関ヶ原の戦いについて考えてみた話です。
天下分け目の戦い
家康を語る上で避けて通る訳にいかないのは、関ヶ原の戦いでしょう。
何しろ、「天下分け目の戦い」ですからねえ。
その関ヶ原の戦いでありがちなのが、「天下分け目」という響きから、豊臣対徳川の天下争奪戦だと考えてしまうものです。
私も、学校を出てからも、結構な年になるまで、そうだと思っていました。
しかし実際には、毛利元就を総大将とする西軍と徳川家康を中心とした東軍による戦いでした。
豊臣家の当主、秀頼は参加していません。
もっとも、この時秀頼はわずか七歳なので、参加云々以前の問題とも言えるわけですが、名目上も豊臣家は参加していないことになります。
関ヶ原の戦いとその後
西軍側の名分は、秀吉の遺言により、五大老の筆頭と目されることになった家康の、その遺言からの逸脱を弾劾するというものでした。
それに対して、東軍側は、最初に挙兵した西軍の実質的な中心とも言える石田三成を、「秀頼公に害を成す君側の奸臣」と呼び、これを討つためとしました。
結局、何れの側も豊臣政権の為を標榜しての、権力争いだった訳です。
結果は、ご存知のように、東軍の圧倒的な勝利に終わります。
その結果、西軍の首謀者とされた、石田三成ら三名が京六条河原にて斬首という事になりました。
当然、豊臣政権はそのまま存続していることになります。
勿論、豊臣政権下での家康の力は、さらに強化されることになりました。
その力を背景に、戦後処理が行われました。
その結果、西軍の大名は、ごくわずかの例外を除き、改易、厳封となりました。
それに対して、東軍の大名は、多くが領地を加増されました。
しかしながら、東軍に参加した、福島正則、加藤清正、小早川秀秋等の豊臣恩顧の大名たちは、加増されたものの、西日本の遠隔地に移封となってしまいました。
戦後処理の意味するもの
天下分け目の戦いとは言われていますが、家康は、それに乗じて、豊臣家を滅ぼす気は無かったように思われます。
前回の記事で、年齢から考えて、秀吉から関東移封を命じられた時に、室町幕府における鎌倉公方のように、豊臣政権下での関東において、徳川家の存続を図ったのでは無いかと考えました。
その後も、関ヶ原の戦いまでに、政権内での力関係を巡っての様々な動きは有っても、積極的に豊臣家と敵対関係を取るような行動はしていないように見えます。
そして関ヶ原の戦いを迎えた時には、58歳になっているわけです。
もうそこから、まだ恩顧の武将も数多く残っている豊臣家と事を構えて、天下を狙う気は、関東移封時よりも、さらに無くなっていたと思うのです。
それよりも、関東を中心とした徳川家の存続を、確かなものにしたいと思っていたと考えられます。
その表れが、豊臣恩顧の武将の西日本への移封だったのだと思います。
より鮮明に、西の豊臣、東の徳川という形を打ち出したという事なのだと思えるのです。
つまり、実質的な天下二分の計だったのでは無いでしょうか。
そうすると、大坂の陣はどうなんだと言われそうですが、そのあたりは回を改めてという事で。
ではでは