横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

前方後円墳再考

前方後円墳について改めて考えてみた話です。

 

 

全ては古墳時代の話

 前回までの記事で、九州にあった邪馬台国とそれを共立した国々が、畿内に東遷した勢力と球種に残った勢力の2つに分かれたと考えました。

畿内に東遷した勢力は、その後大和政権になったと考えられます。

そして、これらの2つの勢力の併存状態は、白村江の戦いの頃まで続いていた可能性が高いことも見てきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

その白村江の戦いが行われたのは、663年で7世紀の後半という事になります。

邪馬台国卑弥呼が亡くなったのは248年ごろと考えられるので、2つの勢力が併存したのは3世紀後半ごろから7世紀後半までという事になります。

これは、そのまま時代区分でいうところの古墳時代に相当します。

古墳時代と言えば前方後円墳だが

 古墳時代と言えば、もちろん前方後円墳を代表とする古墳が盛んに造られた時代という事ですが、一方で大和政権が日本を統一していった時代とも考えられています。

そして、前方後円墳に関しては、大和政権が統一してゆく中で、各地の勢力に許可、または各地の勢力が恭順を示すために取り入れた形式であると考えられています。

しかし、上で書いたように、この古墳時代を通じて九州の勢力と併存しており、その状況下で全国に前方後円墳が造られてことになります。

九州の勢力下でも、前方後円墳は造られていたのです。

前方後円墳はオマージュ

 前方後円墳については、以前に記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

本ブログでは、邪馬台国が現在の宇佐市付近にあり、宇佐八幡宮卑弥呼の墓だと考えています。

元々の小高い地形の標高30m付近から上部を利用して円形の墓を造ったのです。

それが、『魏志倭人伝』にあるように径100歩だったわけです。

そして、日々卑弥呼の墓を見上げていた邪馬台国の人々の脳裏には、円墳とその前方の一段低い部分の情景が有ったのです。

その情景のオマージュとして創り出した形状が、前方後円墳だったと考えています。

九州で始まったかも

 まだ記事を書いた時点では、邪馬台国がほぼそっくり東遷して、畿内の大和政権になったと考えているので、箸墓古墳あたりがその最古の例ではないかとしています。

しかし、九州にも同じ頃の造営と考えられる古墳も存在しているようです。

つまり、前方後円墳は、九州で造り始められたと考えることが出来そうです。

なので、大和政権の勢力範囲ではない九州においても、前方後円墳が造られていても、矛盾はないことになります。

大和政権による統一とは関係がなさそうです。
そもそも、統一もしていなかったようですし。


 しかしそうなると、なぜあれほど全国的に広がったのかという事になるんですよね。


ではでは

邪馬台国から白村江の戦いまで概要・後編

現状私の考える、邪馬台国から白村江の戦いまでの大まかな流れの話・後編です。

 

 

分かれた後

 前回は、九州の邪馬台国が、畿内と九州に2つの勢力に分かれるまでを考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

今回は、その後の白村江の戦いまでの流れを考えてみます。

九州に残った勢力は

 九州に残った勢力は、当然大陸からの侵攻に備えたはずです。

しかし、結局侵攻されることはありませんでした。

そういった状況の中、九州に残っていた亡命者から、奪われた地の奪還の機運が高まります。

それによって行われた朝鮮半島への侵攻が、高句麗の「広開土王碑」に記録されている倭による侵攻と考えます。

朝鮮半島南部から侵攻し、百済新羅を勢力下におきますが、最終的に高句麗に敗退することになります。

その後に、朝鮮半島南部の権益を守る方向に政策を変更し、そのために行なったのが、「宋」に対する「倭の五王」による朝貢です。

「讃・珍・済・興・武」の五王は、大和政権の歴代天皇ではなく、九州の勢力にそういった名前の王がいたという事になります。

畿内の大和王朝は

 九州勢力の動きが以上のようだとすると、この間には、大陸の記録には大和政権の動きは出ていないという事になります。

前回の記事にも書いたように、東遷した邪馬台国ですが、その規模は少数にとどまったと思われます。

そのため、かなりの期間を国として力をつけるために費やさざるを得なかったと考えられるのです。

それが終わり、百済との繋がりも出来、九州勢力と対抗できるようになったのが、継体天皇の頃だったのではないでしょうか。

そのことが垣間見えるのが、『日本書紀』にある継体天皇の治世の「磐井の乱」です。

これは「乱」となっていますが、実際には、九州の勢力との勢力争いだったのでしょう。

遣隋使、遣唐使、そして白村江の戦い

 『日本書紀』によれば、「磐井の乱」は継体天皇に鎮圧されたことになっていますが、実際には九州勢力は存続します(よく考えると、「鎮圧」であって、決して滅ぼしたとはなっていませんね)。

