横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

驚愕の事実

極個人的な、驚愕の事実が判明したと言う話です。

 

 

幼少期の記憶

 たまに、長じても、幼い頃の事を良く覚えているという人がいます。

以前ネットで読んだ話で興味深かったものに、赤ちゃんの頃の記憶が有る人のものが有ります。

その人によると、赤ちゃんが、原因が無いように見えるのに泣く理由の一つは、頭が痒くて、自分ではかけないのでとりあえず泣いていたというのです。

本当にそうかどうかは確かめようもないのですが、その時に読んだ記事では、赤ちゃんの泣いている原因がよく分からない時には、頭をかいてあげてるのも一つの選択肢として覚えておいてはどうでしょうか、という結論だったように記憶しています。

私の場合は、そんなに昔の事は覚えているという事は無く、何歳の頃のことか判然としない光景をいくつか覚えている程度です。

私の記憶

かなり鮮明なものもあるのですが、その中でも特に鮮明なものが有ります。

それは、保育園でのおやつの時間にお菓子を食べた光景です。

そのお菓子が非常においしかった事と、一人に二つしかもらえなかったことが印象に残っています。

保母さんと話をしている記憶は全くないので、その頃の私は、あまり積極的に保母さんと話をするようなタイプの子では無かったようです。
加えて、家に帰っても、保育園での出来事を、父や母に積極的に話すような子でも無かったようです。

そのためか、そのお菓子について、保母さんとも、父母とも話した記憶は有りませんし、買ってきてもらったという記憶も有りません。
ただ、おいしいお菓子を食べたという記憶のみが残っていたのです。

次に、そのお菓子と遭遇するのは、小学生高学年になってからでした。
ある日、学校から帰ったら、そのお菓子が有ったのです。

食べてみると、記憶に有った通りの味で、ああこれだったんだと思った記憶が有ります。

まあ、記憶に関しては、これだけと言えばこれだけなんですが。

お菓子の開発時期が問題だった

 昨日、ネット上で、このお菓子の開発話に行き当たりました。

へえと思いながら、読んでみると、これまでにないもの作ろうと、年単位で試行錯誤をかさ重ねたようで、おいしいのも納得の話でした。

で、ここからが、今日の本題になります。

その記事の最後の方に、色々あった挙句に発売にこぎつけた旨の記述と、発売年が書いてあったのですが、その発売年が問題だったのです。

なんと、その発売された年には、私は、小学生だった事になるのです。

その瞬間私の頭の中は、??????????????????????、でした。

小学校から帰ったら家に有ったというのは、問題ない事になりますが、保育園で食べた筈は無いことになってしまうのです。

正体は分からない

 そのあと、同じようなお菓子が無かったかとか、色々と調べてみたんですが、開発話にこれまでに無いものを、とあったように、それらしいものは見つかりませんでした。

そういったものが、有ったにしろ、無かったにしろ、私の記憶の中では、確かに保育園のおやつの時間にそれを食べたという記憶が有るのです。

という事は、その記憶自体が、間違っていたことになります。

保育園のおやつの時間のくだり全てが間違いでは無いと思いますが、その時食べていたお菓子が、小学校の時に食べたお菓子に置き換わってしまったとしか考えられません。

でもねえ、小学生の時に、保育園の時に食べたお菓子だと思った記憶ははっきりとあるんですよね。

あの時に、勘違いをしたという事になるんですかねえ。

保育園で食べたお菓子の形と味の記憶は、小学校の時のみならず、この年になって食べるそれとも完全に一致しているのですが。

結局、そのあたりは、後から思い込みで作られた記憶という事になるんでしょうか。


という、個人的に長年信じてきた記憶が間違っていたという、驚天動地の出来事でした。

 


ではでは

信長の意志と秀吉

信長の意志を、秀吉が継いでいたのか考えてみた話です。

 

 

信長の意志

 このブログでは、信長は天下統一を考えていなかったとの立場で色々と考えて来ました。

耳タコになりそうですが、改めてまとめてみます。

有名な「天下布武」は、武力を持って全国を制覇することを意味しているのでは無く、
五畿内を武力で征するという事だった。
それを目指して、足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに反対勢力と戦いを繰り広げたと考えました。

 

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その後、図らずも義昭を追放することになり、自らが覇権を握る立場になりました。

そして、本能寺の変の頃には、自分の死後の織田政権の安泰を計って、中央に織田一族を配置し、その周辺に家臣または同盟している武将を配置するための、終活を行っていたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

受け継ぐべき意志

 信長は、終活を完遂する前に、本能寺で討たれる事になってしまいます。

信長が討たれた後、秀吉が明智光秀を討ち、その後天下人まで駆け上がっていくことになります。

そのため、秀吉と信長との関係の中で、「織田信長本能寺の変で亡くなった後、豊臣秀吉がその意志を受け継ぎ天下統一を果たした」というように言われることがよくあります。

しかし、前項で書いたように信長が全国制覇を考えていなかったとすれば、そもそも秀吉が受け継ぐべき、天下統一の意志など無いことになります。

では、信長の織田政権構想としての終活に関してはどうでしょうか。

終活を知っていたのか

 以前の記事で、信長が、その政権の存続を考えて終活を始めたのは、1580年の石山本願寺との講和がなった後だと考えました。

 

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本願寺との講和を持って、五畿内の平定即ち「天下布武」がなったと考えた時点で、その後の事を案じ始めたと考えたわけです。

一方秀吉は、それ以前の1577年に中国攻めを命じられ、1580年の時点では、播磨、但馬と転戦している最中でした。

という事は、秀吉には、信長の政権構想は知らされていなかったと考えられます。

もっとも、「絶対君主」的とも思われる、信長と家臣との関係性から考えると、家臣の中には知っているものが殆どいなかったと考えられます。
そのため、秀吉が、政権構想について、信長以外から知らされたという事も無かった可能性が高いと考えられます。

秀吉の捉え方

 そんな中で、本能寺の変が起き、信長が討たれてしまう訳です。

結局、秀吉が、信長の政権構想について知ることは無かったという事になりそうです。

という事は、秀吉は、信長が武力でもって全国を制覇するつもりだったと、考えていた可能性が高いと思われます。

秀吉から見れば、全国制覇のために、北陸道柴田勝家甲州征伐、神戸信孝の四国攻めと、各地へ侵攻している一環として、自分も中国攻めに派遣されたと考えていたとしても、無理は無いと考えられます。

