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信長は唐入りを考えていたのか

信長が最終的に大陸進出を考えていたのか考えてみた話です。

 

 

天下布武

 過去の記事で、信長は、元々武力による全国制覇などは、考えていなかったとの立場から話をしてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

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足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに、五畿内を武力で征するというのが、「天下布武」だった。

 その後、図らずも義昭を追放することになり、自らが覇権を握り、本能寺の変の頃には、自分の死後の織田政権の安泰を計って、終活を行っていたと考えました。

一方で、信長は、日本を統一した後、対外出兵を行う構想を持っていた、と言う話があります。

対外出兵構想は作り話か

 そもそもこの対外出兵を考えていたと言う話は、宣教師ルイス・フロイスの著した『日本史』に、概略「毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。」と書かれているのが基になっています。

実は、フロイスの『日本史』以外には、この構想に関する記録というのはほぼ存在しないようです。

かといって、フロイスの全くの創作かというと、一概にはそうとも言い切れません。

もしこれが、フロイスが本国や上部組織に対して出した、通信文等の内容であるならば、信長への援助等、何らかの行動を引き出すための作り話という事は考えられるかもしれません。

しかし、『日本史』は、日本でのキリスト教布教史として、信長の死後1983年に書き始められたものであり、そこに上記のような作り話を入れ込むような理由は無いと考えられます。

フロイスは、1569年と1580年の2回、実際に信長と対面しています。

従って、その際に、信長本人から聞いた話である可能性が有る事になります。

しかし、1569年は、信長が足利義昭を奉じて上洛していた時であり、「自ら絶対君主になった時には」という話は、しそうにも有りません。

それに対して、1580年は石山本願寺と和睦をして、ほぼ五畿内は平定し終わっている状態で、絶対君主云々という話があってもおかしくは無い状態です。
更に、秀吉が中国攻めの最中であり、「毛利を平定し」という文言もうなずけることになります。

有り得る可能性

 次のような事だったのではないかと想像します。

1580年にフロイスが対面した時、ほぼ「天下布武」を成し遂げていた信長は、精神的に高揚した状態にあったと考えられます。

そういった状態の信長に対して、フロイスが「日本を平定した後は、大陸でしょうか」といった趣旨の質問をしたのです。
植民地化を推し進めていたスペインの、先兵として活動していたフロイスとしては、ごく自然にする質問と考えられます。

それに対して、信長は、そんなことは考えていなかったが、高揚した気分の下で、興が乗って、上記のような事を話したのではないでしょうか。

信長にすれば、軽い冗談だったのだと思います。
ただし、その場に同席していた誰も、それに対して突っ込むことは出来なかったでしょう。

それを、フロイスは、どこまで信じたかは分かりませんが、少なくとも、全くの冗談とは受け取らなかった。
彼のような立場の人間から見れば、次に大陸を狙うのは、普通の考え方だったはずです。
そして『日本史』に載せたという事なのだと思います。

結局、確かに信長は、対外出兵について話したが、本気では無かったという事では無いでしょうか。


 怒ると怖いところのある偉い人の冗談は、本気かどうか分からなくて、対応に困る事って有りますよね。


ではでは