本能寺の変が起こった時、信長と信忠が京都に滞在していた理由について考えてみた話です。
二人共京都にいた
本能寺の変の時に、当事者である信長はもちろんの事、嫡男の信忠までも討たれてしまったのが、織田政権にとっては致命的でした。
勿論そうなってしまった大きな理由の一つは、信長と信忠の二人共に京都にいたからです。
1582年5月17日に秀吉からの援軍要請を受け、徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀を解任して、先陣として、援軍に向かうように命じます。
その後、21日に家康が京・大坂・奈良・堺を見物するために出立します。
信忠は、同21日に安土を立ち、京都の妙覚寺に入り、そのまま6月2日の本能寺の変を迎える事になります。
家康へのもてなしも終わり、信長も、光秀の後を追って援軍に向かうかと思いきや、29日になって京の本能寺に入ることになります。
ところが、この二人が京都に行った理由がそもそもよく分かりません。
なぜ京都に行ったのか
信長は、4年前から官職には就いていないので、出陣について、誰かに報告するといった必要も無いはずです。
神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いに、淡路に行くつもりだったという話もあるようですが、そのために京都に行く理由が見当たりません。
陣中見舞いの品を買うためで無かった事は、確かでしょう。
信忠に関しても、信長と同道して淡路に陣中見舞いに行くつもりだった、中国へ信長と共に出陣するため等の理由が考えられています。
これらも、京都に行く理由になっていません。
結局、そもそも京都に逗留しなければならない理由に関しては、よく分からないのです。
唯一確かなのは、信長主宰で、名物披露の茶会が開かれたという事だけです。
そのため、信長は、この茶会を開くために京都にやって来た、というのが有力な理由として考えられています。
ただこれに関しても、信忠はこの茶会には出席していないという事実が有ります。
任官を待っていた
前回の記事で、三職推任に対して、信長は、太政大臣と信忠のそれなりの地位への任官を同時に望んだと考えました。
同記事の中でも触れたように、朝廷側もそれに関してむしろ望んでいた可能性が高いと考えられます。
そうであったとすると、信長と信忠が、京都にいたことの説明もつくことになります。
つまり、二人の京滞在は、二人同時の任官を待っていたという事では無いでしょうか。
任官を行うという話が有ったが、細かい日取りまでは決まっていなかったので、京都に出て待っていたのです。
名物披露の茶会も、披露したくてしょうがない信長が、その待ちの時間を利用して行ったのだと考えられます。
茶会の夜
その茶会は、本能寺の変の前日6月1日でした。
その夜に、妙覚寺に逗留していた信忠が、村井貞勝をつれて本能寺を訪れ、父と酒を飲み交わしました。
茶会にも出席した、武家伝奏・勧修寺晴豊が、茶会に向かう前に、三職推任についての交渉相手である村井貞勝に任官の日取りが決まった事を伝え、加えて、その後の茶会のおりに、信長にも伝える旨話していったと考えれば、茶会の後に二人が訪れたことも、納得出来ます。
これは、任官の日取りが決まったので、その前祝いを行ったということではないでしょうか。
まさにその同じ日に、光秀が軍を率いて亀山城を出陣したというのは、歴史のいたずらという事でしょうか。
ではでは