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秀吉と朝鮮出兵

秀吉の朝鮮出兵に関して考えてみた話です。

 

 

朝鮮出兵

 秀吉を語る上で、避けて通るわけにいかないのは、朝鮮出兵という事になるでしょう。

もし朝鮮出兵をしていなければ、秀吉の死後、豊臣政権があれほど早く瓦解することは無かったように思われます。

それ以前に、確かに朝鮮出兵というのは大事件で有る事は間違いありません。

秀吉より前に、日本軍が朝鮮半島まで進軍したのは、663年の白村江の戦いまでさかのぼることになるようです。

また、現代に置き換えれば、自衛隊朝鮮半島に侵攻するという事になる訳で、とんでもない事ですし、普通には考えられないことな訳です。

そのため、その動機に関しては色々と言われていますが、記録として残っているものは発見されておらず、いずれも決め手には欠けるようです。

信長の意志

 私は、秀吉の天下統一は、それが信長の意志だと考えて、信長の死後に引き継ぐつもりで行ったものと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

朝鮮出兵についても、同様に信長の意志だと考えていたのではないかと思います。

以前の記事で、信長自身は、唐入りは考えていなかったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ただ、その記事の中で触れたように、宣教師のフロイスには、冗談話として話した可能性が高いと考えています。

その折の事が、同席者を通じて、後日秀吉の耳に入ったことは、十分有り得ることだと思われます。

また、フロイスは、信長の死後、秀吉とも面会しており、その折に、信長の唐入り構想の話になった事も、有り得る話だと考えられます。

それにより、天下統一後の唐入りを、信長の意志と考えたのではないでしょうか。

天下統一の延長

 最初に書いたように、現代の我々から見ると、朝鮮出兵はとんでもない出来事な訳ですが、どうも秀吉は、それほどの重大事だと認識していなかったのではないかと思えるのです。

それは、朝鮮に派遣された軍の規模にも見る事が出来ます。

朝鮮出兵以前の天下統一の段階で、各地の平定、征伐が行われたわけですが、その時の派遣軍の人数は、四国平定10万、九州平定10万、小田原征伐とそれに続く奥羽仕置20万というものでした。

それに対して、朝鮮出兵は、文禄の役16万、慶長の役14万と、天下統一に際しての陣立てと変わりない規模と言えるものでしかありません。

小田原征伐とそれに続く奥羽仕置の際にすでに20万の兵力を動員出来たわけで、天下統一を成し遂げた後では、それ以上の人員を動員出来たはずです。

にもかかわらず、16万程度にとどまっていたという事は、秀吉自身は、朝鮮出兵さらにはその先の唐入りを、国内における各地の平定、征伐程度のものだと考えていた節があると考えられるのです。

中国大陸の大きさをどこまで認識出来ていたのかは、判然としませんが、国内における平定、征伐程度の戦の繰り返しで平定出来る位に考えていたのではないでしょうか。

それを裏付けるように、いくつかある秀吉の遺言書のそのいずれにも、朝鮮出兵に関しては一言も書かれていません。

その時にも、朝鮮半島では小早川秀秋をトップとする派遣軍が戦っていたたにもかかわらずです。

秀吉にとっては、豊臣政権の将来構想としての深慮遠謀が有る訳では無く、一地域で平定、征伐を行っている程度の事であり、わざわざ遺言で指摘するほどの事では無かったのです。

その事を示すかのように、秀吉の死後、朝鮮出兵は中止されることになります。


とは言っても、日本、朝鮮いずれの当事者にとっても、とんでもない事だったのは間違いのない事なんですけどね。


ではでは