横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

本当に信長は幸運だったのか(前編)

本当に、有力大名たちが、天下を狙っていなかったのか検討してみた話(前編)です。

 

 

信長の幸運

 前回の記事で、桶狭間の戦いの時点で、その領国の規模からいって、織田信長よりも、天下に近かったと見える有力戦国大名は、実は、それほど天下を取る事に目が向いていず、その幸運が、後の信長の躍進の一因ではないかと考えました。

 

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有力大名のほとんどが信長の親の世代であることから、ほぼ年齢のみを根拠にして、そういった事を考えたわけですが、実際の事跡でそのあたりを考えてみたいと思います。

今川義元

 今川義元は、桶狭間で首を取られてしまったので、天下を狙っていてもいなくても、どちらでもいいと言えばいいんですが。

信長が事実上尾張を統一したのは、1559年です。
その翌年1560年が桶狭間の戦いとなります。

桶狭間の戦い時の進軍自体が、信長による尾張の統一の翌年に行われたという事は、この戦いが、尾張の覇者となった信長との間の、領国境での勢力争いという性格のものだった事を示しているのではないでしょうか。

攻め取るつもりなら、領内が混乱している時の方が攻めやすいですよね。

そもそも、義元は、桶狭間の戦いの12年前に、信長の父信秀に三河の地で大勝しています(その時、後に家康となる竹千代が、今川の人質になります)。

天下を狙っているならば、その時に尾張を手中にしようとしても良いわけですが、三河を安堵することで終わってしまっていることを見ても、そこまでは考えていなかったように思えます。

桶狭間の時も、父親の時と同じように、一度思い知らせてやろうぐらいに思っていただけだったのではないでしょうか。
輿に乗ってゆっくりと見せつけるように進軍しているのも、その表れのように思えます。

武田信玄

 武田信玄は、上杉謙信との川中島での戦いが原因で、天下取りに乗り出すのが遅くなってしまったように言われます。

もし天下取りの野心が有ったのならば、謙信をうまくあしらって、西に侵攻すればよかっただけのような気がします。

事実、ようやく1573年になってから信長と相対峙したわけですが、その時にはまだ謙信は健在でした。

この事をもってしても、信玄が、積極的に天下を伺っていたとは考えられないと思うのですが。

この時の進軍は、信玄が、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけを口実に、信長の力を削いでおこうと思ったのではないかと考えます。

その背景には、比叡山焼き討ちを行った信長に、将来的に何をするか分からないという、恐怖感を抱いたことが有るのではないでしょうか。
これに関しては、信長を、「天魔ノ変化」というあまり聞かない言葉で非難しています。

更に、確たる記録は無いようですが、信玄が、先の長くないことを悟っていたとも考えられます。
自分が死ぬまでに、信長の牙を抜いておきたいと思ったのではないでしょうか。

それが、信長を目前にして倒れた時に残した遺言の「自身の死を3年の間は秘匿し」、「越後の上杉謙信を頼る事」という言葉になったのだと思います。

天下よりも、甲斐の国の行く末が心配だったのです。


 引き続き後編で、残りの武将について考えてみたいと思います。


ではでは

信長の幸運

信長には、ある幸運が有ったのではないかという話です。

 

 

桶狭間の頃

 前回までの前後編の2回の記事で、戦国時代は、初期、中期、後期の3期で考えられるんじゃないかと書いて来たわけですが、その中で、桶狭間の戦いの前後以降が後期になると考えました。

 

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先ず、その桶狭間の戦い(1560年)の頃の全国的な勢力図をご覧下さい。

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引用元:1560年頃の戦国大名勢力-戦国探求

 

その後の歴史を知っているので、この状態から始めた織田信長はやっぱり凄いというほかないです。

しかし、何も知らずにこれを見たら、この後に、織田氏が全国に覇を唱えるとは考え難いでしょう。

まあ、斎藤氏は義父の家だから良いとしても、東には、今川、武田、北条、上杉とそうそうたる面々が顔をそろえていますし、西には、離れているとはいえ、中国の覇者毛利がいるわけですから。

これらの大大名の中から、最終的な勝者が出て来ると考えるのが普通だと思います。

そこが、織田信長の天才たる所以だと言われると、それで話は終わってしまうのですが。

そんな信長の非凡な能力ももちろんあったとは思いますが、それ以外にも、彼にとって幸運な面が有ったのではないかというのが今回の話になります。

関係者生没年

ここで、関係者の生没年を見てみましょう。

織田信長 1534年生(1582年没)
武田信玄 1521年生(1573年没)
毛利元就 1497年生(1567年没)
北条氏康 1515年生(1571年没)
今川義元 1518年生(1560年没)
上杉謙信 1530年生(1578年没)

これを見てわかるのは、上杉謙信以外は、いずれも、信長よりも一世代前の親の世代の武将だという事です毛利元就に至っては、祖父の世代です)。

彼らは、いずれも、私が前回までの記事で考えた、1500年ごろからの経済の回復を背景にした、各地域での覇権争いの中で育ってきた世代だということになります。

そして、上の地図に示されているような領土を獲得した、成功した人たちなのです。

上杉氏以外は、親の世代がまだ現役だったという事になります。

なおかつ、人生五十年と言われていた時代に有って、桶狭間の戦いの時点での彼らの年齢の40代以降というのは、現代と違って、人生の終わりを意識する年齢だったはずです。

事実、同世代の上杉謙信と、桶狭間の戦いで打ち取られた今川義元は別にして、それ以外は、その後の10年前後でいずれも病没しています。

信長の幸運

 一般に、ある程度成功して老年に達したものが、新たに事を起こすよりは、守りに入ることはよくある事です。

つまり、その領国の規模からいって、織田信長よりも、天下に近かったと見えるこれらの有力戦国大名は、実は、それほど天下を取る事に目が向いていず、領国に目が行っていたのではないかと思うのです。

