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本当に信長は幸運だったのか(前編)

本当に、有力大名たちが、天下を狙っていなかったのか検討してみた話(前編)です。

 

 

信長の幸運

 前回の記事で、桶狭間の戦いの時点で、その領国の規模からいって、織田信長よりも、天下に近かったと見える有力戦国大名は、実は、それほど天下を取る事に目が向いていず、その幸運が、後の信長の躍進の一因ではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

有力大名のほとんどが信長の親の世代であることから、ほぼ年齢のみを根拠にして、そういった事を考えたわけですが、実際の事跡でそのあたりを考えてみたいと思います。

今川義元

 今川義元は、桶狭間で首を取られてしまったので、天下を狙っていてもいなくても、どちらでもいいと言えばいいんですが。

信長が事実上尾張を統一したのは、1559年です。
その翌年1560年が桶狭間の戦いとなります。

桶狭間の戦い時の進軍自体が、信長による尾張の統一の翌年に行われたという事は、この戦いが、尾張の覇者となった信長との間の、領国境での勢力争いという性格のものだった事を示しているのではないでしょうか。

攻め取るつもりなら、領内が混乱している時の方が攻めやすいですよね。

そもそも、義元は、桶狭間の戦いの12年前に、信長の父信秀に三河の地で大勝しています(その時、後に家康となる竹千代が、今川の人質になります)。

天下を狙っているならば、その時に尾張を手中にしようとしても良いわけですが、三河を安堵することで終わってしまっていることを見ても、そこまでは考えていなかったように思えます。

桶狭間の時も、父親の時と同じように、一度思い知らせてやろうぐらいに思っていただけだったのではないでしょうか。
輿に乗ってゆっくりと見せつけるように進軍しているのも、その表れのように思えます。

武田信玄

 武田信玄は、上杉謙信との川中島での戦いが原因で、天下取りに乗り出すのが遅くなってしまったように言われます。

もし天下取りの野心が有ったのならば、謙信をうまくあしらって、西に侵攻すればよかっただけのような気がします。

事実、ようやく1573年になってから信長と相対峙したわけですが、その時にはまだ謙信は健在でした。

この事をもってしても、信玄が、積極的に天下を伺っていたとは考えられないと思うのですが。

この時の進軍は、信玄が、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけを口実に、信長の力を削いでおこうと思ったのではないかと考えます。

その背景には、比叡山焼き討ちを行った信長に、将来的に何をするか分からないという、恐怖感を抱いたことが有るのではないでしょうか。
これに関しては、信長を、「天魔ノ変化」というあまり聞かない言葉で非難しています。

更に、確たる記録は無いようですが、信玄が、先の長くないことを悟っていたとも考えられます。
自分が死ぬまでに、信長の牙を抜いておきたいと思ったのではないでしょうか。

それが、信長を目前にして倒れた時に残した遺言の「自身の死を3年の間は秘匿し」、「越後の上杉謙信を頼る事」という言葉になったのだと思います。

天下よりも、甲斐の国の行く末が心配だったのです。


 引き続き後編で、残りの武将について考えてみたいと思います。


ではでは