前方後円墳について改めて考えてみた話です。
全ては古墳時代の話
前回までの記事で、九州にあった邪馬台国とそれを共立した国々が、畿内に東遷した勢力と球種に残った勢力の2つに分かれたと考えました。
畿内に東遷した勢力は、その後大和政権になったと考えられます。
そして、これらの2つの勢力の併存状態は、白村江の戦いの頃まで続いていた可能性が高いことも見てきました。
その白村江の戦いが行われたのは、663年で7世紀の後半という事になります。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのは248年ごろと考えられるので、2つの勢力が併存したのは3世紀後半ごろから7世紀後半までという事になります。
これは、そのまま時代区分でいうところの古墳時代に相当します。
古墳時代と言えば前方後円墳だが
古墳時代と言えば、もちろん前方後円墳を代表とする古墳が盛んに造られた時代という事ですが、一方で大和政権が日本を統一していった時代とも考えられています。
そして、前方後円墳に関しては、大和政権が統一してゆく中で、各地の勢力に許可、または各地の勢力が恭順を示すために取り入れた形式であると考えられています。
しかし、上で書いたように、この古墳時代を通じて九州の勢力と併存しており、その状況下で全国に前方後円墳が造られてことになります。
九州の勢力下でも、前方後円墳は造られていたのです。
前方後円墳はオマージュ
前方後円墳については、以前に記事を書いています。
本ブログでは、邪馬台国が現在の宇佐市付近にあり、宇佐八幡宮が卑弥呼の墓だと考えています。
元々の小高い地形の標高30m付近から上部を利用して円形の墓を造ったのです。
それが、『魏志倭人伝』にあるように径100歩だったわけです。
そして、日々卑弥呼の墓を見上げていた邪馬台国の人々の脳裏には、円墳とその前方の一段低い部分の情景が有ったのです。
その情景のオマージュとして創り出した形状が、前方後円墳だったと考えています。
九州で始まったかも
まだ記事を書いた時点では、邪馬台国がほぼそっくり東遷して、畿内の大和政権になったと考えているので、箸墓古墳あたりがその最古の例ではないかとしています。
しかし、九州にも同じ頃の造営と考えられる古墳も存在しているようです。
つまり、前方後円墳は、九州で造り始められたと考えることが出来そうです。
なので、大和政権の勢力範囲ではない九州においても、前方後円墳が造られていても、矛盾はないことになります。
大和政権による統一とは関係がなさそうです。
そもそも、統一もしていなかったようですし。
しかしそうなると、なぜあれほど全国的に広がったのかという事になるんですよね。
ではでは