九州勢力は、「倭の五王」からの政策を引き継いだのか、「隋」「唐」にも朝貢を行います。

大和政権からの圧力に抗するために、中国王朝の力を背景とすることを狙ったのかもしれません。

これが、「遣隋使」と2回目までの「遣唐使」という事になります。

この後、大和政権とつながりのあった百済が、唐-新羅の連合軍によって滅ぼされます。

唐-新羅に九州勢力が加わった連合軍による侵攻を恐れた、大和政権が先制攻撃を仕掛け、九州勢力を滅ぼします。

その後、朝鮮半島まで侵攻しますが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまいました。

したがって、大和朝廷が行ったのは、第3回目以降の「遣唐使」という事になります。

日本書紀』では、九州の勢力については完全に存在しなかったことにされているわけです。


 私的には、結構いい線いっているんじゃないかと思っているのですが。


ではでは

邪馬台国から白村江の戦いまで概要・前編

現状私の考える、邪馬台国から白村江の戦いまでの大まかな流れの話・前編です。

 

 

白村江の戦いまでは

 ここしばらく、遣隋使から遣唐使白村江の戦いまでの歴史について考えてきました。

その中心ともいえる仮説は、その間の日本には、畿内の大和政権だけではなく、九州にも一定の勢力が存在していたというものです。

この時点では、大和政権による全国的な覇権は確立されていなかったのです。

では、その九州の一定の勢力とは何だったのでしょう。

それについても含めて私が現状考える、白村江の戦いに至るまでの日本古代史の大まかな流れを考えてみます。

始まりは邪馬台国

 私の考えでは、白村江の戦いまでの日本古代史の流れの始まりは、邪馬台国にあります。

このブログで色々書いているように、邪馬台国は北九州の宇佐にあったと考えています。

その根拠に関しては、過去の記事を見ていただくとして、今回のポイントはそこにはありません。

ポイントは、邪馬台国が、畿内ではなく九州にあったという点です。

それがすべての始まりとなります。

邪馬台国はどうなったのか

 邪馬台国朝貢した中国の魏王朝は倒れ、そのあとを西晋が継ぎました。

ちなみに、その西晋に仕える陳寿という人物が、邪馬台国の出てくる『魏志倭人伝』を書きました。

さらに西晋も倒れ、その後中国は五胡十六国という混乱の時代に突入します。

その混乱を避けて、朝鮮半島から九州の邪馬台国に亡命してきた人々がいたはずです。

彼らによってもたらされた情報により、混乱が海を越えてやってくることを危惧した邪馬台国の首脳部は、東に移ることにします。

邪馬台国畿内に移ったのが、のちの大和政権という事です。

全てが東遷したわけでは無い

 さて邪馬台国は東遷したわけですが、このブログを始めたころは、九州に後詰を残して、ごっそりと東に移ったと考えていました。

ところがよく考えると、そうではないんじゃないかと思うようになりました。

そもそも邪馬台国については、『魏志倭人伝』には、倭国で長く騒乱が続いたので、卑弥呼を女王として共立した、とあります。

邪馬台国が覇を唱えたわけでは無く、いたって政治的な妥協の産物ともいえるものだったわけです。

そういった状況の中で、邪馬台国が東に移ろうと言い出しても、全ての国がはい分かりましたと付いていくとは考えにくいのです。

さらに、朝鮮半島からの亡命者も、全てが東に行くべきだと思っていたわけでは無かったでしょう。

意外と東に向かったのは、邪馬台国関係の人たちだけで、少数だったのではないでしょうか。

そしてこの時九州に残った人たちが、白村江の戦いに至るまで、九州に一定の勢力として存在したのです。


次回は、東西に分かれた以降についてです。


ではでは

白村江の戦いへの道疑問考

白村江の戦いに至るまでの道に関する疑問について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、白村江の戦いに至るまでの背景について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本国-百済倭国新羅という関係で保たれていた均衡が、百済の滅亡により崩れてしまい、その勢いで新羅、唐、倭国の連合軍により攻め込まれることを恐れた日本国が、倭国に先制攻撃を掛けたと考えらえる、という話でした。

守るという選択肢も

 それにしても、百済が滅亡して、その復興の援軍を頼まれたということがあったにしろ、いきなり全面対決ともいえる形での倭国への侵攻には、どうしてそこまでしたのかという疑問点もないわけではありません。

百済が滅亡したと分かった時点で、守りに徹するという選択肢もあったはずです。

百済の復興は、日本に滞在していた王子に亡命政権を作らせるなどして、捲土重来を期させるという手もあるわけで。

援軍にしても、日本海経由で送るという事も出来ないわけでは無かったはずです。


何が急がせたのか

 そもそも、唐、新羅倭国の連合軍に攻められる危険といっても、九州から畿内まで攻めてくるのは、それほど簡単ではないように思われます。

にもかかわらず、日本国は守りに入ること無く、天皇以下の政権中枢部自ら倭国に攻め入りました。

という事は、日本国はこの時点で畿内まで攻めて来られる可能性が高いと思っていたことになります。

連合軍の戦力を非常に高いとみていたのかもしれません。

もしくは、九州までの西側の防御に不安があったという可能性も考えられます。

日本書紀』によれば、百済の要請があってから船を作って、博多に赴いたという事で、途中の勢力を糾合していったというような記述も、ありません。


影響力は低かった

 これは、その当時の日本国すなわち大和政権が、『日本書紀』の内容から考えられているような全国に君臨する中央集権的なものではなかった事を示しているのではないでしょうか。

