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本能寺の変、無理矢理に陰謀論

本能寺の変に関して、無理矢理に陰謀論を考えてみた話です

 

 

偶然ではなく陰謀論

 前回の記事の最後で、信長親子の京での行動と、光秀の出陣が重なっていた事について、歴史のいたずらなのかと書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

この記事では、この事を、単なる偶然と捉えるのではなく、無理矢理に陰謀論の立場で考えてみようという趣向です。

前提として

 先ず前提として、三職推任に対しては、信長は、自身の太政大臣と嫡男信忠の相応の地位への任官を望んでいたとします。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そんな中、信長は、1582年5月17日に秀吉からの援軍要請を受け、徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀を解任して、先陣として、援軍に向かうように命じます。

これに対して、光秀は、直近の四国・長宗我部元親に対する対応も含めて、信長に対して、疑心暗鬼になっていたと考えます。

 

yokositu.hatenablog.com

 

同記事の中では、時代の子でもあった疑心暗鬼の光秀が、自らの前に差し出される形になった信長の首を取ることにしたと考えました。

朝廷側の陰謀

 今回の陰謀論では、ここに朝廷側からの働きかけが有ったと考えます。

明智光秀への援軍指令の状況を、その場で見聞きしたか、伝え聞いて、それまでの長宗我部との関係も含めて、利用できると考えた朝廷側の人物がいたのではないか。

当然、三職推任に関しても、その経緯を知っており、それを利用することに拠り、信長親子を京都に呼びだすことが出来、そこを援軍のために軍を動かせることになった光秀に、討たせることが出来る可能性に思い至ったのです。

後は、京に進軍するように明智光秀を説得すればいいだけです。

従って、朝廷側が黒幕になっての深謀遠慮というよりは、突発的な思い付きによる企みだったと思われます。

具体的な流れ

 具体的な流れを見てみます。

17日に光秀が援軍を命じられた後、21日に家康が京・大坂・奈良・堺を見物するために出立します。

信忠は、同21日に京都に向け安土を立ち、妙覚寺で6月2日の本能寺の変を迎える事になります。

という事は、21日の時点で、信長・信忠親子には、任官の内定が知らされており、それにより信忠が先ず京に向けて出立したと考えられます。

従って、陰謀は、17日から21日までの間に考えられて、光秀にも知らされたと思われます。

信長は、29日になって京に向かいます。

それまでは、最終的な決行日を決める事は出来なかったと考えられます。

この間の、光秀の心の揺らぎを示しているのが、愛宕権現での複数回のおみくじ引き(27日)や、愛宕百韻での発句「ときは今 天が下知る 五月哉」(28日)だったのではないでしょうか。

そして、信長が京に入った事を見届けて、決行の日を、信長がいる可能性が高いと考えられる、茶会の夜に設定します。

信長の逗留を更に確実にするために、任官の日を、翌日の6月2日にしたのではないでしょうか。

そのため、信忠が、茶会の夜に前祝いに訪ねてくることになったのです。

そして、揺らいでいた光秀も、当日になって腹を括り、京に向けて転進したのです。

その他関連する事柄

 任官の日を決めておくことは、暗殺が失敗したときのことを考えて、必要だったと思われます。
任官が、本当は無かったという事になれば、朝廷側の陰謀だったという事が、ばれてしまいますからね。

首謀者が誰だったのか特定する事は困難ですが、任官に関する決定を行わなければならないので、単独とは考え難く、複数の人物による可能性が高いと思います。

事後の朝廷の動きとしては、光秀に京都の治安維持を任せている程度で、これといった動きが無いのを見ても、信長を排除することだけを考えており、その後の事に関しては、特に考えていなかったように見えます。

当然、思い立って仕組んだ陰謀なので、事前の光秀と朝廷のやり取りなど有るべくもなく、朝廷側の関与が見えにくいものになっていると考えられます。

さらに、信長への死後の太政大臣追贈に関しても、陰謀により暗殺してしまったことに拠る、信長の怨霊化を恐れたためと解釈することが出来ます。


 なんだかんだと言っても、やっぱり陰謀論はやめられないですね。


ではでは