つまり、秀吉は、その後の天下統一について、信長の意志を継いでいると考えていたが、信長の意志はそこに無かったという事になるのかもしれません。


まあ、意志を継ごうと思っただけでは、誰でも天下を統一できるわけでは無いのは、言わずもがなですが。


ではでは

信長は唐入りを考えていたのか

信長が最終的に大陸進出を考えていたのか考えてみた話です。

 

 

天下布武

 過去の記事で、信長は、元々武力による全国制覇などは、考えていなかったとの立場から話をしてきました。

 

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足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに、五畿内を武力で征するというのが、「天下布武」だった。

 その後、図らずも義昭を追放することになり、自らが覇権を握り、本能寺の変の頃には、自分の死後の織田政権の安泰を計って、終活を行っていたと考えました。

一方で、信長は、日本を統一した後、対外出兵を行う構想を持っていた、と言う話があります。

対外出兵構想は作り話か

 そもそもこの対外出兵を考えていたと言う話は、宣教師ルイス・フロイスの著した『日本史』に、概略「毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。」と書かれているのが基になっています。

実は、フロイスの『日本史』以外には、この構想に関する記録というのはほぼ存在しないようです。

かといって、フロイスの全くの創作かというと、一概にはそうとも言い切れません。

もしこれが、フロイスが本国や上部組織に対して出した、通信文等の内容であるならば、信長への援助等、何らかの行動を引き出すための作り話という事は考えられるかもしれません。

しかし、『日本史』は、日本でのキリスト教布教史として、信長の死後1983年に書き始められたものであり、そこに上記のような作り話を入れ込むような理由は無いと考えられます。

フロイスは、1569年と1580年の2回、実際に信長と対面しています。

従って、その際に、信長本人から聞いた話である可能性が有る事になります。

しかし、1569年は、信長が足利義昭を奉じて上洛していた時であり、「自ら絶対君主になった時には」という話は、しそうにも有りません。

それに対して、1580年は石山本願寺と和睦をして、ほぼ五畿内は平定し終わっている状態で、絶対君主云々という話があってもおかしくは無い状態です。
更に、秀吉が中国攻めの最中であり、「毛利を平定し」という文言もうなずけることになります。

有り得る可能性

 次のような事だったのではないかと想像します。

1580年にフロイスが対面した時、ほぼ「天下布武」を成し遂げていた信長は、精神的に高揚した状態にあったと考えられます。

そういった状態の信長に対して、フロイスが「日本を平定した後は、大陸でしょうか」といった趣旨の質問をしたのです。
植民地化を推し進めていたスペインの、先兵として活動していたフロイスとしては、ごく自然にする質問と考えられます。

それに対して、信長は、そんなことは考えていなかったが、高揚した気分の下で、興が乗って、上記のような事を話したのではないでしょうか。

信長にすれば、軽い冗談だったのだと思います。
ただし、その場に同席していた誰も、それに対して突っ込むことは出来なかったでしょう。

それを、フロイスは、どこまで信じたかは分かりませんが、少なくとも、全くの冗談とは受け取らなかった。
彼のような立場の人間から見れば、次に大陸を狙うのは、普通の考え方だったはずです。
そして『日本史』に載せたという事なのだと思います。

結局、確かに信長は、対外出兵について話したが、本気では無かったという事では無いでしょうか。


 怒ると怖いところのある偉い人の冗談は、本気かどうか分からなくて、対応に困る事って有りますよね。


ではでは

 

本能寺の変、無理矢理に陰謀論

本能寺の変に関して、無理矢理に陰謀論を考えてみた話です

 

 

偶然ではなく陰謀論

 前回の記事の最後で、信長親子の京での行動と、光秀の出陣が重なっていた事について、歴史のいたずらなのかと書きました。

 

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この記事では、この事を、単なる偶然と捉えるのではなく、無理矢理に陰謀論の立場で考えてみようという趣向です。

前提として

 先ず前提として、三職推任に対しては、信長は、自身の太政大臣と嫡男信忠の相応の地位への任官を望んでいたとします。

 

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そんな中、信長は、1582年5月17日に秀吉からの援軍要請を受け、徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀を解任して、先陣として、援軍に向かうように命じます。

これに対して、光秀は、直近の四国・長宗我部元親に対する対応も含めて、信長に対して、疑心暗鬼になっていたと考えます。

 

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同記事の中では、時代の子でもあった疑心暗鬼の光秀が、自らの前に差し出される形になった信長の首を取ることにしたと考えました。

朝廷側の陰謀

 今回の陰謀論では、ここに朝廷側からの働きかけが有ったと考えます。

明智光秀への援軍指令の状況を、その場で見聞きしたか、伝え聞いて、それまでの長宗我部との関係も含めて、利用できると考えた朝廷側の人物がいたのではないか。

当然、三職推任に関しても、その経緯を知っており、それを利用することに拠り、信長親子を京都に呼びだすことが出来、そこを援軍のために軍を動かせることになった光秀に、討たせることが出来る可能性に思い至ったのです。

後は、京に進軍するように明智光秀を説得すればいいだけです。

従って、朝廷側が黒幕になっての深謀遠慮というよりは、突発的な思い付きによる企みだったと思われます。

具体的な流れ

 具体的な流れを見てみます。

17日に光秀が援軍を命じられた後、21日に家康が京・大坂・奈良・堺を見物するために出立します。

信忠は、同21日に京都に向け安土を立ち、妙覚寺で6月2日の本能寺の変を迎える事になります。

という事は、21日の時点で、信長・信忠親子には、任官の内定が知らされており、それにより信忠が先ず京に向けて出立したと考えられます。

従って、陰謀は、17日から21日までの間に考えられて、光秀にも知らされたと思われます。

信長は、29日になって京に向かいます。

それまでは、最終的な決行日を決める事は出来なかったと考えられます。

この間の、光秀の心の揺らぎを示しているのが、愛宕権現での複数回のおみくじ引き(27日)や、愛宕百韻での発句「ときは今 天が下知る 五月哉」(28日)だったのではないでしょうか。

そして、信長が京に入った事を見届けて、決行の日を、信長がいる可能性が高いと考えられる、茶会の夜に設定します。

信長の逗留を更に確実にするために、任官の日を、翌日の6月2日にしたのではないでしょうか。

そのため、信忠が、茶会の夜に前祝いに訪ねてくることになったのです。

そして、揺らいでいた光秀も、当日になって腹を括り、京に向けて転進したのです。

その他関連する事柄

 任官の日を決めておくことは、暗殺が失敗したときのことを考えて、必要だったと思われます。
任官が、本当は無かったという事になれば、朝廷側の陰謀だったという事が、ばれてしまいますからね。