もっと緩い、各地の勢力の集合体のようなものであったのかもしれません。

そもそも、九州には倭国があるわけですし、それと日本国とどちらに付くかを、その他の国々は様子見していた可能性もありそうです。

日本国が守りに徹して、唐、新羅倭国の連合軍が攻めてきたら、雪崩的にそちらに付いてしまう恐れがあったのかもしれません。

そのための倭国への先制攻撃だったのではないでしょうか。


この時点での大和政権の権力基盤は、普通考えられているよりも脆弱なものだったのかもしれません。


ではでは

 

白村江の戦いへの道背景考

白村江の戦いに至るまでの背景について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、白村江の戦いに至るまでの経過について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

白村江の戦いが、『日本書紀』にあるような単なる友好国百済の再興のための戦いだけではなく、その前段階としての九州の勢力との全面戦争があったと考えられる、という結論でした。

今回は、百済の援軍要請から始まったと思われる話が、なぜ九州の勢力との全面対決となったのか考えてみたいと思います。

以降、畿内や九州の勢力とかややこしいので、『旧唐書』の表記に従って、畿内の勢力すなわち大和政権を「日本国」、九州の勢力を「倭国」と呼ぶことにします。

当時の朝鮮半島、日本

 先ず当時の朝鮮半島の状況を見てみたいと思います。

 

引用元:百済 - Wikipedia

このころの朝鮮半島は、高句麗新羅百済の3国が鼎立する時代でした。

その中の百済は、日本国と王子が滞在するほどの有効関係にありました。

その百済と国境線が接している新羅は、どうだったでしょう。

旧唐書』「倭国伝」によると、631年に倭国はとうに使者を送ります、それに対して唐からも使者が倭国に送られたのですが、その使者が倭国の王子と諍いを起こし、返書を伝達することなく唐に帰ってしまうという事が起きます。

唐と倭国の間の外交関係が、ギクシャクしたものになってしまったわけです。

その後648年になって、倭国は、直接使者を送るのではなく、新羅に上奏文をことずけて来ます。

つまり、倭国新羅は、ギクシャクとした唐との間の執り成しを依頼できるような関係だったのです。

この当時の朝鮮半島南部と日本は、倭国新羅、日本国-百済という二つの関係の間で均衡が保たれていたという事になります。

百済が滅亡して

 そういった状況の中、百済が唐と新羅に攻め滅ぼされてしまいます。

保たれていた均衡が崩れてしまいました。

日本国にとっては、まずいことになりました。

最悪の場合、唐、新羅倭国の連合軍に攻め込まれる可能性が出て来たのですから。

その結果として取った対応策が、倭国への先制攻撃だったわけです。

そして、倭国を滅ぼしただけでは、その後に唐、新羅の援助で倭国が復興するかもしれない(日本国も百済を復興させようとしていますからね)という恐れから、そのまま朝鮮半島に進軍したのでしょう。

結果は、再び防波堤にともくろんでいた百済の復興どころか、大敗北を喫することになってしまったわけです。


朝鮮半島まで行かなくてもと思ってしまうのは、その後の歴史を知っているからでしょうか。


ではでは

 

白村江の戦いへの道考

白村江の戦いに至るまでについて考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、遣唐使について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 唐の歴史書旧唐書』には、「倭国」と「日本国」という個別の項目が建てられており、当時の日本に2つの勢力があったことが分かります。

倭国」は631年から648年までに2回、「日本国」は703年から839年までで7回、それぞれ使者を立てたことが記されています。

したがって、『日本書紀』の648年までの遣唐使に関する記述は、「倭国」からの使者の話を「日本国」からの使者の話にすり替えるための、作り話の可能性が高そうだという話でした。

さらに、「倭国」は九州の勢力、「日本国」は畿内の大和政権と考えると、648年から703年の間にこれら2勢力の間に何かがあって、その結果大和政権が残ったと考えられそうです。

それが「白村江の戦い」に関連して起こったことではないか、というのが今回の話です。

白村江の戦い

 「白村江の戦い」は、大和政権が唐・新羅に滅ぼされた百済の再興を助けるために出兵し、朝鮮半島の白村江で大敗してしまったというものです。

その経過を『日本書紀』の記述で見てみます。

660年  百済滅亡の報がもたらされる
     日本に居る百済王子の招請及び援軍要請と受諾
661年  斉明天皇崩御 皇太子(後の天智天皇)称制
663年  白村江の戦い

このあたりに関しては、以前から違和感がありました。

なにしろ、途中で天皇が亡くなって、皇太子の称制状態であるにもかかわらず出兵して、負けてしまっているわけです。

王子が滞在しているような関係であったとはいえ、滅亡後の復興を頼まれて、ここまでやるものでしょうか。

斉明天皇は九州で亡くなった

 さて、斉明天皇は亡くなってしまったのですが、そのあたりをもう少し詳しく見てみたいと思います。

661年3月 斉明天皇 磐瀬行宮(博多)に着く
661年5月 斉明天皇 朝倉橘広庭宮(朝倉市)に移る
661年6月 伊勢王亡くなる
661年7月 斉明天皇崩御
661年8月 皇太子喪を行い、磐瀬行宮に返る
661年10月 天王の遺体難波に帰る