そして、その事が、織田信長のその後の行動を、結果的にやり易くしていたのではないかというのが私の仮説です。

桶狭間以降、これらの大名の次世代が前面に出て来るまでの、約10年間が、幸運にも(偶然にも?)信長に与えられた形になった訳です。

それを生かした信長は、やはりすごいという事ではあるんですけどね。

例えば、今川氏は、桶狭間の後で、次世代の氏真が出て来るのですが、あっという間に武田と徳川に潰されてしまったことを見ても、信長の非凡さが光ります。


 それにしても、桶狭間の戦いから小田原征伐までが30年という事は、今ならば、平成の時代に全てが起こったという事で、恐るべき密度の濃さです。


ではでは

続・戦国時代は面白いが奇妙だ(後編)

続・戦国時代について考えてみた話(後編)です

 

 

前編から

 前編で、私の思い浮かべる戦国時代が、100年以上続いた戦国時代の、最終盤の30年程の間の出来事だったという話をしました。

 

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その事から、始まった頃には天候不順の影響を受けていた経済が、戦国時代の終盤に、回復して来ていたと考えれば、色々なことが、説明出来そうだと考えました。

シュペーラー極小期の推移

 そこで改めて、シュペーラー極小期間中の状況を調べてみました。

次の、炭素同位体の量から太陽の活動量を推定したグラフをご覧ください。

 

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引用元:シュペーラー極小期 - Wikipedia

 

チョット見辛いですが、1400年ごろから低下を始め、1500年前後の幅を持ったボトムを経て、1600年ごろのピークに向かって上昇をしているのが見て取れます。

つまり、1500年代の初め頃から1600年に向けて、気候が回復する過程に有った可能性は高いという事です。

この事を裏付るように、土一揆が1500年代には見られなくなっていきます。

やはり、戦国時代の終盤には、経済は回復して来ていたと考えていいでしょう。

戦国時代は三期から成る

 これまでの話を基に考えると、戦国時代は、初期、中期、後期の三期から成ると、考えることが出来そうです。

先ず、戦国時代初期の、天候不順による農業不振からくる経済システムの崩壊と、それに伴う統治システムの混乱の中で、荘園公領制などの旧来の秩序の破壊と共に、下剋上などの考えが台頭してしてきたと考えられます。

続いて、1500年頃から徐々に始まったと考えられる天候の回復により、農業そして経済システムが回復する中で、各地域での覇権の確立が行われたのが、中期という事になります。

その社会的状況を背景にしつつ、各地域の覇者が、全国的な統治システムの再構築を目指して争ったのが、戦国時代の後期という事になります。

戦国時代とは

 結局、戦国時代は、1400年代の終わりごろから1500年前後にかけて、天候不順による経済の崩壊により破壊された全国規模の統治システムを、1500年代の天候回復による経済の復調を背景に、再構築するものだったと言う事が出来そうです。

全国的な権力を握るための行動そのものは、それまでの歴史を見ても、特に不思議でもなんでも無いのですが、その背景となる社会状況が、日本の他の時代には類を見ない、秩序の無いもので有った点が、戦国時代の特異な点だったという事になります。

私は、その後期だけを見て、全国的な混乱に腑が落ちず、戦国時代に対して奇妙な感覚を抱いていたという事のようです。


 結局、後期は、各地域の覇者が全国の覇権を争う、いわばオールスターバトルロイヤルのようなものな訳で、面白くない訳が無いですよね。


ではでは

続・戦国時代は面白いが奇妙だ(前編)

続・戦国時代について考えてみた話(前編)です

 

 

気になる事

 前回までの前後編で、シュペーラー極小期が原因の天候不順による農業不振が、戦国時代の始まりに関係していたのでは無いかと考えました。

 

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後編の投稿後、一晩寝たら、有る事が気になり始めました。

というのも、記事にも書いたように、農業不振による経済的な破綻が要因と考えたわけなんですが、そうだとすると、気になる事が出て来たのです。

それは、我々が時代劇などで見知っている、戦国時代の武将たちは、経済的に困窮しているようには見えないという事です。

それどころか、長篠の戦いの時に、3千挺と言われる火縄銃を用意した織田信長を筆頭に、経済的な力を背景にした話も多かったりする訳です。

さすがに、無理があったかなと思いました。

どうしたものかと、色々と周辺を調べていて、二つの事に改めて気付きました。

戦国時代の出来事

 ひとつは、私が、戦国時代と言われて思い浮かぶ出来事のほとんどが、1560年の桶狭間の戦いの前後から後の出来事だったという事です。

まあ、秀吉は信長に取り立てられた訳ですし、家康も、歴史の表舞台に登場したのは、桶狭間の戦い岡崎城に入城してからと言っていいわけで、織田信長豊臣秀吉徳川家康の3英傑に関係する事柄は、ほとんどが桶狭間以降になる訳です。

加えて、すぐに思い浮かぶ川中島の戦いも、かの有名な謙信と信玄の一騎打ちが行われたとされる、第四次の合戦が、桶狭間の翌年1561年になります。

中国の覇者、毛利元就についても、合戦ではありませんが、有名な三本の矢の逸話(どうも史実ではないようですが)は、元就の死ぬ間際の話とされており、1967年の事になります。

大河ドラマにも良く出て来る、伊達政宗に至っては、「遅れてきた戦国大名」と言われるように、生まれたのが1567年ですでに桶狭間は終わっています。

戦国時代の経過年数

 もうひとつは、その年数の経過についてです。

上にも書いたように、桶狭間の戦いは、1560年でした。
それに対して、戦国時代が応仁の乱後に始まったとすると、1477年という事になります。
その間、83年です。

戦国時代がいつ終わったかについては、様々な説が有るようですが、一応豊臣秀吉が、それをもって天下を統一したとされる、小田原征伐の1590年とすると、桶狭間から30年という事になります。

つまり、始まりから桶狭間までが83年で、桶狭間から終わりまでが30年という事は、私が戦国時代と聞いて、思い浮かぶ出来事のほとんどは、戦国時代の最後の三分の一弱の時期に起こったという事になります。

であれば、始まりの時には天候不順の影響を受けていた経済が、戦国時代の終盤に、回復して来ていたと考えれば、辻褄が合いそうです。


 次回は、この辺りの検証と、私の感じる戦国時代の奇妙さの関係を、改めて考えてみたいと思います


ではでは

戦国時代は面白いが奇妙だ(後編)