首謀者が誰だったのか特定する事は困難ですが、任官に関する決定を行わなければならないので、単独とは考え難く、複数の人物による可能性が高いと思います。

事後の朝廷の動きとしては、光秀に京都の治安維持を任せている程度で、これといった動きが無いのを見ても、信長を排除することだけを考えており、その後の事に関しては、特に考えていなかったように見えます。

当然、思い立って仕組んだ陰謀なので、事前の光秀と朝廷のやり取りなど有るべくもなく、朝廷側の関与が見えにくいものになっていると考えられます。

さらに、信長への死後の太政大臣追贈に関しても、陰謀により暗殺してしまったことに拠る、信長の怨霊化を恐れたためと解釈することが出来ます。


 なんだかんだと言っても、やっぱり陰謀論はやめられないですね。


ではでは

信長親子はなぜ京都にいたのか

本能寺の変が起こった時、信長と信忠が京都に滞在していた理由について考えてみた話です。

 

 

二人共京都にいた

 本能寺の変の時に、当事者である信長はもちろんの事、嫡男の信忠までも討たれてしまったのが、織田政権にとっては致命的でした。

勿論そうなってしまった大きな理由の一つは、信長と信忠の二人共に京都にいたからです。

1582年5月17日に秀吉からの援軍要請を受け、徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀を解任して、先陣として、援軍に向かうように命じます。

その後、21日に家康が京・大坂・奈良・堺を見物するために出立します。

信忠は、同21日に安土を立ち、京都の妙覚寺に入り、そのまま6月2日の本能寺の変を迎える事になります。

家康へのもてなしも終わり、信長も、光秀の後を追って援軍に向かうかと思いきや、29日になって京の本能寺に入ることになります。

ところが、この二人が京都に行った理由がそもそもよく分かりません。

なぜ京都に行ったのか

 信長は、4年前から官職には就いていないので、出陣について、誰かに報告するといった必要も無いはずです。

神戸信孝四国征伐軍の陣中見舞いに、淡路に行くつもりだったという話もあるようですが、そのために京都に行く理由が見当たりません。
陣中見舞いの品を買うためで無かった事は、確かでしょう。

信忠に関しても、信長と同道して淡路に陣中見舞いに行くつもりだった、中国へ信長と共に出陣するため等の理由が考えられています。
これらも、京都に行く理由になっていません。

結局、そもそも京都に逗留しなければならない理由に関しては、よく分からないのです。

唯一確かなのは、信長主宰で、名物披露の茶会が開かれたという事だけです。
そのため、信長は、この茶会を開くために京都にやって来た、というのが有力な理由として考えられています。

ただこれに関しても、信忠はこの茶会には出席していないという事実が有ります。

任官を待っていた

 前回の記事で、三職推任に対して、信長は、太政大臣と信忠のそれなりの地位への任官を同時に望んだと考えました。

 

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同記事の中でも触れたように、朝廷側もそれに関してむしろ望んでいた可能性が高いと考えられます。

そうであったとすると、信長と信忠が、京都にいたことの説明もつくことになります。

つまり、二人の京滞在は、二人同時の任官を待っていたという事では無いでしょうか。

任官を行うという話が有ったが、細かい日取りまでは決まっていなかったので、京都に出て待っていたのです。

名物披露の茶会も、披露したくてしょうがない信長が、その待ちの時間を利用して行ったのだと考えられます。

茶会の夜

 その茶会は、本能寺の変の前日6月1日でした。

その夜に、妙覚寺に逗留していた信忠が、村井貞勝をつれて本能寺を訪れ、父と酒を飲み交わしました。

茶会にも出席した、武家伝奏・勧修寺晴豊が、茶会に向かう前に、三職推任についての交渉相手である村井貞勝に任官の日取りが決まった事を伝え、加えて、その後の茶会のおりに、信長にも伝える旨話していったと考えれば、茶会の後に二人が訪れたことも、納得出来ます。

これは、任官の日取りが決まったので、その前祝いを行ったということではないでしょうか。


まさにその同じ日に、光秀が軍を率いて亀山城を出陣したというのは、歴史のいたずらという事でしょうか。


ではでは

三職推任問題

三職推任問題について考えてみた話です。

 

 

三職推任問題

 先ずは、三職推任問題について、簡単に説明を。

本能寺の変の起こる前月に、信長の家臣・村井貞勝武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで、
信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという話し合いが行われました。

この時、その事をどちらから持ち出したもなのかというのが、三職推任問題になります。

村井貞勝すなわち信長側からなのか、勧修寺晴豊即ち朝廷側からなのかによって、信長と朝廷の関係性を考える手掛かりになるという訳です。

いずれにせよ、翌5月になって、朝廷側は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けました。
それに対して、信長は正親町天皇誠仁親王に対して返答したようですが、返答の内容が実行されることは無く、その内容も不明となっています。

その理由は、そのすぐ後に本能寺の変が起こったためです。

知りませんでした

 と、もっともらしく書いていますが、実は、今回信長に関して記事を書くために、色々と調べる中で、初めて知ったというのが本当のところです。

まあ、私の元々の信長関係の知識は、そのほとんどが、大河を始めとする時代劇から得られたものをベースにしているので、しょうがないかなと。

なにしろ、もし三職推任をドラマの中で取り上げようとしても、その結論の部分が分からないので、経過部分をいかに盛り上げても、尻すぼみどころか、中途半端な終わり方しかできないので、いかにも取り上げにくいものになりますしね。

加えて、学術的には興味を引いても、信長のドラマとしてみると、特に必要のない話だったりもする訳です。

とは言っても、確かにどちらか言い出したのか、さらには、信長がどのような返答をしたのかは、興味を引く問題で有る事には違いないので、チョット考えてみたいと思います。

どちらが言い出したのか

先ずどちらが言い出したかという事から考えてみます。

この時、織田信長は、4年前に右大臣・右近衛大将を辞し、散位の状態でした。

これは、事実上覇権を握った人物が、天皇を頂点とする権力構造の外にいることを意味する訳です。

朝廷側から見ると、明らかに異常な、憂慮すべき状態という事になります。

という訳で、三職推任を持ち出したのは、朝廷側だったのではないでしょうか。
何とか権力構造の中に、再度取り込んで、安堵したかったのだと思います。

そのための、三職何でもありの大盤振る舞いだったのではないでしょうか。

信長の返答

 信長はどう返答したのでしょうか。

そもそも、右大臣・右近衛大将を辞しても、正二位の位階は返上しておらず(ただし、これに関しては、返上出来るものなのかどうかは、調べても判然としませんでしたが、少なくとも信長が、いらないと言ったというような事は無いようです。)、権力構造そのものは否定していないように思われます。