斉明天皇は、九州で亡くなったのです。

伊勢王(どのような人物か詳しくは分からないようですが、王ですからそれなりの立場の人物と考えられます)や皇太子もいたようですので、ほぼ政権中枢部が九州まで来ていたことになります。

単に援軍派遣をするためであれば、そこまで必要とは思えないのですが。

九州には別勢力が

 ところで、これまでの記事で見てきたように、この時九州には大和政権とは別の勢力がいたはずです。

とすると、上の記述も単に百済への援軍派遣のために九州にやって来たというだけではない、違ったものに見ることが出来そうです。

大和政権が、九州の勢力に戦いを仕掛けたと考えるとどうでしょうか。

大和軍は博多から上陸したのです。

天皇以下中枢部が来ているわけですから、生きるか死ぬかの全面対決と言っていいでしょう。

その司令部として造られたのが磐瀬行宮です。

その後戦線は内陸へ進み、5月には博多から南東に約30キロの朝倉橘広庭宮(朝倉市)に司令部がありました。

そんな中、伊勢王が戦死します。

次いで、斉明天皇も倒れてしまったのです。

その後、称制した皇太子の元、九州の勢力(倭国)を駆逐し、朝鮮半島まで進軍しますが、白村江で一敗地に塗れることになって(海戦でしたが)しまったのです。


 次回は、今回の話の背景をもう少し考えてみたいと思います。


ではでは

遣唐使考

遣唐使について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、小野妹子について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

遣隋使が大和政権に派遣されたのではなく、九州に拠点を置く王により派遣されたという前提から、『日本書紀』に書かれた「大唐」への派遣は作り話であり、その使者とされる小野妹子も架空の人物ではないかという話でした。

小野妹子以降も

 その「大唐」への派遣ですが、有名な小野妹子以降にも、犬上御田鍬らを派遣したと『日本書紀』にあります。

しかし、『隋書』側にはこの使者に関する記述は全く在りません。

どうやら、この派遣に関しても作り話という話になりますからら、犬上御田鍬についても、実在が疑わしいということになります。

ところが『日本書紀』によると、犬上御田鍬という人物は、この後に第一回遣唐使の大使として派遣されているのです。

実在でないと思われる人物が派遣されたことになるわけです。

遣隋使と同様に、遣唐使も見直す必要がありそうです。

旧唐書』には2つの国が

 遣唐使を見直すということですが、これまで見てきたように『日本書紀』の記述は問題が多いので、やはり中国側の記録を見てみることにします。

その唐の歴史書旧唐書』を見ると、確かに使者は派遣されて来たという記録はあるのですが、それよりも根本的な情報があります。

旧唐書』には、「倭国伝」と「日本国伝」の2つが存在するのです。

これは、ここまで遣隋使に関連して考えて来た、九州と畿内の二つの政権の併存状態という見方と一致するではないですか。

使節に関する記述

 「倭国伝」と「日本国伝」の2つから、派遣されてきた使節に関する年をまとめると次のようになります。

倭国
 631年、648年
日本国
 703年、713年、753年、760年、804年、806年、839年

日本国の記述の中には、阿倍仲麻呂吉備真備空海などの明らかに大和政権に関係する人々が出てくるので、日本国が畿内の大和政権になります。

ということで、倭国が九州にあった政権ということになります。

上の年号をみると、最初の2回は、倭国すなわち九州の政権から使者が派遣されていることが分かります。

やはり『日本書紀』の犬上御田鍬による第一回目の派遣を含めた703年以前の記述は、倭国からの使者の話を日本国からの使者の話にすり替えるための、作り話の可能性が高そうです。

派遣の年号を見ると

 上で見たように、倭国すなわち九州の政権が648年まで派遣を行い、その後の703年からは日本国すなわち畿内の大和政権が派遣を行っていることになります。

どうやら、この55年間の間に九州の政権と大和政権の併存状態が終わりを告げたと言えそうです。

さてこの間に何があったのでしょうか。

年表を眺めると、すぐに目につくものがあります。

それは、663年の「白村江の戦い」です。


というわけで、次回は「白村江の戦い」についての予定です。


ではでは

小野妹子考

小野妹子について考えた話です

 

 

日本書紀の遣隋使は

 前回までの話は、中国の歴史書『隋書』の記述によると遣隋使は、一般に考えられているように時の大和朝廷が派遣したものではなく、九州の地の王が派遣したと考えた方が納得できる、というものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

つまり、『日本書紀』の推古天皇の御代に遣隋使を送ったという話は、全くの作り話だったということになります。

この時に派遣されたとされているのが、あの男性なのに名前に子が付き、加えて字こそ違うが「イモ」の子という、子供が一度聞いたら忘れない小野妹子になります。(おそらく、卑弥呼聖徳太子と共に、「三大日本古代史で名前の知られている人物」でないでしょか。)