戦国時代について考えてみた話(後編)です。

 

 

前編より

 前編で、武士階級が戦国時代のような戦乱に突入するインセンティブが、無いように思うと書きました。

 

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では何が原因だったのかという事になる訳ですが。

ここで、前回も引用した、ウィキペディアの戦国時代の説明を、再び引用します。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。
引用元:戦国時代 (日本) - Wikipedia

ここに出て来る、世情の不安定化というのは、応仁の乱に始まる、全国レベルの戦乱を指していると考えるのが普通です。

戦国時代とそれ以前の戦乱

 戦国時代は、一般に、11年に渡る応仁の乱(1467年~1478年)によって室町幕府の権威が実質的に失われたことに始まるとされてきました。

室町幕府末期の全国規模の混乱がきっかけと考えているわけです。

ところで、全国的な混乱という事で有れば、源平の合戦も、鎌倉幕府から室町幕府への移行も、いずれも全国の様々な勢力を巻き込んだものだったはずです。

しかし、これらの混乱を契機として、全国的な戦乱状態になったという事は無く、後継の政権が出来て収まるという形になっています。

という事で、全国規模の戦乱だけでは、戦国時代が始まる原因にはならないことになります。

他に何かないでしょうか。

天候不順の影響

この当時世界的な規模で見られた現象に、シュペーラー極小期というものが有ります。

シュペーラー極小期とは15世紀から16世紀にかけて(屋久杉に含まれる炭素同位体の研究から1416年~1534年頃とする研究もあるようです)、太陽活動が低下した時期のことを指します。
それに合わせて、世界的に気温の低下が有ったとされています。

それに対応するように、日本では、1428年の正長の土一揆を始めとして、土一揆が15世紀の終わりにかけて発生しているという事実が有ります。

その原因に関しては様々な事が言われていますが、基本的には経済的な困窮が原因で有ったことは間違いないでしょう。

その経済的な困窮が、シュペーラー極小期の天候不順による、農業生産の不振に起因するのではないかというのが、私の考えです。

経済システムの崩壊

 ただし、応仁の乱の始まったころには、それまでの蓄積も有り、京都に軍を集め、戦いを始めることが、まだ可能だったのだと思われます。

しかし、十一年も戦いが続いた結果、その間の天候不順による農業不振により、各勢力を支えていた経済的なシステムが成り立たなくなっていったのではないでしょうか。

応仁の乱の、勝敗の決しない、なんだかよく分からない終わり方の裏には、そういった理由が有ったのでないでしょうか。
もはや、大規模な戦いを起こすことは難しかったという事なのだと思うのです。

それ以前の全国的な戦乱とは異なり、応仁の乱以降の戦乱では、幕府の権威の失墜と共に、荘園公領制を基盤とする経済システムも成り立たなくなってしまった
つまり、天皇を中心とする統治システムが崩壊したと言ってもいい状況になったという事だと思います。

その結果、従前のように、全国規模の戦乱の後に、次の政権が樹立されること無く、全国規模で混沌とした状況が継続することになったのが、戦国時代だったのではないかというのが、私の仮説です。


 結局、経済システムが崩壊していた訳で、インセンティブ云々どころでは無く、生き残らんがための、全国的な個々の死に物狂いの行動の結果が、戦国時代という事だったのだと思います。


ではでは

戦国時代は面白いが奇妙だ(前編)

戦国時代について考えてみた話(前編)です

 

 

コロナ禍のおかげで

 現在、今年の大河ドラマ麒麟がくる」の撮影が、コロナの影響で出来ないという事で、歴代の戦国時代を扱った大河ドラマの名場面が毎週見られるという事になっています。


麒麟がくるまでお持ちください」と、上手い事言っていたりします。


コロナ禍のおかげでというのはチョット不謹慎かもしれませんが、なかなか面白いです。


どうしても戦国時代のハイライトの一つなので、何度も本能寺が出て来るのはしょうがないんですけども、さすがに信長が不憫に思えてきました。

それにしても戦国時代

 それにしても、この戦国時代というのは、その登場人物のキャラが立って、話として面白いという事も有るんですが、それ以外にも気になるところが有るんですよね。

一般的に、戦国時代の始まりに関しては、次のように説明されているかと思います。

”世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。”

引用元:戦国時代 (日本) - Wikipedia

 

こういった現象を,武士階級の発生と発展という流れの中で説明するのが普通かと思います。

勿論そういった側面があった事は否めませんが、それにしても、あれほど、全国で同時にと言ってもいいほど、戦乱が広がったのは、チョット腑に落ちないんですよね。

何が腑に落ちないかを説明するために、先ず、武士階級の発生と発展を、簡単に振り返ってみたいと思います。

武士階級の発生と発展

 その出自に関しては、地方の領主層が武装化したものとか、清和源氏桓武平氏のような貴族層、下級官人層に求めるものとか、様々な見解が存在しています。

いずれにしても、歴史的には、桓武天皇が、律令制に基づいて置かれていた「軍団」を廃止したことにより生じた、武力の空白を埋める形で、検非違使のような令外官として表れてきたのが最初の例と言っていいかと思います。

その後、次第に存在感を増していき、太政大臣まで登りつめた、平清盛でいったんピークを向かえることになります。

その後、「驕れる者久しからず」で、源氏に追い落とされてしまいます。

その源氏を中心に、鎌倉幕府室町幕府と武士の時代が続くことになります。

ざっと、こんな感じかと思いますが、以上の事に共通している点が一つある事が分かります。

それは、全て、天皇を中心とする統治システムの中で起こったことだという事です。

武士階級と統治システム

 清盛は、太政大臣という、そのものズバリの地位になった訳ですし、その後の源氏の政権も、「幕府」であり、そのトップは「征夷大将軍」という、朝廷から任命される官職です。

