信長の意志を、秀吉が継いでいたのか考えてみた話です。
信長の意志
このブログでは、信長は天下統一を考えていなかったとの立場で色々と考えて来ました。
耳タコになりそうですが、改めてまとめてみます。
有名な「天下布武」は、武力を持って全国を制覇することを意味しているのでは無く、
五畿内を武力で征するという事だった。
それを目指して、足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに反対勢力と戦いを繰り広げたと考えました。
その後、図らずも義昭を追放することになり、自らが覇権を握る立場になりました。
そして、本能寺の変の頃には、自分の死後の織田政権の安泰を計って、中央に織田一族を配置し、その周辺に家臣または同盟している武将を配置するための、終活を行っていたと考えました。
受け継ぐべき意志
信長は、終活を完遂する前に、本能寺で討たれる事になってしまいます。
信長が討たれた後、秀吉が明智光秀を討ち、その後天下人まで駆け上がっていくことになります。
そのため、秀吉と信長との関係の中で、「織田信長が本能寺の変で亡くなった後、豊臣秀吉がその意志を受け継ぎ天下統一を果たした」というように言われることがよくあります。
しかし、前項で書いたように信長が全国制覇を考えていなかったとすれば、そもそも秀吉が受け継ぐべき、天下統一の意志など無いことになります。
では、信長の織田政権構想としての終活に関してはどうでしょうか。
終活を知っていたのか
以前の記事で、信長が、その政権の存続を考えて終活を始めたのは、1580年の石山本願寺との講和がなった後だと考えました。
本願寺との講和を持って、五畿内の平定即ち「天下布武」がなったと考えた時点で、その後の事を案じ始めたと考えたわけです。
一方秀吉は、それ以前の1577年に中国攻めを命じられ、1580年の時点では、播磨、但馬と転戦している最中でした。
という事は、秀吉には、信長の政権構想は知らされていなかったと考えられます。
もっとも、「絶対君主」的とも思われる、信長と家臣との関係性から考えると、家臣の中には知っているものが殆どいなかったと考えられます。
そのため、秀吉が、政権構想について、信長以外から知らされたという事も無かった可能性が高いと考えられます。
秀吉の捉え方
そんな中で、本能寺の変が起き、信長が討たれてしまう訳です。
結局、秀吉が、信長の政権構想について知ることは無かったという事になりそうです。
という事は、秀吉は、信長が武力でもって全国を制覇するつもりだったと、考えていた可能性が高いと思われます。
秀吉から見れば、全国制覇のために、北陸道の柴田勝家、甲州征伐、神戸信孝の四国攻めと、各地へ侵攻している一環として、自分も中国攻めに派遣されたと考えていたとしても、無理は無いと考えられます。
つまり、秀吉は、その後の天下統一について、信長の意志を継いでいると考えていたが、信長の意志はそこに無かったという事になるのかもしれません。
まあ、意志を継ごうと思っただけでは、誰でも天下を統一できるわけでは無いのは、言わずもがなですが。
ではでは