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信長と平氏

信長が、本姓を平氏と称した事について考えてみた話です。

 

 

平氏と称した時期

 織田信長は、本姓として平氏を称していますが、この事を、信長が元々全国制覇を考えていなかったという立場から考えるとどうなるでしょうか。

先ずその時期から見てみたいと思います。

信長が、本姓を平氏と称していたことについては、それほど多くの記録があるわけではないようです。

良く知られているものに、1573年9月、兎庵という人物の『美濃路紀行』という旅行記の中で、信長を指して、平清盛の孫平資盛の子孫で云々との記述があるというものがあります。
どうやら、この頃までには、本性平氏という話が、一般の人々にも認識されていたようです

1573年といえば、信長が義昭を追放した年になります。
それ以前に、本姓を平氏と称した事を示す記録が、ほとんど無い事と合わせて考えると、本姓平氏という考えは、義昭追放と相前後して流布され始めたもののように思われます。

義昭追放

 次に、どうしてほかならぬ、平氏だったかという事について考えるのですが、先ず流布され始めた義昭追放時の状況について考えてみたいと思います。

そもそも、「天下布武」を掲げて、義昭と共に上洛をした時には、武力による全国制覇などは考えておらず、あくまでも、権力を伴ったNo.2狙いだったと考えているわけです

 

yokositu.hatenablog.com

 

しかし、全国制覇はともかく、布武というからには、ある程度武力が必要だと考えていたと思われます。

もっとも、義昭が敵に回るとは考えていなかったでしょうが。

案の定、義昭を伴って上洛した後に、その征夷大将軍足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促したが、かなりの数の従わない勢力がいました。

それに対して、従わせるために、信長が軍を進めるのですが、朝倉義景を攻めた際に、金ヶ崎で死にかけたりするなど、苦しい状況が続くことになります。

その上、それら反対勢力に呼応する形で、義昭が信長の排除を計ったために、義昭を見限る事になりました。

義昭追放後

 義昭を排除するとして、その後の事について、信長はどのように考えたたでしょうか。

まず考えられるのは、足利一族の中の誰かを担いで、新たな将軍に据えるというものです。

しかしこれについては、義昭のように自分の言いなりにならないという可能性を考えなければなりません。
もしそうなれば、何をやっているのか分からなくなってしまいます。

さらに、そのような人物を見つけて、新たに足利将軍として担ぎ出しても、義昭の時に従わなかった反対勢力の状況が、改善するとは考えられません。

ならば、いっそ、自分が取って変わっても同じだと考えたのではないでしょうか。

そんな中で、出て来たのが、平氏を名のるという考えだったと思うのです。

なぜ平氏なのか

 信長は、もともと藤原氏を名乗っていたようですが、足利氏に代わって、武家の棟梁となるには、いささか収まりの悪い名前となります。
公家の代表とも言える家柄ですからね。

また、いずれかの源氏の子孫を名乗るのは、源氏の名門中の名門足利氏を排除して、新たにトップに立つのには、説得力不足という事になりそうです。
源頼朝の直系というのは、さすがに無理があるでしょうからね。

そこで捻り出されたのが、平氏という事だったのではないでしょうか。
源氏を倒して、平氏が天下を取るというのは、当時の一般の人にも、筋として分かり易いものだったと考えられます。

結局のところ、義昭の追放と、それに取って代わる形での織田政権という、不測の事態に対応するために考え出されたのが、本姓平氏だったのではないでしょうか。


と一応書いては見たのですが、現代のバリバリの庶民の出としては、本姓については今一つピンとこないというのが、正直なところなんですけどね。


ではでは