一応政権を樹立はしても、夷を征する大将軍がトップという事からも分かるように、その権力は、武力的な面が強いものとなっていました。

鎌倉幕府からは、幕府側が「守護」を国単位で任命するようになりましたが、その仕事は専ら軍事・警察的な職務に限られていたことにも表われています。

経済的な面は、荘園公領制を基本としたシステムが続いていたという事になります。

守護の制度は、次の室町幕府にも引き継がれ、年貢の半分の
徴収が出来る半済の権利や、荘園領主らとの間の年貢納付の請け負い契約である守護請などを経て、守護大名化していくことになります。

このように、軍事、経済的な力を背景に国を治めるようになった訳ですが、それはあくまでも天皇を中心とする統治システムの中でのことであって、それを危うくするような形で他国に攻め入るための、インセンティブが有るようには思えないんですよね。

それでも、どこかの守護大名が、そういったふうに考えることが有るかもしれないですが、全国的にそれが波及するというのは、どうしても腑に落ちまん。


 しかし現実には、そういった事が起こった訳です、そこには、何か原因があった筈です。
そのあたりを、次回考えてみたいと思います。


ではでは

お金の始まりについて

お金の始まりについて考えた話です。

 

 

お金は信用

 お金、いわゆる貨幣は、よく考えると不思議なものですよね。

例えば一万円札は、極論を言えば、一万円と書かれた紙きれな訳です。

その紙切れが、一万円として使えるのは、受け取ってもらえるからです。

なぜ受けとるのかというと、また次に使うときにも、その相手が受け取ると思っているからです。

貨幣が貨幣となるのは、他の人も受け取ってくれると予想するから、だれもが受け取る、という自己循環論法です。

以上は、以前にTVで見た話の受け売りですが、受け取ってもらえるという信用が貨幣を貨幣ならしめているというのは、なるほどなと思わせられます。

となると、問題は、その信用は何処から来ているのか、初めに、どうしてそんなものを信用したのかという事になります。

貨幣の始まり

 貨幣がどのように始まったのかについては、従来次のように考えられて来ました。

先ず、貨幣の無い時代には、いわゆる「物々交換」が行われていたと考えられます。

ただし、単純な「物々交換」では、いつもお互いに欲しいものを持っているとは限りません。
そこで、自分の持ち物を、米などの特定の物品に一度替えることに拠り、欲しいものが出て来た時に、それらを相手の持ち物と交換する「物品貨幣」というものが使われました。

この「物品貨幣」を、より保管、持ち運びに便利な、貝や金属にしたものが貨幣の始まりだというものです。

一瞬なるほどと思いますが、よく考えると、「物品貨幣」の替わりを、貝や金属とするときに、結局それが「物品貨幣」と交換されるという信用が必要になるので、そこのところは、何も解決していないことになります。

というような事を、時折思い出しては、考えていたんですが、面白そうな仮説を思いつきました。

権力と食料分配

 以前の記事で、農耕生活の始まりと共に、権力が発生したのではないかという話を書きました。

 

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その中で書いたように、貯蔵している食料の分配によって、生殺与奪を握ることが、権力の基だと考えた訳です。

権力の対象が村落程度の規模で有れば、誰に分配するのかは、考えるまでも無かったでしょう。

しかし、権力の及ぶ範囲が広くなるにつれ、構成員も増加することになり、分配する対象が自明ではなくなる時点が有ったはずです。


その時に、最も分かりやすいのは、全ての構成員に、身分を証明するものを持たせるという事でしょう。
それを持っているものに、食料を分配すればいい訳です。

更に、権力を含む社会構造が複雑になって来ると、各構成員に分配する食料に差が出て来ます。
江戸時代の、武士階級における石高のように、差が出て来るわけです。

これを、いちいち記録して、それと照らし合わせて、分配するという事では、ある時点で、その手間が現実的ではなくなると考えられます。

信じざるを得ない

 それに対する、現実的な解決法の一つが、一定量の食料と交換できる貨幣的なもの(あくまで形状的にという意味で)では無かったかと思うのです。

それを、分配する食料の量に合わせて、配布することにすれば、分配の実務は、貨幣的なものと交換に、一定量を配布すればいい訳で、現実的に対応可能なものとなります。

これは、見方を変えると、意図することなく、結果として「食料本位制の貨幣」を生み出したと言えなくもありません。

という訳で、私の仮説は、貨幣に対する信用は、自然発生的に生じたわけでは無く、権力によって、信用せざるを得ない状況に置かれることに拠り発生したのではないかというものになります。

何しろ、貨幣的なものを否定してしまったら、食料が手に入らなくなる訳ですから。


 もし、この仮説が正しいとするならば、お金にまつわる全ては、農耕を始めたために始まったという事になる訳ですが、どうなんですかね。


ではでは

藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(4)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(4)です

 

 

研究対象としての将棋AI

 将棋AIに関しては、トッププロと同等もしくはそれ以上のレベルに達したことに拠り、若手のプロ棋士を中心にして、対戦相手としてではなく、研究対象として取り入れられるようになって来たようです。

藤井七段も、御多分に漏れず、かなり積極的に取り入れていることが知られています。

それどころか、結構コンピューターそのものに関しても、造詣が深くて、過去に、興味のあるCPUに言及して、話題になった事も有りました。
いやあ、なんともはや、多才です。

勿論、将棋AIを取り入れたからといって、強くなるほど簡単なものでもない訳です。
それは、将棋AIを取り入れた若手が、全て躍進しているわけでもないことを見れば明らかです。

藤井七段に関してはどうでしょうか。
その活躍に、将棋AIは関係しているのでしょうか。

藤井七段との関係

 研究対象ということで、将棋AIが指すトップレベルの手筋を、研究していくという事になるかと思います。

藤井七段も、当然そのようにしているはずです。

しかし、彼の場合、それに加えて、もう一つの研究の方法が、それも、他のプロ棋士の多くとは違った方法が、あると思うのです。

それは、前回までの記事で考えてきた、彼の強さの秘密ともいうべき、従来の常識にとらわれない局面の判断から繰り出される、いわゆる神の一手を、前もって、試してみることが出来るという事です。