家督を継いだ信忠に、官職も譲りたいと願った、という話もあるようです。

案外現実的に、より上の官職を望んだというのが真相かもしれません。

もしそうであれば、返事は、自分の任官と、信忠への正二位・右大臣・右近衛大将以上の官職を、同時に求めるものだったのではないでしょうか。

自分自身に関しては、平氏を名乗っている以上、平清盛と同じ太政大臣を望んだと思います。

これに関しては、ほぼ同じ時期に、時の太政大臣が辞職をするとか、信長の死後、太政大臣が追贈されているといった、傍証と言える事実も有るので、全く荒唐無稽という訳でもないと思います。


 それにしても、「散位」なんて言葉、初めて知りました、日本語も奥が深いです。


ではでは

信長と平氏

信長が、本姓を平氏と称した事について考えてみた話です。

 

 

平氏と称した時期

 織田信長は、本姓として平氏を称していますが、この事を、信長が元々全国制覇を考えていなかったという立場から考えるとどうなるでしょうか。

先ずその時期から見てみたいと思います。

信長が、本姓を平氏と称していたことについては、それほど多くの記録があるわけではないようです。

良く知られているものに、1573年9月、兎庵という人物の『美濃路紀行』という旅行記の中で、信長を指して、平清盛の孫平資盛の子孫で云々との記述があるというものがあります。
どうやら、この頃までには、本性平氏という話が、一般の人々にも認識されていたようです

1573年といえば、信長が義昭を追放した年になります。
それ以前に、本姓を平氏と称した事を示す記録が、ほとんど無い事と合わせて考えると、本姓平氏という考えは、義昭追放と相前後して流布され始めたもののように思われます。

義昭追放

 次に、どうしてほかならぬ、平氏だったかという事について考えるのですが、先ず流布され始めた義昭追放時の状況について考えてみたいと思います。

そもそも、「天下布武」を掲げて、義昭と共に上洛をした時には、武力による全国制覇などは考えておらず、あくまでも、権力を伴ったNo.2狙いだったと考えているわけです

 

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しかし、全国制覇はともかく、布武というからには、ある程度武力が必要だと考えていたと思われます。

もっとも、義昭が敵に回るとは考えていなかったでしょうが。

案の定、義昭を伴って上洛した後に、その征夷大将軍足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促したが、かなりの数の従わない勢力がいました。

それに対して、従わせるために、信長が軍を進めるのですが、朝倉義景を攻めた際に、金ヶ崎で死にかけたりするなど、苦しい状況が続くことになります。

その上、それら反対勢力に呼応する形で、義昭が信長の排除を計ったために、義昭を見限る事になりました。

義昭追放後

 義昭を排除するとして、その後の事について、信長はどのように考えたたでしょうか。

まず考えられるのは、足利一族の中の誰かを担いで、新たな将軍に据えるというものです。

しかしこれについては、義昭のように自分の言いなりにならないという可能性を考えなければなりません。
もしそうなれば、何をやっているのか分からなくなってしまいます。

さらに、そのような人物を見つけて、新たに足利将軍として担ぎ出しても、義昭の時に従わなかった反対勢力の状況が、改善するとは考えられません。

ならば、いっそ、自分が取って変わっても同じだと考えたのではないでしょうか。

そんな中で、出て来たのが、平氏を名のるという考えだったと思うのです。

なぜ平氏なのか

 信長は、もともと藤原氏を名乗っていたようですが、足利氏に代わって、武家の棟梁となるには、いささか収まりの悪い名前となります。
公家の代表とも言える家柄ですからね。

また、いずれかの源氏の子孫を名乗るのは、源氏の名門中の名門足利氏を排除して、新たにトップに立つのには、説得力不足という事になりそうです。
源頼朝の直系というのは、さすがに無理があるでしょうからね。

そこで捻り出されたのが、平氏という事だったのではないでしょうか。
源氏を倒して、平氏が天下を取るというのは、当時の一般の人にも、筋として分かり易いものだったと考えられます。

結局のところ、義昭の追放と、それに取って代わる形での織田政権という、不測の事態に対応するために考え出されたのが、本姓平氏だったのではないでしょうか。


と一応書いては見たのですが、現代のバリバリの庶民の出としては、本姓については今一つピンとこないというのが、正直なところなんですけどね。


ではでは

信長の終活と本能寺の変

信長の終活が、本能寺の変の一因だったのでは無いかと言う話です。

 

 

光秀の派遣

 前回の記事で、信長が織田政権の将来像を考え始めたのは、石山本願寺との間に和睦がなった以降では無いかと考えました。

 

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その将来像の中で、危険と考えられた、甲斐武田氏と四国長宗我部氏に対して、侵攻することになったと考えました。

そして、甲斐武田氏を滅ぼすことに成功し、残すは、秀吉が戦っている毛利氏と、神戸信孝による四国侵攻というところで、本能寺の変が起きてしまいます。

本能寺の変が起きる直前には、甲州征伐の論功として駿河国を加増された礼のために、徳川家康が安土を訪れ、明智光秀がその供応役を命ぜられます。
その最中に、羽柴秀吉からの援軍の要請にこたえる形で、光秀に供応役を外れて、すぐに援軍に向かうように指示をします。

信長は、この時点になって初めて、秀吉に山陽道を、光秀に山陰道という将来的な配置を思いついたのではないでしょうか。
光秀を援軍に送って、その功績を理由に山陰道を任せれば、山陽道の秀吉と共に、ピタリとピースがはまると思い付いたのでしょう。

こういった自分でもやったーと思えるようなアイデアを思いついた時には、すぐにも実行に移したいものです。
そのために、供応役を途中で外すことになったのだと思います。

これを、光秀はどう受け取ったでしょうか。

光秀はどう受け取ったのか

 この後すぐに開始されることになっていた、神戸信孝による四国侵攻の相手である長宗我部氏との取次ぎ役は光秀でした。

それが、信長の考える将来像に従って、光秀の面目を失わせる形で、侵攻することになってしまいました。

おそらく、信長は、将来像に関する考えを、一族の者はともかく、光秀のような外様ともいえる立場の人間とは相談していなかった可能性が高いと考えられます。

そのためこの時点で、四国侵攻の真の理由が分からない光秀には、少なくとも何らかのわだかまりのようなものが残っていたと思われます。

そこに、派遣の話になりました。

備中高松城の水責めの状況は知っていたでしょうから、今日明日にも援軍を出さないといけないような状況でないことは分かっていたはずです。
そんな中での、供応役を途中で外されての、援軍命令です。
しかも、出雲、石見の二か国を奪い取れと言われたのです。

