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本当に信長は幸運だったのか(後編)

本当に、有力大名たちが、天下を狙っていなかったのか検討してみた話(後編)です。

 

 

前編より

 前編で、毛利元就武田信玄について、その事跡から、天下に対する考えを検討してみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

後編の今回は、毛利元就北条氏康上杉謙信について見てみたいと思います。

毛利元就

 毛利元就については、そのものズバリの「天下を競望せず」という、彼の言葉が残っているようです。

明らかに天下を狙う気はなっかたと思われる訳ですが、事跡の面でも少し見てみたいと思います。

毛利元就は、中国地方を争って、もう一方の雄尼子晴久との争いを長く続けていました。

その晴久は、1561年に亡くなり、1568年には跡を継いだ尼子義久を降伏させます。

これにより、中国八ヶ国を有する大大名となります。

そういった情勢の中で、足利義昭から、上洛援助の要請が有りましたが、元就は要請に応じませんでした。

その要請に応じたのが信長であった訳で、その後の展開を見れば、元就にもチャンスが有った事になります。

元就には、そこまで踏み込む気は無かった訳です。

北条氏康

 後北条氏に関しては、豊臣秀吉による小田原征伐の相手ぐらいにしか覚えていなくて、今回色々と知ることになったというのが正直なところです。
そもそも、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するために、後北条氏と呼ぶなんて言うのも、初めて知りました。

それにしても、北条氏康はなかなかの武将じゃないですか。

ざっと調べただけですが、大きな戦で武田信玄上杉謙信今川義元に負けていないようですし、領国経営にも手腕を発揮しているようです。
難攻不落の小田原城を作り上げてもいますしね。

それにしては印象が薄いんですよね。
桶狭間の戦い以降の、中央での出来事の中に、ほぼほぼ名前が出て来ません

北条氏康というか、北条早雲以来の後北条氏にとって、天下は関東だったのではないかとも思える程に、関東での覇権争い、領地経営に終始したこと辺りが、原因でしょうか。

天下を云々というよりも、関東大事だったのです。

上杉謙信

上杉謙信は、戦国時代でも屈指の戦上手で、最強と謳われながら、天下に対する野心は強くなかったようです。

「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記

という言葉が残っているようです。

天下に対する野心が強くないことを端的に表すのが、1559年(桶狭間の前年です)の上洛でしょう。
その時は、天皇、将軍に拝謁するために上洛した訳ですが、謙信は、5000人の兵を連れて行ったのです。

道中の国がよく通したなというのも有るんですが、それよりも、これは、うまくやれば、京都の中枢を占拠することも可能だったように思われます。

その後は、天皇の権威を背景に、天下を狙えたはずです。
しかし、現実には、関東管領並(関東管領ですらない)の待遇をもらっただけです。

そもそも、旗印の「毘」の基の毘沙門天は、武神であるとともに、仏の北方を守る神ですからね、自らが中央に立つという考えは無かったように思われます。


 前後編で、同時代の有力大名と天下の距離感を見てきて、やはり信長は幸運だったという感を強くしました。
それ以上に、実質的には統治能力の無い室町幕府の将軍が、意外とそこかしこに顔を出し、情勢に影響を与えていることが、チョット意外でした。
この時期の室町幕府の立ち位置については、もう少し考えてみるべきなのかもしれません。


ではでは