神の一手に対する、トップレベルの反応と、その後の手筋を事前に確認できるわけです。

その成果の一端が、棋聖戦の第2局で打たれた、「5四金」だったのではないでしょうか。

これに関しては、藤井七段も対局後のインタビューで、「5四金はやってみたい手だった」という趣旨の発言をしたようで、結構いい線行っているのではないかと思うのですが。

ラスボス

 ところで、将棋AIには、「AlphaZero」というラスボスがいます。

これは、将棋のルールだけを与えた上で、「AlphaZero」同士で対戦を繰り返すことで、「AlphaZero」自身に戦い方を導き出させるというもので、これまでの将棋AIとも藤井七段とも、全く異なったアプローチをとったものです。

一日以内の自己対戦だけで、と言っても数百万回?!の対戦だそうですが、その時点で最強と考えられていた将棋AIに勝ってしまうほどの強さになるようです。
今のところ、最強と言っていいでしょう。

しかも、「AlphaZero」は、チェス、囲碁に関しても、同じ方法で、向かうところ敵なしの状態で、将棋AIという範疇を越えてしまっています。

これを研究対象にしたら、従来の将棋AIとも、藤井七段とも違った、バックボ-ンを持つことが出来ることになります。
ひょっとしたら、勝てるようになるかもしれません。

まあ、その時には、藤井七段も使う事になるでしょうから、面白いことになりそうです。

ただし、市販されていないハードウェアを五千台使ったシステムのようなので、個人で使えるようになるのは、まだしばらくかかりそうです。

研究対象にする前に、ラスボス対藤井七段も、怖いもの見たさで、見てみたい気もします。


 ラスボスまで引っ張り出しましたが、やはりしばらくは、藤井時代になるのかもしれない、というのをとりあえずの最終結論としたいと思います。


ではでは


追伸:書き上げて、投稿しようとしたら、藤井棋聖爆誕していました。何ともはや。

 

 

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藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(3)

藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(3)です。

 

 

AIと将棋ソフト

 藤井七段に関しては、(1)の記事でも触れた、棋聖戦第2局の「3一銀」を、AIもすぐには良い手だと分からなかったことをもって、AIを越えたといった論調も見られるようです。

 

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ところで、AIという言葉が出て来ましたが、人間と同等以上の思考能力を持ったシステムが、たまたま将棋をやっているという事では全くなく、以前から将棋ソフトと呼んでいたものの高性能版を、最近のAIブームのせいか、いつの間にかAIと呼ぶようになっているという事のようです。

この記事では、将棋AIと呼ぶことにします。

将棋AI

 将棋AIは、基本的に、人間が将棋の指し手を考える過程を、プログラムにする形で作られて来たようです。

そのため、その初期の頃には、将棋の強い人が作った将棋AIが強いといった事が普通でした。

そのプログラムの内容ですが、ポイントとなる点は色々とある訳ですが、最も肝となるのは、その時々の局面を評価する基準のようです。
ある局面で、先手後手のどちらが有利か評価出来れば、その先の手筋に関しても同様に評価して、良い手かどうか判断が出来ることになる訳です。

その評価基準を、定跡や詰将棋のデータや、過去の棋譜も参考にして作り出し、各局面での指し手の優劣を決定していくというのが、プログラムの大まかな流れになるようです。
勿論、その中に、個々の作者のアプローチの違いが特色となって表れてくる訳ですが。

つまり、将棋AIにも、人間が将棋を指す上で、常識ともなっている、駒の軽重、損得、役割といった考え方が反映されている訳です。

機械学習の導入

 そうは言っても、膨大な量の過去の棋譜は、人力で扱いきれる訳では無く、将棋AIそのものに調べさせよう(機械学習)という流れになりました。

私的には、この辺りから若干AIらしくなってきたのかなと思っているのですが。

ともあれ、機械学習により一気に性能が向上し、プロと互角か、場合によっては凌駕するところまで進化することになりました。

駒の軽重、損得、役割といった考え方を共通基盤として持った上で、コンピューター特有の、疲れを知らない力業で学習をする訳ですから、プロと同等かそれ以上になるというのもむべなるかなという気はしますが。

AIを越えた?

 以上の事と、前回の記事で考えた、藤井七段の強さの秘密かもしれないものを考え合わせると、将棋AIが「3一銀」を読み切れなかったのもしようがないという事になりそうです。

 

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上に書いたように、現在のトップレベルの将棋AIは、多くのプロ棋士やアマチュアの強豪の常識をベースに、コンピュータ特有の圧倒的経験値を組み合わせたものと言ってもいいものである訳です。

そうである限り、駒の軽重、損得、役割と言った考え方に捕らわれずに考え出されたと思われる、藤井七段の差し手を、普通には導き出すことは出来なかったという事ではないでしょうか。

「3一銀」を見て驚いた、プロ棋士と同じだという事です。

そういう意味では、AIを越えたと言ってもいいのかもしれません。

というよりも、将棋AIとは局面の評価基準がそもそも違う、といった方が良いのかもしれません。藤井七段は、同じ盤面で、違うものを見ているのかもしれません。

棋聖戦第二局後に渡辺棋聖がブログに書いた、「いつ不利になったのか分からないまま、気が付いたら敗勢、という将棋でした。」という言葉に、その一端が現れているように思うのですが。


 多少、将棋AIを単純化しすぎたかもしれませんが、一応AI越えに関しても、結論めいたところまで来ました。
次回は、もう少し将棋AIとの関係について考えてみたいと思います。


ではでは

 

藤井七段の強さの秘密について考えてみた(2)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(2)です。

 

 

前回の記事から

 前回の記事で、藤井七段の凄さとして、幼少期のエピソードと、神の一手について書きました。

 

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今回の記事は、その内容を基に、藤井七段の強さの秘密について考えてみようという訳ですが、神の一手が、幼少期のエピソードに影響を受けているのではないかというのが、基本的なアイデアとなります。

前回も書いたように、藤井七段の見せる、いわゆる神の一手には、二種類あるというのが、私の見立てです。

1.打たれた時に、その意味がすぐには分からないもの。
2.打たれた瞬間に、その内容に驚くもの。

の二種類となります。

それぞれに、幼少期のエピソードとの関係から考えてみたいと思います。

一種類目の神の一手

先ず一種類目の神の一手についてですが、その意味がすぐには分からないという事は、普通に考えて、明らかに、藤井七段の手筋の読みの能力が、居並ぶプロ棋士のそれを凌駕しているという事を示していると言っていいでしょう。

