本能寺で死ななかったら、信長は何をするつもりだったか考えてみた話です。
信長配下の武将の動き
とにもかくにも、先ず、本能寺の変発生時の信長配下の武将の状況を、見ていただきたいと思います。
引用元:真田丸・本能寺の変時点での織田家武将配置 : 永遠日誌
一見して、信長配下の武将たちが、全国制覇のために、東西で戦線を展開しているように見えます。
前回の記事で、安土城の有り方や「天下布武」の意味するところから、信長は武力による全国制覇を考えてはいなかったのではないかとしました。
明らかに矛盾しているように見えます。
どう考えれば良いでしょうか。
その後を知っているから
この状況下で、信長は明智光秀に本能寺で打たれる事になります。
そして、秀吉が全国制覇を成し遂げると、という流れになる訳です。
一般に、その後秀吉が天下統一を成し遂げたという事実を知っているので、その主人である信長も、当然それを目指していたと考えがちです。
そうではなく、やはり全国制覇のためでは無かったとすると、何か別の理由があったはずです。
一つの仮説を思いつきました。
それは、この戦線の展開が、信長の終活により行われたのではないかという事です。
信長の終活
前回の記事でも書いたように、もともと信長は、過去の例に倣って、将軍義昭の名のもとに、各地の大名との連合政権のようなものを考えていたと思われます。
しかし、計らずも、義昭を追放して、自らがトップになってしまいました。
安土城を居城とした時点で、信長の年齢は45歳という事になります。
人生50年の当時に有っては、そろそろ人生の終わりが見えてきた年齢です。
その時に考えるのは、「天下布武」を完遂して出来上がった織田政権の、自分亡き後の行末だったはずです。
その結果が、配下の各武将による東西の地域への進行の開始で有り、本能寺の変時点での、上に示した地図に見えるような状況だったのだと思います。
織田政権の将来構想
その時点での、信長は、京都を含む、近畿、北陸、中部と、ほぼ本州の中央部を支配していました。
ただし、この時すでに嫡男信忠に家督を譲り、後を継がせることは既定路線となっていました。
四国攻めを行う寸前であった神戸信孝は、信長の三男であり、讃岐一国を与えるとの朱印状を信長は出しているようです。
又、同図には出て来ませんが、二男の北畠信雄は、伊勢地方を治めています。
さらに、ご存知のように、中央に書かれている明智光秀は、中国攻めの秀吉の援軍を命じられています。
その際、出雲、石見の二か国を与えると言われた、とする話も有ります。
以上の事と、各武将の配置を見ると、信長が考えていた織田政権の将来図が見えて来ると思うのです。
即ち、安土を中心とする本州中心部と四国の東部分を、織田一族で押さえる形とし、その周辺部を配下または同盟者の武将に治めさせるという形です。
具体的には、北陸道を柴田勝家、東海道を徳川家康、その間を滝川一馬、山陽道を羽柴秀吉、山陰道を明智光秀(そのための出雲、石見だった訳です)となります。
しかし、冷静に考えれば、いかにも戦線を広げすぎな感は否めないわけですが、それも、信長が、自らが死ぬまでに作り上げておきたいと、気がはやった結果と考えれば、分からないでもありません。
ではでは