もっとも『日本書紀』には、遣隋使すなわち隋に使者を送ったとは書いて無く、「大唐」に派遣したとなっています。

実際に大和政権とは関係の無い隋への派遣を無視したいことが、見え見えです。

裴世清が来たので

 ところが、『隋書』に裴世清を勅使として派遣したとあるので、話は簡単に済まなくなったのでしょう。

勅使となれば、正式な返書があるはずです。

ところが、裴世清が実際にやって来たのは、九州だったわけで、大和政権に返書があるはずもないのです。

そこでひねり出されたのが、これまた有名な、返書を百済で奪われてしまいましたという話なのでしょう。

本当にこんなことがあれば国家間の大問題ですが、その後百済に対して何らかの対応が採られたということもなさそうです。

そもそも、『隋書』にはそのような話は全く出て来ません。

とにかく、正式な返書が大和政権側に無いことの言い訳としか考えられません。

小野妹子

 さて、『日本書紀』における隋(大唐)への派遣に関する話全てが作り話とだとすると、その話の中で派遣されたことになっている小野妹子についてはどう考えたらいいでしょう。

私は、小野妹子もこのために作り出された人物ではないかと思っています。

そうではなく、当時実際に存在した人物だったとしたらどうでしょう。

小野妹子は後に「大徳」という冠位に就いたとされています。

あの「冠位十二階」の最高位です。

実在であるならば、子孫も含めた一族がいたはずです。

親書を奪われるという失態を犯すような作り話の当事者とすることは、いろいろと問題が生じたはずです。

わざわざ、作り話にそんな人物を持ってくる必然性は無いように思います。

やはり、小野妹子はいなかったのです。


被災された方々にお見舞い申し上げます。
一日も早い復興を心よりお祈り致します。


ではでは

遣隋使再考(納得編)

遣隋使について考え直した話(納得編)です。

 

 

前回とその前の話

 前回は、遣隋使に関する中国側の記録である『隋書』「東夷傳俀國傳」(以下「俀國傳」)の「俀國」という名前について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

一般的に「俀國」は「倭国」の書き間違いと考えられていますが、書かれた内容から考えてその可能性は低く、同様に遣隋使がそう名乗ったというのも考えにくいものでした。

『隋書』を書いた人物による意図的な使用だというのが、結論でした。

邪馬台国の位置を情報操作した陳寿と同じように、「倭国」を「俀國」(弱い国)とすることで、「隋」を徳の無い国として描くためだったと考えられるという話でした。

そのさらに前の回から、タイトルにあるように「遣隋使」について考えているのですが、前回は少し横道にそれた話になりました。

遣隋使は九州から来た

 前々回から考えている「遣隋使」についての話の最大のポイントは、普通考えるように大和政権によって畿内から派遣されたと考えるのではなく、九州にあった大和政権とは別の政治勢力から派遣されたというものになります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そう考えると、これまで違和感のあった「俀國傳」のいくつかの内容が、納得出来るものになるのです。

今回は、そのあたりを見ていきたいと思います。

王は男性

 先ず、というかこれが最も物議を醸すものなのですが、遣隋使を送って来た人物についてです。

「俀國傳」に遣隋使から聞き取ったと思しき内容が書かれているのですが、それによると遣隋使を送ってきた俀王は男で妻もあるということになっているのです。

その当時の大和政権は、女性の推古天皇の時代であり、聖徳太子が摂政ということになっています。

昔学校の授業では、その聖徳太子が中国と対等な関係を結ぶべく、例の「日出ずる所の云々」の国書を持たせたといった感じで、習ったような気がします。

その後唐からの使者裴世清からも、帰国してから推古天皇についての報告は無かったようで、女性がトップに立っているという話は最後まで出て来ません。

聖徳太子が王なのか

 俀王は男だということなので、遣隋使の使者は、聖徳太子を王として話をしたということになります。

このため、過去から色々と説が考えられることになります。

例えば、女性がトップだということを隠すためだったとか。

天皇は祭祀のトップであり、政ごとのトップは王と呼ばれ別にいて、聖徳太子が王だったのだとか。

何とか俀王=聖徳太子にしようということなのですが、遣隋使を派遣した俀王が九州の勢力の王であるならば、何も考える必要は無いではないですか。

遣隋使は、ありのままを伝えただけということになります。

阿蘇山

 これは、私的に非常に気になっていた内容なのですが、使者からの「俀國」の人や自然の情景の話の中に、阿蘇山の話が出てくるのです。

大和政権から派遣されたのであれば、なぜことさら阿蘇山の話をしなければならないのかわかりません。

このころに大噴火をして大陸にまで影響があったということもなさそうですし。

普通に考えて、富士山とかの方がよさそうな気がします。

これも、九州を中心とする勢力からの使者であれば、九州における阿蘇山の存在を考えれば納得がいきます。

やはり遣隋使は九州からやってきたと言わざるを得ないような気がします。


 今朝、新聞のTV欄を見ていて見つけました。
11時のBS11アニサマ2023」から始まって、テレビ東京系「年忘れにっぽんの歌」、Eテレ「クラシック名演名舞台2023」、TBS系「CDTVライブライブ年越しSP」と渡り歩くと、今年の音楽シーンのかなりの部分と昔の名曲を堪能出来るじゃないですか。
今、「年忘れ日本の歌」を観ながら書いています。
「紅白」は、観なくてもいいか。


 年明けは、暴飲暴食で倒れていない限り、1月7日からの予定です。
それでは皆様、良いお年を。

遣隋使再考(俀國編)

遣隋使について考え直した話(俀國編)です。

 

 