光秀は、信長の真意を図りかねて、疑心暗鬼になったのではないでしょうか。

そんな中、信長の首が、討ってくれと言わんばかりに、目の前に差し出されているのに気が付いたのです。

信長の見落としとその結果

 ところで、光秀の派遣を考えた時点で、信長はどのような心境だったでしょうか。

天下布武」を成し遂げ、織田政権の将来構想に基づいて、甲斐武田氏を滅ぼし、東日本に関しては思い通りになったところです。

やることなすこと、全てうまくいっているわけです。

このような時には、往々にして、全ては、自分の思うように動いていくと思えるものです。
まあ、一般に、成功が続けば落ちいりやすい精神状態です。
「俺は天才だ!」と思ったりしがちです。

そんな時には、うまくいくことは想像しても、失敗することは考えもしないものです。

往々にして、そういった時には、大きな見落としをしがちです。
そして、その見落としが露になった時には、その過ちを瞬間的に悟るものです。

それが、信長の場合、明智光秀だったのではないでしょうか。
将来構想への道筋のみが見えていて、光秀の謀反という落とし穴が見えていなかった

そして、時代の子でもあった疑心暗鬼の光秀は、差し出された信長の首を取ることにした。

 

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そのため、光秀の謀反を聞いた瞬間に全てを悟って発したのが、「是非に及ばず」という言葉だったのだと思います。


結局、信長も人の子だったという事でしょうか。


ではでは

信長の終活をもう少し詳しく

 信長の終活をもう少し詳しく考えて見た話です。

 


前回より

 前回の記事で、信長は、本能寺の変の直前には、全国制覇ではなく、自ら亡き後の織田政権の有り方を決めるべく、終活を行っていたのではないかという話をしました

 

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その話は、主に本能寺の変の起きた当時の、信長配下の武将の状況から思い付いたものでした。

その各武将の配置図を、もう一度見て下さい。

 

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引用元:真田丸・本能寺の変時点での織田家武将配置 : 永遠日誌


各武将の配置から、中央部に織田一族、その周辺に配下、および同盟者の武将という将来像を意図していたのではないかと、思い付きで考えたわけです。

最終的な結論は変わらないのですが、信長が、将来像を思い付き、終活を始めた辺りの事を、当時の状況も含めて、もう少し細かく考えて見たいと思います。

石山本願寺

 先ず、柴田勝家羽柴秀吉の両武将は、織田家の将来像に基づいて派遣されたわけでは無いという事です。

柴田勝家は、石山本願寺に対抗する一貫として、加賀一向一揆に対して侵攻したもので、一向一揆側についた、上杉氏とも対峙することになりました。

羽柴秀吉は、石山本願寺に援軍を送っていた、毛利氏の中国攻めに派遣されたものとなります。

それぞれ、各方面の、石山本願寺に味方する敵対勢力に対して手を打った結果だったという事です。

結果として、将来像にぴったりな位置にいたという事になります。

ただし、この時点では、中国攻めには明智光秀は派遣されておらず、山陽道を秀吉、山陰道を光秀という構想は無かった事が分かります。

天下布武」の達成と将来構想

 その結果、秀吉による中国攻めは続いているものの、1580年石山本願寺との間に講和がなります。

これにより五畿内を天下とする「天下布武」が、達成されたと考えたのではないでしょうか。

翌年1581年には、京都御馬揃えのような力を誇示するイベントをやっていることを見ても、当面の目標を達成したと考えていたように思えます。

更に、その同じ年に、四国の長宗我部元親に、それまでの「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」との朱印状の替わりに、「土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよ」との趣旨の新たな朱印状を出します。

どうやら、この辺りで将来像に関して、考えたように思えます。

即ち、かつての室町幕府にならって、織田家と各地の有力大名による連合政権のようなものを考えている時点では、四国を長宗我部氏に任せるというのは、特に問題の無い政策だったはずです。

しかし、中央部を織田一族で固めるという事になると、四国を任せるという事は、淡路を通して、まるで喉元に短刀を突き付けられているように感じられたのだと思います。

そのため、長宗我部元親に譲歩を求め、受け入れられなかったので、神戸信孝に命じて四国を攻める事にしたのだと考えられます。

加えて、尾張、美濃の隣の甲州武田氏も、同様に危険な存在と考えられ、1582年甲州征伐となったという事になります。

征伐後、その最前線に滝川一益を当て、東海道を担当させるつもりの徳川家康に、東側の駿河国を与える事にしたのも、説明がつきます。


そうなると、山陰道の光秀はどう考えれば良いでしょうか。
中国地方は、秀吉だけでも問題ないように思えます。
そのことと、本能寺の変に関係が無くも無い気がするのですが、そのあたりは回を改めましてという事で。


ではでは

本能寺の変が無かったら

本能寺で死ななかったら、信長は何をするつもりだったか考えてみた話です。

 

 

信長配下の武将の動き

 とにもかくにも、先ず、本能寺の変発生時の信長配下の武将の状況を、見ていただきたいと思います。

 

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引用元:真田丸・本能寺の変時点での織田家武将配置 : 永遠日誌

 

一見して、信長配下の武将たちが、全国制覇のために、東西で戦線を展開しているように見えます。

前回の記事で、安土城の有り方や「天下布武」の意味するところから、信長は武力による全国制覇を考えてはいなかったのではないかとしました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

明らかに矛盾しているように見えます。

どう考えれば良いでしょうか。

その後を知っているから

 この状況下で、信長は明智光秀に本能寺で打たれる事になります。

そして、秀吉が全国制覇を成し遂げると、という流れになる訳です。

一般に、その後秀吉が天下統一を成し遂げたという事実を知っているので、その主人である信長も、当然それを目指していたと考えがちです。

そうではなく、やはり全国制覇のためでは無かったとすると、何か別の理由があったはずです。

一つの仮説を思いつきました。

それは、この戦線の展開が、信長の終活により行われたのではないかという事です。

信長の終活

 前回の記事でも書いたように、もともと信長は、過去の例に倣って、将軍義昭の名のもとに、各地の大名との連合政権のようなものを考えていたと思われます。

しかし、計らずも、義昭を追放して、自らがトップになってしまいました。

安土城を居城とした時点で、信長の年齢は45歳という事になります。

人生50年の当時に有っては、そろそろ人生の終わりが見えてきた年齢です。

その時に考えるのは、「天下布武」を完遂して出来上がった織田政権の、自分亡き後の行末だったはずです。

その結果が、配下の各武将による東西の地域への進行の開始で有り、本能寺の変時点での、上に示した地図に見えるような状況だったのだと思います。

織田政権の将来構想

 その時点での、信長は、京都を含む、近畿、北陸、中部と、ほぼ本州の中央部を支配していました。

ただし、この時すでに嫡男信忠に家督を譲り、後を継がせることは既定路線となっていました。

四国攻めを行う寸前であった神戸信孝は、信長の三男であり、讃岐一国を与えるとの朱印状を信長は出しているようです。

又、同図には出て来ませんが、二男の北畠信雄は、伊勢地方を治めています。

さらに、ご存知のように、中央に書かれている明智光秀は、中国攻めの秀吉の援軍を命じられています。
その際、出雲、石見の二か国を与えると言われた、とする話も有ります。

