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家康の関東移封と天下

家康の関東移封と天下について考えてみた話です

 

 

もう一つの天下分け目の戦い

 天下分け目の戦いといえが、ご存知関ヶ原の戦いですが、家康にとっては、もう一つの天下分け目の戦いともいえる戦いが有りました。

小牧・長久手の戦いがそれです。

信長の嫡孫・三法師を擁する秀吉に対して、家康が信長の次男・織田信雄と共に対抗して、信長亡き後の織田家における権力をめぐって起きた戦いとなります。

その後の秀吉を見れば、まさに天下分け目の戦いだった事が分かります。

戦いとその後

 戦いは、雌雄を決することなく推移します。

結局、織田信雄が秀吉と単独で講和をしてしまい、大儀名分の無くなる形となり、家康も講和を結ぶことになります。

その後、最大の敵対勢力の無くなった秀吉は、天下を目指すことになります。

その一方、家康は、北条氏が討伐された後、その旧領国にうつされる形で、関東に移封されます。

秀吉としては、関東・奥両国惣無事令のもと、関東以東の監視役として考えていたと共に、関東に封じ込めておく意図も有ったと考えられます。

家康の選択

 それに対して、家康は、勿論、秀吉の勢力に対して抵抗出来ないという事も有ったのは確かですが、一旦この時点で、関東の地で徳川家を存続させる道を選んだのではないかと思うのです。

関東移封の時点で、家康は48歳でした。
その時点から、再び秀吉に対抗していくよりも、徳川家の将来を考えたのではないでしょうか。

その傍証とも言えるのが、源氏姓への復姓です。

もともと源氏であった家康ですが、徳川を名乗った時に、藤原に改姓をしていました。
その後、再び源氏に戻るのですが、その時期に関しては、征夷大将軍に任じられたのに合わせてだと考えられて来ました。

しかし、関東移封の頃から源氏を名乗っていたという資料が発見されるようになりました。
つまり、関東移封が復姓の契機になったとも考えられる訳です。

関東で源氏と来れば、鎌倉幕府という事になりますが、さすがに秀吉がほぼ全国を制覇しつつある状況で、征夷大将軍で幕府を開くというのは考え難いので、将来的にそこを狙っていたわけでは無いでしょう。

むしろ、室町幕府の時代の、鎌倉公方のようなものを考えていたのではないでしょうか。

豊臣家の天下の下、関東以東を治める役割を担う事により、徳川家を存続させようとしたのです。


 秀吉の生きている間はともかく、将来的には、西の豊臣、東の徳川で、天下を二分することが出来ないとも限らないと考えていたかもしれません。
さすがに、朝鮮出兵は想定外だったとは思いますが。


ではでは