これに関しては、読み書きより先に定跡を理解し、詰将棋の能力が小学六年の時点で日本一で有る事から、十分に納得できる能力だと言えるでしょう。

だた、その読みのレベルが、常識はずれだというのが、やはり天才の天才たる所以と言うべきなのかもしれません。

二種類目の神の一手

 次に二つ目ですが、前回の話でも少し触れましたが、この2つ目に含まれる指し方の特徴は、読みの能力の優劣ではなく、これまでの常識では、特にプロ棋士等のいわゆる将棋の強い人の、読み筋に挙がり難いもののようだという事です。

こちらに関しても、実は、幼少期のエピソードにあげた事柄が、大きな影響を与えているのではないかと言うのが、私の仮説です。

先ず、詰将棋では、相手の「玉」を、王手の連続で、詰んでいきます。
そのため、当たり前ですが、自陣が攻められるという事を想定しなくてもいいという事になります。
従って、駒の軽重や役割、損得、役割と言った、将棋を指す時に重要と考えられている見方は必要なく、むしろ重要なのは、各駒の動き方、動かし方という点に絞られる事になります。

もう一つの、5歳で、500ページ近い厚さの定跡本を1年で理解、記憶してしまった件についても、同じような事が言えるように思われます。

前の記事でも触れたように、その時点では、まだ読み書きが出来なかったようです。
ということは、本に、駒の軽重、損得、役割といった事が説明してあっても、それを読むことなく(読めなく)、純粋に駒の動きのみで、理解、記憶したと考えられます。

以上のような状況で、将棋に習熟した藤井七段は、普通に訓練してきたプロ棋士が、ほとんど本能のように身に着けている、駒の軽重、損得、役割という常識に、当然現在では知っている訳ですが、それほど捕らわれていないという可能性が高いのではないでしょうか。

ならば、藤井七段の快進撃は続く

 二つ目に分類される指し手は、明らかに、駒の軽重、損得、役割と言った常識的な考え方からは、離れた打ち方のように思えます。

そのため、普通のプロは、このような打ち方を、上記のような本能とも言える知識のせいで、無意識のうちに読み筋から外してしまうために、藤井七段の打ち手を見た時に、驚くことになるという事なのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、藤井七段の快進撃が、この後も続く可能性は高い、という事が言えるかもしれません。

それは、上記のような事が、理屈で分かって、研究したとしても、これまで長年に渡って訓練してきた、駒の軽重、損得、役割といった、体に染みついたと言ってもいい常識に基づいた反応を、一朝一夕に修正するのは困難だと思われるからです。
特に、本番の重圧の中では、なおさらでしょう。

という訳で、彼の強さは、文字通り、「常識外れ」の強さという事になります。


 一応結論のようなものが出たわけですが、次回は、色々と言われることのある、AIとの関係を考えてみたいと思います。


ではでは

藤井七段の強さの秘密について考えてみた(1)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(1)です。

 

 

それにしても藤井七段は強い

 いやあ、強いですね、このままだと藤井七段と呼ぶのも今の内で、藤井2冠と呼ぶことになりそうな勢いです。

驚くべきは、まだ17歳なんですよね。
大体、七段なんていうのは、普通の感覚で、いい年の大人がなるもので、17歳でなるものでは無いですよね。

とは言っても、一応、駒の動かし方だけは知っているといったレベルの、ほぼほぼ素人の私には、棋譜の内容が分かる訳でもないので、横目で見ているといった状況でした。

それでも、さすがにこの人気なので、TVやネットで、ニュースや解説などの様々な情報が流れて来るのを、見聞きすることになります。
そうこうしているうちに、これが強さの秘密の一端ではないかというものを思いつきました。

今回は、先ず話の流れとして、藤井七段の凄いところについて、取り上げたいと思います。

幼少期のエピソード

 勝負事や芸事の世界で、とびぬけた人物が出て来た場合に、往々にして、幼少期から凄いという事が多いわけですが、藤井七段も御多分に漏れず、エピソードには事欠きません。

先ず、5歳で将棋教室に入会した際に渡された、500ページ近い厚さの定跡本を1年で理解、記憶してしまったというものが有ります。
まだ読み書きが出来ないので、符号を頼りに読んだようです。
読み書きより先に、定跡を覚えてしまった訳です。

詰将棋でも恐るべき才能を発揮しました。
プロ棋士も参加する詰将棋解答選手権に、8歳から参加し、小学六年にして優勝してしまいました。
なお、その後昨年まで、5連覇をしています。
詰将棋に関しては、小学六年にして、プロ棋士を凌駕していたことになります。

その強さは、出場したプロ棋士をして、「信じられない。次元が違う。」と言わしめる程のようです。

神の一手には2種類ある

 その彼が、プロになってから、プロ棋士も驚くような指し手を見せるようになり、「神の一手」とか「藤井マジック」とか呼ばれるようになります。

それも、神の一手にしては、多過ぎるんじゃないかというような頻度で出て来るのが、凄いところな訳ですが、数が揃った事で、神の一手にも違いがある事が、なんとなく分かってきました。

彼の、いわゆる神の一手に対する、プロ棋士の反応が、2種類あるように思うんですよね。

一つ目は、その手が打たれた瞬間には、その意味がよく分からずに、後々、手が進んだ時に、ああそうだったのかとなるものです。

例としては、里見女流名人との対局が挙げられます。

この時には、途中で藤井七段が打った手の意味が、その瞬間には、解説者にもよく分からず、局面が進んだ時点で、その20手後の為の布石だったという事が分かり、驚くといった状況だったようです。

二つ目は、打たれた瞬間に、その内容に驚くものです。

その駒を、ここで使うのか、といったものになります。

具体的には、最近の対局で言うと、棋聖戦の第2局で打たれた、「5四金」と「3一銀」のような手です。

一応、あまり良く分からないなりに、受け売りで説明しますと。
「5四金」に関しては、守備で使うべき「金」で攻め上がるのが、普通あり得ないという事のようです。
また、「3一銀」については、逆に攻めで使う「銀」を、守りに使ってしまうのは、普通は筋が悪いと考える、という事のようです。