以上の事と、各武将の配置を見ると、信長が考えていた織田政権の将来図が見えて来ると思うのです。

即ち、安土を中心とする本州中心部と四国の東部分を、織田一族で押さえる形とし、その周辺部を配下または同盟者の武将に治めさせるという形です。

具体的には、北陸道柴田勝家東海道徳川家康、その間を滝川一馬、山陽道羽柴秀吉山陰道明智光秀(そのための出雲、石見だった訳です)となります。


しかし、冷静に考えれば、いかにも戦線を広げすぎな感は否めないわけですが、それも、信長が、自らが死ぬまでに作り上げておきたいと、気がはやった結果と考えれば、分からないでもありません。


ではでは

安土城と信長

安土城から織田信長について考えて見た話です。

 

 

安土城

 信長の最後の居城安土城は、1576年に築城が始まり、1579年に天守(信長は天主と呼んだらしい)が完成し、信長の家族が移り住みます。

その作りを見ると、それまでの山城などとは異なり、5層7階で、現代の我々が、一般に城と聞いて思い浮かべる形態になります。

ちなみに、石垣の上に天守が乗る形の城としては、最初期のものと考えられているようです。

また、大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続くといった特徴など、戦に備えたとは言い難い面も多々あるようです。

そのようなことから、安土城は、信長の天下統一事業を象徴し、一目にして人々に知らしめるものといった捉え方がされてきました。

お金を取って、見せていたと言う話もあるようです(しかも、モギリを信長がやっていたと言う話も)。

ここで、安土城を居城とした、1579年の勢力図を見てみましょう。

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引用元:戦国時代の勢力図!


明らかに、天下を統一したどころか、この先統一できるかどうかも怪しい状態にあると言えます。

にもかかわらず、あのような城を作ったのはどうしてでしょうか。

天下布武

 信長に関係する言葉として有名なものに、天下布武というのが有ります。

読んで字のごとく、天下に武を布く(しく)ということなので、「武力でもって全国制覇する」という意味だと解釈されてきました。

しかし、近年の研究で、戦国時代における天下は

 

室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県大阪府兵庫県南東部)のことを指すと考えられている

引用元:織田信長 - Wikipedia

 

ということのようで、必ずしも全国を意味するものでは無かったようです。

であるならば、石山本願寺など一部の敵対勢力は残っているものの、ほぼ近畿、北陸、中部を手中にした1579年に安土城を居城としたというのは、理解できることになります。

信長の中では、この時点で、「天下布武」が、完成を間近にしていたという事だったのではないでしょうか。

どこまで考えていたのか

 そもそも、「天下布武」を使い始めたのは、美濃を攻略し岐阜城を居城とした頃からのようです。

美濃攻略以前から、足利義昭との間に、義昭を上洛させるとの話が有ったことが分かっています。

つまり、足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに、五畿内を武力で征するというのが、「天下布武」だった訳です。

何しろ、元々の立場的には、三管領家の一つである斯波氏を下剋上した尾張守であり、義昭を上洛させることに拠り、管領としての地位を安堵出来るぐらいに、考えていたのではないかと思うのです。

ただし、現実には、その義昭も追放することになり、自らがトップの地位についているのですが。

これについては、『殿中御掟』9ヶ条の掟書などを、義昭に突き付けて、あくまでも神輿に担ごうとしたようですが、残念ながら、義昭がそれを良しとする性格では無かったという事だったのだと思います。

信長が「天下布武」を唱え始めた時には、そこまでは考えていなかったのではないでしょうか。
あくまでも、権力を伴ったNo.2狙いだったと思うのです。
義昭の性格が想定外だったという事でしょう。

 

いずれにしても、「天下布武」は完遂間近だったのです。

 


以上のような事だったとすると、安土城に入った三年後に本能寺の変が有る訳ですが、その時に、中国攻めの秀吉を筆頭に、配下の武将が各地で戦を行っているのはどう考えれば良いのでしょうか。
やはり全国制覇の野望があったのでしょうか。
そのあたりを、次回考えて見たいと思います。


ではでは

「ペタペタ歩き」で意外な効果が

「ペタペタ歩き」を行ったら、意外な効果が有ったと言う話です。

 

 

坐り過ぎが気になる

 前回の記事に引き続き、「ペタペタ歩き」の話なんですが、最近取り入れている、もう一つの健康法から話たいと思います。

 

yokositu.hatenablog.com

 

実は、「ペタペタ歩き」のほかにもう一つ、しばらく前から、やっている健康法が有ります。
健康オタクは、色々と忙しいのです。

最近気になっていたのが、坐り過ぎは体にによくないというものです。
どうも、日本人は世界一坐っているという調査結果も有るようです。
そうでなくても、退職してからは、通勤する必要もなくなった訳で、どうしても、坐っている時間が増え気味なので、気になったのです。
対策として言われているのが、30分に一度立ち上がるというもので、さっそく取り入れてみました。

まあ、やることは、タイマーかけて、30分に一度立ち上がるだけなので、簡単といえば簡単なんですが。

ただ、やっているうちに、ただ目的もなく立ち上がるのが面倒になって来たました。
しかも、30分毎というのが、意外と忙しくて、毎回都合よく用事が有る訳でもなく、どうしたものかと。
そこで、それまでは、朝昼晩の三回行っていた「ペタペタ歩き」を、立ち上がるたびに行う事にしました。
回数を増やせば、前屈に対する効果も、早く出るのではないかという考えも有りました。