前回の話

 前回の話は、遣隋使について改めて考えてみたものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

遣隋使に関する中国側の記録である、『隋書』「東夷傳俀國傳」の内容から、遣隋使がどこから派遣されたのかを考えました。

中国側の使者である裴世清の旅程から、畿内まで行ったとは考え難く、九州に目的地の都があったと考えらえることから、遣隋使を派遣したのは九州の勢力だったのではないという結論でした。

今回は、その結論を基に、『隋書』「東夷傳俀國傳」に見られる「俀國」という名称について考えてみます。

「俀國」について

 「俀國」という名称については、一般的には「倭国」の間違いという説が有力ですがどうなんでしょうか。

「俀國傳」が口述筆記とかで、口述者の校正も何らかの理由で出来なかったとか言うのならまだしも、そんなに簡単に間違えるものでしょうか。

そもそも「俀國傳」には、裴世清の報告から採られた部分だけでなく、『隋書』以前の歴史書から採られたと思われる「倭国」に関する記述が纏められた形で載せられています。

纏める時に、それらの歴史書で散々「倭国」の文字を見ているはずなのです。

その上で書いた「俀國傳」で「倭国」を「俀國」と間違えるとは考え難いと思うのですが。

「俀國」と称していた?

 遣隋使が「俀國」と称していたというのはどうでしょう。

九州の勢力が送ったのだとすれば、畿内の大和王朝との違いを主張するために「俀國」と称していたのが記録されたと考えるわけです。

しかしそうだとすると、隋以前の歴史書からの記述も全て「俀國」になっている点が分かりません。

もし隋側が「俀國」という名称を受け入れたとすると、以前の歴史書からの名称は「倭国」として、現状「俀國」となった理由を書く形になりそうなものです。

そういった話は出て来ません。

これも違うようです。

「俀」の意味から考えると

 ところで、「俀國」の「俀」の意味を調べてみると、「よわい」といった意味のようです。

あまりいい印象の文字ではないですね。

ということは、この時に隋に朝貢に来た国が、大した国ではないというふうに思わせたかったと言えるかもしれません。

そう思わせたかったのは、『隋書』の作者です。

これは本ブログで主張している、『魏志倭人伝』とその作者陳寿の関係と同じです。

滅んだ先の王朝である「隋」がいかに徳の無い王朝であったかを示し、それに対する現在の「唐王朝」の徳を称える形式ということです。

そのため遣隋使を送った国は、よわい「俀國」とされたというわけです。


 どこまでも正史の製作意図は、現王朝のためのものだということです。


ではでは

遣隋使再考

遣隋使について考え直した話です。

 

 

遣隋使とはなんだったのか

 遣隋使については、以前の記事で一度考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

仏教の効力に疑問を抱いた聖徳太子が、仏教政策を採っていた「隋」から学びたいと送ったのが遣隋使だったのではないかと考えました。

今回改めて遣隋使について調べてみて、異なった解釈を思いつきました。

『隋書』の記述

 今回は、遣隋使を受け入れた「隋」の側から見てみたいと思います。

「隋」の正史『隋書』には遣隋使に関係する記述がありますが、これが結構問題を孕んだ内容となっているのです。

遣隋使が607年にやってきます。

この時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。

これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。

その報告に、旅程が含まれているのですが。

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」
引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。

竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。

その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、移住して来た人や商人などの中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。

畿内というには無理が

 その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。

日本書紀』の記述に合わせるためには、瀬戸内海沿いの十余国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。

それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。

九州での旅程より、この十余国の旅程の方が長いにも関わらずです。

それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。

ここは素直に、竹斯国から海までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。

そして竹斯国から東の海までの十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。

遣隋使を送ったのは

 結局、使者は九州から出てはいないのです。

その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。

都は九州にあったと考えざるを得ません。

つまり「遣隋使」を送ったのは大和王朝ではなかったということになります。


 『日本書紀』の記述はでっち上げということになるのですが。


ではでは

芸術としての写楽

芸術としての写楽について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事では、写楽の謎について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その独特なインパクトの強い大首絵で有名な写楽ですが、10か月という短い活動期間と、その間に4期に分類されるほどの作風の変化という点から、謎の絵師としても有名です。

浮世絵の絵師と版元の関係と、現代の漫画家と編集者の関係の類似性から、写楽は現代の新人漫画家のような存在だったのではないかと考えました。

蔦谷重三郎という編集者(版元)に見いだされて、大首絵でデビューしたのですが、人気が出なかった。

その後様々なテコ入れ行われ、それがが2期から4期までの作風の変化となったのです。

それでも人気は上がらず、残念ながら10か月で打ち切られてしまったというのが、写楽の謎の正体だという話でした。

早かったのか

 その芽が出なかった写楽ですが、現代では高い評価をされています。

2009年には、パリのオークションで写楽の作品に5360万円の値段が付きました。

江戸時代に10か月で消えていった程評価されなかった写楽が、現代にこれほど評価されているのはどうしてなのでしょう。

生まれてくるのが早すぎ、今になって時代が追い付いてきたということなのでしょうか。

浮世絵のブーム

 評価という点では、その他の浮世絵も同じようなことが言えます。

明治時代になっても、浮世絵はポスターのような扱いであり、道端の露店などで「よりどり1銭」で売られていたようです。

最近の古本屋の店頭にある「100円均一」のワゴンセールのようなものでしょうか。

ところが19世紀初めごろから西洋に大量に輸出され、ヨーロッパでブームが起きたことが転機になり、価格が高騰し始めます。

ヨーロッパで、浮世絵が高額で取引されていたので、国内でも高騰したのです。

写楽もこの流れに乗ったといってもいいでしょう。

写楽が早かったわけではなさそうです。

芸術ではあるが

 ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが『SHARAKU』(明治43年(1910年))の中で高く評価したことから、日本国内でも写楽の再評価が行われるようになったようです。

