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関ヶ原後の家康と天下

関ヶ原の戦い後の家康と天下について考えてみた話です。

 

 

征夷大将軍就任

 関ヶ原の戦いと来れば、家康を語る上で残るは、もう一つのクライマックスである大阪の陣という事になりますが、その前に、征夷大将軍となった以降の動きについて少し考えてみたいと思います。

関ヶ原の戦いの三年後、1603年に家康は征夷大将軍となります。

これにより、豊臣家の大老筆頭ではなく、朝廷より与えられた、武家の棟梁としての立場を確立した事になります。

その後、武家諸法度禁中並公家諸法度の制定に代表される幕藩体制の構築と共に、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすことに拠り、その後の徳川家による長期政権の基礎を作ったとされます。

事実関係は、この通りで間違いないですが、これらの事実を時系列で見てみると、少し違ったものが見えてくるような気がしています。

1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1614年 72歳 大坂冬の陣
1615年 73歳 大坂夏の陣武家諸法度禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去

二年で征夷大将軍を辞職

 先ず、目につくのが、征夷大将軍を、わずか二年で辞職しているという事です。

これに関しては、一般的には、この後征夷大将軍職を徳川家が世襲していくことを、世に示したと考えられることが多いです。

しかしながら、鎌倉、室町の両幕府の先例を考えれば、徳川の一族が世襲するのは特別な事ではなく、むしろ当然のことで有り、世間的にも、そのように考えられていたと思われます。

それよりも、家康は、自分の61歳という年齢と、自らが関係者として経験した、信長と秀吉の死後の混乱のような事を回避すべく、後継者を決めておくことを優先したのではないでしょうか。

そして自らは、駿府に移り、大御所政治と呼ばれている体制を取ったのだと思います。

大御所政治

 その大御所政治で、着々と幕府の体制を作り上げていったのかと言うと、そうでも無いようなのです。

そのことは、江戸幕府の体制の基本とも言える、武家諸法度禁中並公家諸法度の制定の時期を見ても明らかなように思えます。

上記の時系列を見てもらえば分かるように、両法度の制定は1615年で、大御所政治を始めてから10年が経っており、家康は73歳になっています。

大御所になった時点で、幕府の体制を構築することを考えていたのならば、これほどの時間が掛かったのは不自然です。

そもそも、家康本人にも、自分がいつ死ぬのか分かっている訳はないので、大御所どころか、征夷大将軍になった時から、制定を急ぐはずです。

そうではないことから、大御所になった頃には、後の江戸幕府のような体制は、意図していなかったと考えられるのです。

更に、両法度の制定が、大坂の陣で豊臣を滅亡させた後だったという事を考えると、それ以前には豊臣との共存を考えていたように思われるのです。

前回の記事で書いたように、西の豊臣、東の徳川という、天下二分を考えていたのでは無いでしょうか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

征夷大将軍を譲った後、大御所として江戸に有って政治的実権を握ることをせず、駿府に居を構えたのも、西の豊臣を意識してのものだったと考えれば、納得出来るように思えます。


 以上を踏まえて、大坂の陣に続く、予定です。


ではでは