という事で、30分毎の「ペタペタ歩き」を一日に何時間かという生活を始めたわけです。

数日して、ある変化に気が付きました。

夜間頻尿が改善

 夜間頻尿が改善していたのです。

ここ何年か、寝てから、数回トイレに起きるようになっていました。
いわゆる夜間頻尿というやつです。

まあ、一度起きても、比較的その後の寝つきはいい方なので、苦痛というほどの事は無いんですが、チョット面倒くさいなというところでした。

年も年だしなとも思ったりしていたところでした。

それが、30分毎の「ペタペタ歩き」を始めて数日たった時に、夜間に1度しか起きないという事が有ったのです。
アレッと思ったんですけど、その夜はまた元に戻りました。
で、その次の夜がまた一回だったのです。

そんな感じで、一ヶ月ほど経っているんですが、ここしばらくは、ほぼ毎晩一回で、たまに朝まで一度も起きない日が有るという感じで、明らかに改善しています。

なぜ「ペタペタ歩き」で改善したのか

最初に、「ペタペタ歩き」をしなくて、ただ30分に一度立っていた時には、こんなことは有りませんでした。
従って、30分毎の「ペタペタ歩き」が要因という可能性が高い事になります。

調べてみると、夜間頻尿の原因の一つに、「足のむくみ」が有るようです。
むくみというのは運動不足や、水分、塩分の取り過ぎなどで、不要な水分が溜まった状態です。
そして、昼間に足にたまった不要な水分が、寝るために横になると、上半身へ移動し、最終的に尿になるために、夜間頻尿になるというメカニズムのようです。

どうやら、30分毎の「ペタペタ歩き」が、下半身のむくみを改善したのが原因という事になりそうです。
よく、ふくらはぎは第二の心臓と言われていますが、その第二の心臓を、「ペタペタ歩き」で動かすことに拠って、下半身の水分を送りだすことになったという事のようです。


やはり、働いていた時には、していないと思っても、通勤などで意外と運動をしていたという事でしょうか。
とにかく、運動不足が原因で、年のせいでは無いと言い張りたいと思います。


ではでは

体が柔らかくなった

最近ある事をやるようになって、体が柔らかくなった話です。

 

 

体が硬い

 コンプレックスというほど大袈裟では無いですが、昔から体が硬い方でした。

最近では、床に足を延ばした形で座って行う、長座体前屈で測定することもあるようですが、私の子供の頃は、いわゆる立位体前屈というやつで、台の上に立って、前屈してどこまで下に手が届くかというやつでした。

これまで、一度も測定値がプラス、つまり、台の面より下に行った記憶が有りません。

今年の年頭に(考えて見れば、その頃には、まだコロナの影は全くなかったですね)、久しぶりに測る機会が有りました。
といっても、仲間内で適当にやってみたという事ですが。


結果は、約-27センチという事になりました。
-27センチともなると、上半身が90度ぐらいしか曲がらずに、手だけを下に必死に伸ばしているという感じです。

さすがにこれはまずいなと思いました。
体が硬いと、けがをしやすいとも言いますしね。

とは言え、今に始まった事では無いので、これまでも、思い出したように色々とやってはいたんですよね。

基本的にはストレッチという事になるんですが、効果の出る前に、無理して痛めるか、なんとなくやめてしまうという事の繰り返しという訳です。

驚きの情報

 で、どうしたものかなと思っていた時に、次のような情報に行き当たりました。

gatta-media.com

正直、「前屈で手が床につかない人必見!1日1分続けるだけの「柔軟ストレッチ」」というタイトルを見た時には、これまでにやって来たストレッチの一種かなと思いました。

ところが、読んでびっくり、えっこれだけという方法でした。

上記の記事を読んでもらうのが手っ取り早いのですが、その方法の説明している部分のみを引用すると以下のようになります。

(1)まずは立った姿勢から無理のない程度に前屈をしてみましょう。前屈で伸ばしたふくらはぎの張り感、痛みなどをチェックします。
(2)立った姿勢に戻ったら、その場で軽く行進をしましょう。ペタペタと足首の力を抜いた状態をキープしましょう。
(3)脚を持ち上げたときに足首の力を抜いていれば、足の甲が伸びて、自然と指先が下を向いているはずです。
(4)ペタペタ歩きに慣れてきたら、同じ感覚で周りを歩き回ってみましょう。
(5)1分程度続けます。
(6)再び前屈をしてみて、最初のふくらはぎの張り感と比べてみましょう(個人差あり)。きっと先程よりも手が床に近づいているはず!
(7)朝晩二回行うのがおすすめです。

 

 

つまり、やることは、その場で足踏みをするだけです。
ただしその時に、足首の力を抜いて、ペタペタという感じで、足踏みをするのです。
記事の中では、これを「ペタペタ歩き」と呼んでいます。

チョット衝撃的ですよね、これまで、前屈出来るようになるためのストレッチは、そのために何処かの筋肉を伸ばすために行うものだと理解してきました。

この方法の理屈は、前屈の苦手な人は、ふくらはぎがパンパンに張ることが原因の事が多いので、ふくらはぎを緩めることが大切だというものだそうです。

その方法が、「ペタペタ歩き」という訳です。

やってみた結果

 にわかには信じられませんが、臆病な健康オタクを自認している私としては、やってみても特に体に悪影響はなさそう(足踏みだけですからね)なのでやってみる事にしました。

朝昼晩の食後の三回やることにしました。

まず驚いたのが、引用部分の(3)にある「足の甲が伸びて、自然と指先が下を向ているはず」という部分が、そうならないという事です。
何も考えずに足を上げると、足首が固定されたかのように、足の甲が足首に対して90度のままで上がります。
最初の数日は、意識しないと指先が下に向きませんでした。

それでも、毎回、確かに「ペタペタ歩き」をやった後は、少し前屈が出来る感じになるのです。

その結果、二ヶ月程かかりましたが、なんと指先が床につくようになりました。

残念ながら、床にペタッと手のひらが付くというところまでは、まだ辿り着いていませんが、出来そうな気がしています。


この「ペタペタ歩き」ですが、最近になって新しい展開が有りました。
そのあたりを次回で報告したいと思います。


ではでは

 

戦国時代と室町幕府

戦国時代と室町幕府について考えてみた話です。

 

 

意外と室町幕府の将軍が

前々回、前回と2回で、戦国時代の有力な大大名が、実は天下にそれほど興味が無かったのではないかというのことを、その事跡を中心に考えました。

 

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事跡を追う中で、実質的には統治能力の無い室町幕府の将軍が、意外とそこかしこに顔を出し、情勢に影響を与えていることが、チョット意外だという話をしました。

