。

そのあたりを、長期的な戦略を基に説得出来る人物が、この時期の豊臣側にはいなかったのが不幸だったのかもしれません。

これに対して、家康が、自分の生きている間に豊臣の軍事力を削いでおこうと考えて起こしたのが、大坂冬の陣だと考えます。

豊臣家を滅ぼす気は無かった

 ただし、ここでも家康は、豊臣家を滅ぼす気は無かったのだと思います。

それは、冬の陣が講和で終わっている事に現れていると思います。
和議に至ったた理由の一つとして、本丸まで砲弾が撃ち込まれたことに、淀殿が恐れたためといった話がある様に、大阪城を攻め落とすことも可能だったと思われます。
それにも関わらず、秀頼の身の安全と領地の安堵を条件に和議に応じたという事は、豊臣家を滅ぼす気は無かったのだと思います。

何しろ、この時家康は72歳なので、攻め滅ぼす気なら、ここで最後までやっておかないと、自分の方が先に死んでしまうかもしれないですからね。
事実、2年後には亡くなっていますから。

それでも、敵対的行為を続ける豊臣方に対して、最終的には、大坂夏の陣で答えることになるのですが、その際にも、最初に浪人の解雇か、豊臣家の移封を要求しており、あくまで豊臣家を討つ気は無かったように思われます。

結果的には、豊臣家は滅亡することになり、徳川家が天下を統べる事になりました。
その時になって初めて、家康は、武家諸法度禁中並公家諸法度に代表される、幕府の体制を考え始めたという事だと思います。


 冬の陣の後辺りで、大阪城を出ていれば、西日本勢力を背景として関白を目指して、徳川と対抗するという事も考えられたと思うのですが。
秀吉の作った大阪城が、あまりにも立派でシンボリックでありすぎたために、最後まで捨てられなかったというのが、仇になったような気もします。


ではでは