加えて、具体例は挙げませんが、「金、銀、飛車、角」の比較的重要な駒で、突き捨て、見殺しとも思えるような指し方をする事も、少なからず見られるようです。

この辺りの手が、プロ棋士からすると、普通考えない駒の使い方という事で、見た瞬間に驚いてしまうようです。


 このような様々な凄さを、天才の一言で片付けてしまうと、それで終わってしまうので、次回で、秘密の一端について、考えてみたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(6)

 仏教について考えてみた話(6)です。

 

 

仏教について考えたこと

 前回まで、5回に渡って、仏教について考えてきました。

先ず、その中核とも言える「悟り」と物理的な現象であるブラックホールの類似性をヒントに、「悟り」に至る方法論である、各宗派における各種修行を手掛かりにして考えてみました。

 

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その結果、一見して全く異なっているように見える、各宗派の修行も、結局は、お釈迦様が最初に説かれた、四諦八正道に基づいて、実践をするものであることが分かりました。

 

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更に、お釈迦様も含めて、「悟り」を開いた人々の話から、修行に加えて、何らかのきっかけが、「悟り」に至るのに必要なことも示されました。

 

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修行の有り様と、きっかけの必要性から、完全に思考の無くなる瞬間が生じることが、「悟り」に至るのに重要な役割を果たしているのではないかと考えました。

 

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結論のようなもの

 以上、お釈迦様が説かれた教えとしての仏教の、中核部分の全体的な立て付けのようなものに関しては、ある程度はっきりとしたように思います。

しかし、残念ながら、その中心にあるはずの「悟り」に関しては、やはりよく分からないままです。

まあ、2500年程かけて、あまたの人々が思索を重ねて来ても、「不立文字」のままな訳で、そんなに簡単に分かるものでもないのは、重々承知の上なんですけどね。
理系人間の、悪あがきです。

これ以上は、実践あるのみという事になるのですが、正定正念の実践として、千日回峰は論外として、坐禅あたりをするのは考えてもいいかなとは思うんですけど、正思惟、正語、正業、正命、正精進を考えれば、「悟り」は難しいでしょうね。

もう一つ気付いたこと

 色々と調べて、考えているうちに、もう一つ気付いたことが有ります。

それは、お釈迦様の説かれた教えに関しては、何かを信じたからと言って、何か(幸せとか長寿のような)が約束される訳では無いという事です。

四諦と八正道を完全に理解して、信じたとしても、実践しなければ何も始まらない訳です。

仏教は、元々、無条件に何かを信じるか信じないかというものでは無かったという事です。

これは宗教としては、なかなか面白い特徴ではないでしょうか。


 仏教に関しては、まだまだ面白そうな事が色々とあるのですが、またなにか纏まったら書きたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(5)

 仏教について考えてみた話(5)です。

 

 

お釈迦様の悟り

 前回の記事で、「悟り」にいたるのに、修行だけではなく、何らかの形のきっかけが必要なのではないかと言う話をしました。

 

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前回の記事を上げてから気付いたんですけど、これ、お釈迦様も同じじゃないかなと。

出家をしたお釈迦様は、その後6年にわたって苦行を行ったのですが、苦行で体を痛めつけても、真理にいたることは無いと思い至りました。

それで、苦行を中止して、休息しているときに、村娘から乳がゆをもらい、体力を回復する(その娘の名前をスジャータと言い、あのコーヒーフレッシュは、ここから商品名を取ったそうです)といった事などが有ったりした後、最終的には、ブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、「悟り」に至ります。

その「悟り」に至ったのは、明け方の明けの明星が輝き始めたころだとされています。
話によっては、明けの明星が瞬くのを見て、としているものも有ります。

きっかけが必要だが

 つまり、お釈迦様の場合も、瞑想を行っている中で、明けの明星が瞬くのに気付くというきっかけが、「悟り」へと至るのに必要だったという事では無いでしょうか。

とはいえ、そのきっかけだけでは「悟り」に達することが出来ないのもまた確かです。

例えば、前回出て来た阿難陀のように、寝床に横になろうとするだけでいいのならば、そこらじゅうで「悟り」に達する人が続出しそうですよね。

その他の人の「悟り」に至る状況を見ても明らかなように、やはりそこには、修行という、前段階が必要である様に思われます。
修行による正定、正念の状態が必要で、その状態にある時に何らかのきっかけが起こることが、重要な条件のように思われる訳です。

結局何が起こったのか

 そうだとして、その瞬間何が起こっているのでしょうか。

その境地に達していない身には、正確には分かり様がないわけですが、可能性として一つ考えらえるのは、無思考と言う状態になったのではないかという事です。

正定の集中の中で、正念の気づきを行っている時、正定と正念の目指すものからして、思考は極限まで少なくなっていると考えられます。

そこに、何らかのきっかけが生じ、そちらに意識が移る瞬間に、極限まで少なくなっていた思考が、全く無くなる一瞬が生じたのではないでしょうか。
その事が「悟り」を認識させることになるのではないか。

そのため、普通に頭が働いているときに、同じようなきっかけが有っても、思考の途切れる瞬間は生じ無いため、「悟り」に至ることは出来ないというように考える事も出来そうです。

思考の全く無い瞬間に関することは、考えそのものが無い訳ですから、思考の他者への表現形式とも言える言語では表現出来ない、すなわち「不立文字」と言う事では無いでしょうか。


 一応結論めいたところまで来ましたので、次回で一度まとめてみたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(4)

 仏教について考えてみた話(4)です。

 

 

阿難陀

 お釈迦様の弟子の中で、特に優れた10人の人たちが 釈迦の十大弟子 と呼ばれています。

その中の一人に、阿難陀(あーなんだ)という人がいます。
お釈迦様がお亡くなりになるまでの25年間、侍者を務め、身の回りのお世話もしていたそうです。
その事も有ってか、お釈迦様の説教を最も多く聞き、しかも記憶力も良かったため、「多聞第一」と呼ばれていたようです。

