白村江の戦いに至るまでの背景について考えた話です。
前回の話
前回は、白村江の戦いに至るまでの経過について考えてみました。
白村江の戦いが、『日本書紀』にあるような単なる友好国百済の再興のための戦いだけではなく、その前段階としての九州の勢力との全面戦争があったと考えられる、という結論でした。
今回は、百済の援軍要請から始まったと思われる話が、なぜ九州の勢力との全面対決となったのか考えてみたいと思います。
以降、畿内や九州の勢力とかややこしいので、『旧唐書』の表記に従って、畿内の勢力すなわち大和政権を「日本国」、九州の勢力を「倭国」と呼ぶことにします。
当時の朝鮮半島、日本
先ず当時の朝鮮半島の状況を見てみたいと思います。
引用元:百済 - Wikipedia
このころの朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の3国が鼎立する時代でした。
その中の百済は、日本国と王子が滞在するほどの有効関係にありました。
『旧唐書』「倭国伝」によると、631年に倭国はとうに使者を送ります、それに対して唐からも使者が倭国に送られたのですが、その使者が倭国の王子と諍いを起こし、返書を伝達することなく唐に帰ってしまうという事が起きます。
唐と倭国の間の外交関係が、ギクシャクしたものになってしまったわけです。
その後648年になって、倭国は、直接使者を送るのではなく、新羅に上奏文をことずけて来ます。
つまり、倭国と新羅は、ギクシャクとした唐との間の執り成しを依頼できるような関係だったのです。
この当時の朝鮮半島南部と日本は、倭国-新羅、日本国-百済という二つの関係の間で均衡が保たれていたという事になります。
百済が滅亡して
そういった状況の中、百済が唐と新羅に攻め滅ぼされてしまいます。
保たれていた均衡が崩れてしまいました。
日本国にとっては、まずいことになりました。
最悪の場合、唐、新羅、倭国の連合軍に攻め込まれる可能性が出て来たのですから。
その結果として取った対応策が、倭国への先制攻撃だったわけです。
そして、倭国を滅ぼしただけでは、その後に唐、新羅の援助で倭国が復興するかもしれない(日本国も百済を復興させようとしていますからね)という恐れから、そのまま朝鮮半島に進軍したのでしょう。
結果は、再び防波堤にともくろんでいた百済の復興どころか、大敗北を喫することになってしまったわけです。
朝鮮半島まで行かなくてもと思ってしまうのは、その後の歴史を知っているからでしょうか。
ではでは