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三職推任問題

三職推任問題について考えてみた話です。

 

 

三職推任問題

 先ずは、三職推任問題について、簡単に説明を。

本能寺の変の起こる前月に、信長の家臣・村井貞勝武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで、
信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという話し合いが行われました。

この時、その事をどちらから持ち出したもなのかというのが、三職推任問題になります。

村井貞勝すなわち信長側からなのか、勧修寺晴豊即ち朝廷側からなのかによって、信長と朝廷の関係性を考える手掛かりになるという訳です。

いずれにせよ、翌5月になって、朝廷側は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けました。
それに対して、信長は正親町天皇誠仁親王に対して返答したようですが、返答の内容が実行されることは無く、その内容も不明となっています。

その理由は、そのすぐ後に本能寺の変が起こったためです。

知りませんでした

 と、もっともらしく書いていますが、実は、今回信長に関して記事を書くために、色々と調べる中で、初めて知ったというのが本当のところです。

まあ、私の元々の信長関係の知識は、そのほとんどが、大河を始めとする時代劇から得られたものをベースにしているので、しょうがないかなと。

なにしろ、もし三職推任をドラマの中で取り上げようとしても、その結論の部分が分からないので、経過部分をいかに盛り上げても、尻すぼみどころか、中途半端な終わり方しかできないので、いかにも取り上げにくいものになりますしね。

加えて、学術的には興味を引いても、信長のドラマとしてみると、特に必要のない話だったりもする訳です。

とは言っても、確かにどちらか言い出したのか、さらには、信長がどのような返答をしたのかは、興味を引く問題で有る事には違いないので、チョット考えてみたいと思います。

どちらが言い出したのか

先ずどちらが言い出したかという事から考えてみます。

この時、織田信長は、4年前に右大臣・右近衛大将を辞し、散位の状態でした。

これは、事実上覇権を握った人物が、天皇を頂点とする権力構造の外にいることを意味する訳です。

朝廷側から見ると、明らかに異常な、憂慮すべき状態という事になります。

という訳で、三職推任を持ち出したのは、朝廷側だったのではないでしょうか。
何とか権力構造の中に、再度取り込んで、安堵したかったのだと思います。

そのための、三職何でもありの大盤振る舞いだったのではないでしょうか。

信長の返答

 信長はどう返答したのでしょうか。

そもそも、右大臣・右近衛大将を辞しても、正二位の位階は返上しておらず(ただし、これに関しては、返上出来るものなのかどうかは、調べても判然としませんでしたが、少なくとも信長が、いらないと言ったというような事は無いようです。)、権力構造そのものは否定していないように思われます。

家督を継いだ信忠に、官職も譲りたいと願った、という話もあるようです。

案外現実的に、より上の官職を望んだというのが真相かもしれません。

もしそうであれば、返事は、自分の任官と、信忠への正二位・右大臣・右近衛大将以上の官職を、同時に求めるものだったのではないでしょうか。

自分自身に関しては、平氏を名乗っている以上、平清盛と同じ太政大臣を望んだと思います。

これに関しては、ほぼ同じ時期に、時の太政大臣が辞職をするとか、信長の死後、太政大臣が追贈されているといった、傍証と言える事実も有るので、全く荒唐無稽という訳でもないと思います。


 それにしても、「散位」なんて言葉、初めて知りました、日本語も奥が深いです。


ではでは