安土城
信長の最後の居城安土城は、1576年に築城が始まり、1579年に天守(信長は天主と呼んだらしい)が完成し、信長の家族が移り住みます。
その作りを見ると、それまでの山城などとは異なり、5層7階で、現代の我々が、一般に城と聞いて思い浮かべる形態になります。
ちなみに、石垣の上に天守が乗る形の城としては、最初期のものと考えられているようです。
また、大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続くといった特徴など、戦に備えたとは言い難い面も多々あるようです。
そのようなことから、安土城は、信長の天下統一事業を象徴し、一目にして人々に知らしめるものといった捉え方がされてきました。
お金を取って、見せていたと言う話もあるようです(しかも、モギリを信長がやっていたと言う話も)。
ここで、安土城を居城とした、1579年の勢力図を見てみましょう。
引用元:戦国時代の勢力図!
明らかに、天下を統一したどころか、この先統一できるかどうかも怪しい状態にあると言えます。
にもかかわらず、あのような城を作ったのはどうしてでしょうか。
天下布武
信長に関係する言葉として有名なものに、「天下布武」というのが有ります。
読んで字のごとく、天下に武を布く(しく)ということなので、「武力でもって全国制覇する」という意味だと解釈されてきました。
しかし、近年の研究で、戦国時代における天下は
室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている
引用元:織田信長 - Wikipedia
ということのようで、必ずしも全国を意味するものでは無かったようです。
であるならば、石山本願寺など一部の敵対勢力は残っているものの、ほぼ近畿、北陸、中部を手中にした1579年に安土城を居城としたというのは、理解できることになります。
信長の中では、この時点で、「天下布武」が、完成を間近にしていたという事だったのではないでしょうか。
どこまで考えていたのか
そもそも、「天下布武」を使い始めたのは、美濃を攻略し岐阜城を居城とした頃からのようです。
美濃攻略以前から、足利義昭との間に、義昭を上洛させるとの話が有ったことが分かっています。
つまり、足利義昭を擁して上洛し、義昭将軍の名のもとに、五畿内を武力で征するというのが、「天下布武」だった訳です。
何しろ、元々の立場的には、三管領家の一つである斯波氏を下剋上した尾張守であり、義昭を上洛させることに拠り、管領としての地位を安堵出来るぐらいに、考えていたのではないかと思うのです。
ただし、現実には、その義昭も追放することになり、自らがトップの地位についているのですが。
これについては、『殿中御掟』9ヶ条の掟書などを、義昭に突き付けて、あくまでも神輿に担ごうとしたようですが、残念ながら、義昭がそれを良しとする性格では無かったという事だったのだと思います。
信長が「天下布武」を唱え始めた時には、そこまでは考えていなかったのではないでしょうか。
あくまでも、権力を伴ったNo.2狙いだったと思うのです。
義昭の性格が想定外だったという事でしょう。
いずれにしても、「天下布武」は完遂間近だったのです。
以上のような事だったとすると、安土城に入った三年後に本能寺の変が有る訳ですが、その時に、中国攻めの秀吉を筆頭に、配下の武将が各地で戦を行っているのはどう考えれば良いのでしょうか。
やはり全国制覇の野望があったのでしょうか。
そのあたりを、次回考えて見たいと思います。
ではでは