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戦国時代と室町幕府

戦国時代と室町幕府について考えてみた話です。

 

 

意外と室町幕府の将軍が

前々回、前回と2回で、戦国時代の有力な大大名が、実は天下にそれほど興味が無かったのではないかというのことを、その事跡を中心に考えました。

 

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事跡を追う中で、実質的には統治能力の無い室町幕府の将軍が、意外とそこかしこに顔を出し、情勢に影響を与えていることが、チョット意外だという話をしました。

そこで今回は、戦国時代における、室町幕府の立ち位置のようなものを考えて見たいと思います。

室町幕府の状況

 戦国時代の始まりともされる明応の政変で、管領細川氏により、10代将軍義材から11代義澄に挿げ替えるクーデターが起きます。

この後、両将軍を支持する勢力に分かれることになり、中央政権としての統治機能が失われることになったようです。

それ以降、近畿地方に関しては、管領家細川氏・畠山氏を中心に権力争いが続いた結果、大きな勢力が覇権を握ることにはなりませんでした。

室町幕府の最後に関しては、一般的には、1573年に織田信長が、15代将軍義昭を京都から追放した時点とするようですが、実はその時点で義昭は将軍職を辞めていませんでした。

最終的に辞任するのは、1588年に関白となっていた豊臣秀吉に従って参内した時のようです。

結局、室町幕府は、その中央政権としての統治能力を失いつつも、戦国時代を通じて、形式上は存続をしていたことになります。

戦国時代

 以前の記事で、小氷期が原因の天候不順により、農業を基盤とする経済システムが機能しなくなることに拠り、守護、荘園公領制などのそれまでの統治機構が崩壊したのが、戦国時代が始まった一因と考えました。

 

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その後、1500年代になってからの、天候回復による経済回復を受けて、秩序も回復に向かいます。

その時に、当然旧来のシステムは機能していない訳ですから、従来の守護、荘園公領制にとらわれることなく、覇権を争う事になったと考えました。

その時に、統治するはずの側の、室町幕府は、前項で見たように戦国時代を通じて統治機能を失っていました。

下剋上

 このような状況の下で、生まれてきたのが、下剋上という考えでした。

下剋上とは、読んで字のごとく、下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して、権力を奪う事です。

中央政権の幕府には、最早こういった身分秩序を侵す行為を、咎めるような統治能力は無かったので、生まれてきたのだと考えられます。

守護職を奪ったからといって、それに対して、どうこうするほどの力は幕府にはなかったという事です。

権力構造の維持

 ここで、注目すべきは、下剋上の目的が権力を奪うという事であって、多くの場合、既存の権力構造を破壊する事では無かったという事です。

あくまでも、既存の権力システムの中での下剋上だった訳です。

鎌倉時代から考えると、天皇征夷大将軍、守護といった権力システムは、戦国時代の始まる時点で、300年近くの歴史が有る事になります。

下剋上で、権力を奪ったとしても、この権力システムから外れることは、難しいというより、最初から考えに無かったのではないでしょうか。

加えて、システムを利用している限り、後付けでも、将軍の名において大儀名分を立てることも出来るので、都合がいいという事も有ったかもしれません。

室町幕府の形だけが残っている事が、丁度都合がよかったとも言える訳です。

都合のいい存在

 以上の事から考えると、結局、戦国時代の室町幕府の将軍は、何らかの影響を行使できるような、隠然とした力を有していた訳ではなさそうです。

形式的にではあれ続いている権力システムの中で、必要な時に、都合のいいように名目上の権力を利用されていただけだと考えられます。

その事が、外形的に見ると、意外なところに顔を出し、情勢に影響を与えているように見えるという事なのだと思います。

 


 以上のような状況では、義昭が本能寺の変の黒幕だというのは、無さそうですね。

 


ではでは