遣唐使について考えた話です。
前回の話
前回は、小野妹子について考えてみました。
遣隋使が大和政権に派遣されたのではなく、九州に拠点を置く王により派遣されたという前提から、『日本書紀』に書かれた「大唐」への派遣は作り話であり、その使者とされる小野妹子も架空の人物ではないかという話でした。
小野妹子以降も
その「大唐」への派遣ですが、有名な小野妹子以降にも、犬上御田鍬らを派遣したと『日本書紀』にあります。
しかし、『隋書』側にはこの使者に関する記述は全く在りません。
どうやら、この派遣に関しても作り話という話になりますからら、犬上御田鍬についても、実在が疑わしいということになります。
ところが『日本書紀』によると、犬上御田鍬という人物は、この後に第一回遣唐使の大使として派遣されているのです。
実在でないと思われる人物が派遣されたことになるわけです。
遣隋使と同様に、遣唐使も見直す必要がありそうです。
『旧唐書』には2つの国が
遣唐使を見直すということですが、これまで見てきたように『日本書紀』の記述は問題が多いので、やはり中国側の記録を見てみることにします。
その唐の歴史書『旧唐書』を見ると、確かに使者は派遣されて来たという記録はあるのですが、それよりも根本的な情報があります。
『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本国伝」の2つが存在するのです。
これは、ここまで遣隋使に関連して考えて来た、九州と畿内の二つの政権の併存状態という見方と一致するではないですか。
使節に関する記述
「倭国伝」と「日本国伝」の2つから、派遣されてきた使節に関する年をまとめると次のようになります。
倭国
631年、648年
日本国
703年、713年、753年、760年、804年、806年、839年
日本国の記述の中には、阿倍仲麻呂、吉備真備、空海などの明らかに大和政権に関係する人々が出てくるので、日本国が畿内の大和政権になります。
ということで、倭国が九州にあった政権ということになります。
上の年号をみると、最初の2回は、倭国すなわち九州の政権から使者が派遣されていることが分かります。
やはり『日本書紀』の犬上御田鍬による第一回目の派遣を含めた703年以前の記述は、倭国からの使者の話を日本国からの使者の話にすり替えるための、作り話の可能性が高そうです。
派遣の年号を見ると
上で見たように、倭国すなわち九州の政権が648年まで派遣を行い、その後の703年からは日本国すなわち畿内の大和政権が派遣を行っていることになります。
どうやら、この55年間の間に九州の政権と大和政権の併存状態が終わりを告げたと言えそうです。
さてこの間に何があったのでしょうか。
年表を眺めると、すぐに目につくものがあります。
それは、663年の「白村江の戦い」です。
というわけで、次回は「白村江の戦い」についての予定です。
ではでは