そこで今回は、戦国時代における、室町幕府の立ち位置のようなものを考えて見たいと思います。

室町幕府の状況

 戦国時代の始まりともされる明応の政変で、管領細川氏により、10代将軍義材から11代義澄に挿げ替えるクーデターが起きます。

この後、両将軍を支持する勢力に分かれることになり、中央政権としての統治機能が失われることになったようです。

それ以降、近畿地方に関しては、管領家細川氏・畠山氏を中心に権力争いが続いた結果、大きな勢力が覇権を握ることにはなりませんでした。

室町幕府の最後に関しては、一般的には、1573年に織田信長が、15代将軍義昭を京都から追放した時点とするようですが、実はその時点で義昭は将軍職を辞めていませんでした。

最終的に辞任するのは、1588年に関白となっていた豊臣秀吉に従って参内した時のようです。

結局、室町幕府は、その中央政権としての統治能力を失いつつも、戦国時代を通じて、形式上は存続をしていたことになります。

戦国時代

 以前の記事で、小氷期が原因の天候不順により、農業を基盤とする経済システムが機能しなくなることに拠り、守護、荘園公領制などのそれまでの統治機構が崩壊したのが、戦国時代が始まった一因と考えました。

 

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その後、1500年代になってからの、天候回復による経済回復を受けて、秩序も回復に向かいます。

その時に、当然旧来のシステムは機能していない訳ですから、従来の守護、荘園公領制にとらわれることなく、覇権を争う事になったと考えました。

その時に、統治するはずの側の、室町幕府は、前項で見たように戦国時代を通じて統治機能を失っていました。

下剋上

 このような状況の下で、生まれてきたのが、下剋上という考えでした。

下剋上とは、読んで字のごとく、下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して、権力を奪う事です。

中央政権の幕府には、最早こういった身分秩序を侵す行為を、咎めるような統治能力は無かったので、生まれてきたのだと考えられます。

守護職を奪ったからといって、それに対して、どうこうするほどの力は幕府にはなかったという事です。

権力構造の維持

 ここで、注目すべきは、下剋上の目的が権力を奪うという事であって、多くの場合、既存の権力構造を破壊する事では無かったという事です。

あくまでも、既存の権力システムの中での下剋上だった訳です。

鎌倉時代から考えると、天皇征夷大将軍、守護といった権力システムは、戦国時代の始まる時点で、300年近くの歴史が有る事になります。

下剋上で、権力を奪ったとしても、この権力システムから外れることは、難しいというより、最初から考えに無かったのではないでしょうか。

加えて、システムを利用している限り、後付けでも、将軍の名において大儀名分を立てることも出来るので、都合がいいという事も有ったかもしれません。

室町幕府の形だけが残っている事が、丁度都合がよかったとも言える訳です。

都合のいい存在

 以上の事から考えると、結局、戦国時代の室町幕府の将軍は、何らかの影響を行使できるような、隠然とした力を有していた訳ではなさそうです。

形式的にではあれ続いている権力システムの中で、必要な時に、都合のいいように名目上の権力を利用されていただけだと考えられます。

その事が、外形的に見ると、意外なところに顔を出し、情勢に影響を与えているように見えるという事なのだと思います。

 


 以上のような状況では、義昭が本能寺の変の黒幕だというのは、無さそうですね。

 


ではでは

本当に信長は幸運だったのか(後編)

本当に、有力大名たちが、天下を狙っていなかったのか検討してみた話(後編)です。

 

 

前編より

 前編で、毛利元就武田信玄について、その事跡から、天下に対する考えを検討してみました。

 

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後編の今回は、毛利元就北条氏康上杉謙信について見てみたいと思います。

毛利元就

 毛利元就については、そのものズバリの「天下を競望せず」という、彼の言葉が残っているようです。

明らかに天下を狙う気はなっかたと思われる訳ですが、事跡の面でも少し見てみたいと思います。

毛利元就は、中国地方を争って、もう一方の雄尼子晴久との争いを長く続けていました。

その晴久は、1561年に亡くなり、1568年には跡を継いだ尼子義久を降伏させます。

これにより、中国八ヶ国を有する大大名となります。

そういった情勢の中で、足利義昭から、上洛援助の要請が有りましたが、元就は要請に応じませんでした。

その要請に応じたのが信長であった訳で、その後の展開を見れば、元就にもチャンスが有った事になります。

元就には、そこまで踏み込む気は無かった訳です。

北条氏康

 後北条氏に関しては、豊臣秀吉による小田原征伐の相手ぐらいにしか覚えていなくて、今回色々と知ることになったというのが正直なところです。
そもそも、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するために、後北条氏と呼ぶなんて言うのも、初めて知りました。

それにしても、北条氏康はなかなかの武将じゃないですか。

ざっと調べただけですが、大きな戦で武田信玄上杉謙信今川義元に負けていないようですし、領国経営にも手腕を発揮しているようです。
難攻不落の小田原城を作り上げてもいますしね。

それにしては印象が薄いんですよね。
桶狭間の戦い以降の、中央での出来事の中に、ほぼほぼ名前が出て来ません

北条氏康というか、北条早雲以来の後北条氏にとって、天下は関東だったのではないかとも思える程に、関東での覇権争い、領地経営に終始したこと辺りが、原因でしょうか。

天下を云々というよりも、関東大事だったのです。

上杉謙信

上杉謙信は、戦国時代でも屈指の戦上手で、最強と謳われながら、天下に対する野心は強くなかったようです。

「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記

という言葉が残っているようです。

天下に対する野心が強くないことを端的に表すのが、1559年(桶狭間の前年です)の上洛でしょう。
その時は、天皇、将軍に拝謁するために上洛した訳ですが、謙信は、5000人の兵を連れて行ったのです。

道中の国がよく通したなというのも有るんですが、それよりも、これは、うまくやれば、京都の中枢を占拠することも可能だったように思われます。

その後は、天皇の権威を背景に、天下を狙えたはずです。
しかし、現実には、関東管領並(関東管領ですらない)の待遇をもらっただけです。

そもそも、旗印の「毘」の基の毘沙門天は、武神であるとともに、仏の北方を守る神ですからね、自らが中央に立つという考えは無かったように思われます。


 前後編で、同時代の有力大名と天下の距離感を見てきて、やはり信長は幸運だったという感を強くしました。
それ以上に、実質的には統治能力の無い室町幕府の将軍が、意外とそこかしこに顔を出し、情勢に影響を与えていることが、チョット意外でした。
この時期の室町幕府の立ち位置については、もう少し考えてみるべきなのかもしれません。


ではでは