経文の最初によく出て来る、「如是我聞」という言葉が有りますが、「かくのごとく、我聞けり」という意味で、この我というのが、多くの場合、阿難陀だそうです。
経文を作る時に、阿難陀の記憶を基に多くのものが作られたために、このようになっているようです

ただ、それほどまでにしても、お釈迦様が亡くなった時点で、阿難陀は「悟り」を開くまでには至っていませんでした。

阿難陀の悟りから判ること

 そんな中、お釈迦様の教えを纏めようという事(第1回の経典結集)になった時に、「多聞第一」の彼が必要ではあるが、「悟り」を開いていない者の参加はどうか、という事になったらしいです。
そこで、阿難陀は、何とか結集までに「悟り」に至るべく、より一層修行に打ち込みます。
しかし、なかなか「悟り」には至らず、なんと結集の前日も修行を続けたのです。
しかし、結局疲れ切って、その日は断念し、眠るために寝台に横になろうとした瞬間に、「悟り」を開いたとされています。

 阿難陀の話から、二つの事が見て取れます。
先ず、お釈迦様の教え、今で言えばお経という事になりますが、をいくら勉強して暗記までしても、それだけでは「悟り」には至れないという事がひとつ。

次に、修行を行うだけでは、「悟り」に至らないというのが、二つ目の点となります。
阿難陀も、その日の修行をやめて、寝ようとした瞬間に悟った訳ですからね。

様々な悟り方

 こういった、「悟り」を開いた時の状況に関しては、その他にもいくつか伝えられています。

例えば、アニメの「一休さん」でおなじみの、一休宗純は、琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「悟り」を開いたそうです。

その他にも、掃除をしていて、箒ではじいた小石の立てた音でとか、夜に谷川の水の音を聞いてとか、梅の香りを嗅いだ途端にとか、色々な状況が伝えられています。

中には、あまりにも「悟り」を開けなくて、絶望のあまり首を括って死のうとした瞬間に悟ったなんていう、壮絶なものまであります。

これら全てに共通するのは、修行そのものでは「悟り」に達していないという事です。

横になろうとしてとか、カラスの鳴くのを聞いてとか、明らかに修行そのものとは違う事をきっかけとして、「悟り」に達しているように思えます。


 次回は、悟りに至るきっかけと修行の関係について考えてみたいと思います。


ではでは

 

いまさらながら、仏教について(3)

 仏教について考えてみた話(3)です。

 

 

初転法輪

 お釈迦様が、「悟り」を開かれてから、初めてその教義について説かれたわけですが、その事を初転法輪(しょてんぽうりん)と呼んでいます。

その初転法輪の中で、説かれたとされているのが、四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

ここに、お釈迦様の教え、すなわち仏教の中核的な考えがあると考えられているようです。

以下、この二つを、私のとりあえずの理解で説明すると次のようになります。

四諦

苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つからなります。

先ず、苦諦(くたい)ですが、この世は全て苦であるという事です。
全てという事は、生きていること自体も苦という事で、それを示す中で、あの四苦八苦の考えが出て来ることになります。

次の、集諦(じったい)は、その苦の原因を示したものとなります。

滅諦(めったい)は、苦の原因を滅することで「悟る」ことに拠り、その結果至る境地を示したもの。
一瞬アレッと思うのですが、「悟り」そのものについては、具体的には示していないようです。

最後の道諦(どうたい)で、滅諦に至る道を示します。
その内容が八正道である、という立て付けになっています。

八正道

 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つをいいます。

先ず、正見(しょうけん)ですが、文字通り正しく見るですが、見る対象は前述の四諦の事で、ここで言う見るは、知るという意味に近いようです。
しかし、四諦の一つの滅諦に至る道が八正道だったはずです。
実は、他の七つの正道によって、正見に至るという関係になっているようで、正見に至ることが「悟る」ことだというように、私は解釈しています。

次の五つについては、大体以下のような意味になります。

正思惟(しょうしい):欲、憎しみ、怒りを避け、正しく考え判断する。
正語(しょうご):嘘、陰口、無駄話、粗暴な言葉を避け、正しい言葉遣いをする。
正業(しょうごう):殺生、盗み、性行為を避け、正しい行いをする。
正命(しょうみょう):道徳に反する職業や仕事は避け、正しい生活をする。
正精進(しょうしょうじん):不善を断じ、善を行い、正しい努力をする。

これらは、お釈迦様が「悟り」に至る修行をする前提として必要と考えた、生き方を示していると言っていいでしょう。

そうは言っても、一般人が日常生活で、これを行うのは、出来ないとは言いませんが、非常に困難でしょう。

それに対する、長年にわたる模索の結果が、現在の寺院を中心とする、出家のシステムではないでしょうか。
寺院と言う閉ざされた生活空間で、戒律を守ることに拠り、上記の五つの正道が行われるようなシステムが作られてきたという事だと思います。

残り二つは、次のようになります。

正念(しょうねん):正しく気づくこと。
正定(しょうじょう):正しく集中すること。

どうやら、これが「悟り」に至る実践という事のようです。

正念、正定と修行

 この二つと、前回の記事で考えた、修行の共通点との関係はどうでしょうか。

 

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先ず、正定の正しく集中するというのは、そのものズバリといってもいいでしょう。
何れの修行も、いかに集中するかに腐心しているように見えます。

問題は正念です。
正しく気づくとはどういう事でしょうか。
私の解釈では、どうやら、自然に湧き上がってくる考え(これを煩悩と言うようです)に気づくといった意味のようです。
であるならば、修行の中で、集中しようとする訳ですが、その中でも湧き上がってくる考えがあるはずで、それに気づくという事でしょうか。
この辺りは、私の中で、今のところ曖昧模糊としています。

若干、理解の至らないところはありますが、修行は、この二つの正道を実践するために作り上げられてきた方法論と言えるようです。

で、その先に「悟り」があり、正見に至り、四諦を正しく見るという流れになる訳です。


 が、色々調べてみると、どうも、正念、正定、すなわち単に修行を実践するだけでは「悟り」に至らないようなのです。
そのあたりを次回書きたいと思います。


ではでは