これは結局のところ、以前の記事で描いた、「説明の必要な芸術」と言えるかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

また、浮世絵は版画ですから、現代でも素人目には違いが分からないような再現複製が作られています。

その値段は、数万円程度となっています。

パリのオークションでの5360万円という結果と合わせて考えると、写楽も「市場経済的芸術」であるということが出来るかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 


 大谷さんは1014億円ですか。彼も、そのすごさは芸術的ということで、「市場経済的」な何かなのでしょうね。


ではでは

 

写楽の謎考

写楽の謎について考えた話です。

 

 

写楽の謎

 写楽と聞くと、どうしてもその正体は誰なのかという話になりがちです。

それもこれも、写楽が約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消したしまったという、いかにもミステリー好きにはたまらない謎があるからなのですが。

しかも、単に10か月という短さだけではなく、その間に4期に分類されるような、作風の変化があったという点も、謎に拍車をかけています。

このことから、複数作者説まで唱えられているほどです。

4期の変遷

 その4期の作風の違いを見てみましょう。

先ず1期ですが、これは写楽と言えばこの絵というぐらい有名な、大首絵ということになります。

引用元:謎の浮世絵師・写楽の絵の変遷と代表作はこれだ | 歴史上の人物.com

(以下4期まですべて同じ)

2期になると、一転して全身像となります。

3期では、役者絵もありますが相撲絵も手掛けるようになります。

最後の4期では、1期のような大判はなくなり細版のみとなります。

10か月の間にこれほど作風が変われば、複数説が出てもおかしくないかもしれません。

漫画家と編集者

 これらの写楽の浮世絵は、蔦谷重三郎という版元から売り出されています。

当時の版元というのは、絵師が描いた絵を、版画にして浮世絵として売り出すだけではなく、どんな絵を誰に書かせるかといったことも含めて行っていたようです。

今でいうと、写楽と蔦谷重三郎は、新人の漫画家と漫画雑誌の編集者ということが出来るかもしれません。(あくまでも、私がTVなどで見聞きしたイメージに基づいています)

編集者の重三郎が、新人の写楽を発掘し、売り出したということです。

売り出してはみたが

 写楽の大首絵を面白いと思った重三郎は、大首絵を大判として売り出すことにします。

つまり、雑誌への連載が決まったということです。

売り出してはみたものの、思ったほど人気が出なかったのです。

大田南畝の『浮世絵類考』には、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」とあるようです。

素顔を書きすぎて、ブロマイドとして今一つだったということでしょうか。

そこで、重三郎は路線の転換を図ります。

それが2期の全身像ということになります。

しかしこうなると、他の浮世絵と差別化が難しくなり、やはりあまり人気が出なかったのでしょう。

その後も、3期(相撲絵!)、4期とテコ入れが続きますが、とうとう新作の発売はなくなってしまいました。

連載打ち切りになったのです。

写楽の正体は

 結局、写楽は新人の浮世絵師であり、4期に渡って試行錯誤をしたが、人気が出ることなく消えていったということになります。

そのため、10か月という短期間であれほどの作風の変化があったのです。

その正体は、『増補浮世絵類考』にあるように、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛ということでしょう。

おそらく、絵を好きで描いていた斎藤十郎兵衛が、蔦谷重三郎のところへその作品を持ち込んで、重三郎が面白いと思ったのです。

デビュー出来たものの浮世絵師になりたいという夢は、残念ながら10か月で潰えてしまったというわけです。


 その写楽が、こんなにも現代で有名になろうとは、早すぎたのでしょうか。


ではでは

戦の無い世の中

 「戦の無い世の中」について考えた話です。

 

 

今年は家康

 今年の大河が家康の話なので(個人的には、第一話を見てドロップアウトしてしまいましたが)、NHKを中心に戦国時代が取り上げられることが多いです。

その中で、そこかしこで出てくるのが「戦の無い世の中」という言葉と、それに類する考え方です。

戦国大名を語るときに、その行動原理として、「戦の無い世の中」を目的として挙げられることがすくなからずあるのです。

信長、秀吉の後を継いで、最終的な解決者が家康というわけです。

本当にそうなのか考えてみます。

信長の場合

 信長の場合は、道半ばで本能寺で討たれてしまったので、最終的にどのような世の中を目指していたのかについて、はっきりとしたことは分かりません。

しかし、本ブログでは、様々な状況証拠から、信長が畿内を中心とする中央部を織田一族で固めようとしていたと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

天下統一を目指していたのではないのです。

あの有名な「天下布武」も、現在では、「天下」が畿内を表していると考えられています。

上の記事でも触れていますが、1850年石山本願寺との講和で、「天下布武」を成し遂げたと考えていたと思われるのです。

その後の戦は、周辺地域を親織田の勢力で固めるためのものだったのです。

その途上で本能寺があったわけです。

の分がの目指したのは、「戦の無い世の中」ではなく、織田家の存続する世の中だったのです。

秀吉の場合

 秀吉は、途中で殺されることもなく、天下を統一し関白にまで上り詰めます。

その後、刀狩りなども行っており、これはと思わせる点もないではありません。

しかし、そのあとに行なったのは、ご存じ朝鮮出兵です。

「戦いの無い世の中」を目指していたとは思えません。

そして死に際して残したといわれているのが「太閤様覚書」です。

11か条からなりますが、そのうちの9か条は、息子の秀頼に関する内容です。

関白という地位にありながら、結局は天下国家ではなく豊臣家のことが最大の関心事だったのです。

家康の場合

 家康も、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を統一しました。

さらに、その後に矢継ぎ早に、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」を策定し、幕府の体制を造り上げます。

一見、これはと思わせますが、これらは徳川家に対する反対勢力の力を削ぐという目的があったとも考えることが出来ます。

天下国家を考えていたわけでは無かったのではないでしょうか。

そのことは、これもまた家康の遺言に見ることが出来ます。

「遺体は駿河国久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)
引用元:久能山東照宮|静岡

 

これにより、日光東照宮が作られることになったわけですが、問題は最後の文言「八州の鎮守になろう」です。

ここでいう「八州」とは、所謂関八州のことであり、関東地方と考えていいでしょう。

つまり、江戸とその周辺を守るといっているわけです。

やはり、徳川家を存続することが目的だったと言えそうです。

「家」の存続が第一

 結局のところ、信長、秀吉、家康いずれも、「戦の無い世の中」を目指していたわけでは無く、それぞれの「家」の存続こそが第一だったのです。

それを目指していった先が江戸幕府で、結果として戦の無い時代が続いたのであり、それを目指したわけでは無かったのです。

それを後世、「戦の無い世の中を目指した」と美化したのか、そう思いたかったのか、時代の要請なのかは分かりませんが、造り上げられた虚像なのだと思います。


 やはり、死に際しては本音が出るものなのでしょうか。


ではでは

結局ピラミッドとは何なのか

ピラミッドとは何なのかを考えた話です。

ありがちなパターン

 前回まで5回に渡って、「最古のパピルスから」というタイトルで書いて来ました。

途中からは「最古のパピルス」と直接の関係は無く、ほぼ仮説に仮説を重ねた話(妄想とも言う)になっていて、タイトルとしてどうなのかという状態になっていますが。

まあこのブログでは、比較的ありがちなパターンではあるのでいいでしょう(いいのか)。

今回は、前回までの内容もふまえて、あらためてピラミッドとは何なのかを考えて見たいと思います。

ピラミッドと言えば

 前回までの記事での最終的な結論は、ギザの三大ピラミッドの現在までに発見されている部分は、いわば全て盗掘者をだますためのダミーであり、本当の墓はピラミッドの直下または周辺の地下に今でも有るのではないかというものでした。

本当の墓と書きましたが、それを墓室と捉えれば、あくまでのそういった設計として、ピラミッドも含めて全体が墓だと考える事も可能です。

もっとも、本当の墓の部分が例えば100メートルほど離れた所にあった場合はどうでしょう。

これも、そのあたりまで含めた土地を墓所として考えることが出来そうです。

やはりピラミッドは墓として作られたと言えそうです。

墓ではあるが

 墓と考える事は出来そうですが、ピラミッド自体にはそれほどの意味は無かったのではないでしょうか。

確かにあれほどの物を造ることが出来るのは、ファラオだけで有り、その絶対的な権力を示すに絶好の物だったと言えるでしょう。

それ以外には、例えば宗教的にとか、死生観からといった必然性は無かったと思われます。

そういった事を示す、文章や遺跡のようなものは見つかっていないはずです。

もし見つかっていれば、疑問の余地なくピラミッドは墓だと断定されているはずです。

現実には、いまだにピラミッドについては、その存在理由について議論が続いていることからも分かります。

では何だったのか

 ではピラミッドは何であったのか。

墓の一部であるのですから、墓石のようなものではないかと思うのです。

前回までの記事で書きましたが、ピラミッドはそれ以前からあった墓の形式である、マスタバから派生したと考えています。
 

引用元:マスタバ - Wikipedia

地上の方形部分がピラミッド型になったと考えています。

つまり、地上部分はどんな形でもいいのです。

これは、現代において墓石に様々な形が見られるのと同じだと思うのです。

時代が下って、ツタンカーメンの墓で有名な「王家の谷」に墓が造られる頃になると、専ら地下に造られ地上にはほぼ何もないという形式になったことを見ても、それほど意味があるものでは無かった事が分かります。

ピラミッド型の地上部が一時期流行したという事なのではないでしょうか。


 古代日本で全国的に前方後円墳が造られたのも、実は流行しただけだったのかもしれません。


ではでは