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白村江の戦いへの道疑問考

白村江の戦いに至るまでの道に関する疑問について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、白村江の戦いに至るまでの背景について考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本国-百済倭国新羅という関係で保たれていた均衡が、百済の滅亡により崩れてしまい、その勢いで新羅、唐、倭国の連合軍により攻め込まれることを恐れた日本国が、倭国に先制攻撃を掛けたと考えらえる、という話でした。

守るという選択肢も

 それにしても、百済が滅亡して、その復興の援軍を頼まれたということがあったにしろ、いきなり全面対決ともいえる形での倭国への侵攻には、どうしてそこまでしたのかという疑問点もないわけではありません。

百済が滅亡したと分かった時点で、守りに徹するという選択肢もあったはずです。

百済の復興は、日本に滞在していた王子に亡命政権を作らせるなどして、捲土重来を期させるという手もあるわけで。

援軍にしても、日本海経由で送るという事も出来ないわけでは無かったはずです。


何が急がせたのか

 そもそも、唐、新羅倭国の連合軍に攻められる危険といっても、九州から畿内まで攻めてくるのは、それほど簡単ではないように思われます。

にもかかわらず、日本国は守りに入ること無く、天皇以下の政権中枢部自ら倭国に攻め入りました。

という事は、日本国はこの時点で畿内まで攻めて来られる可能性が高いと思っていたことになります。

連合軍の戦力を非常に高いとみていたのかもしれません。

もしくは、九州までの西側の防御に不安があったという可能性も考えられます。

日本書紀』によれば、百済の要請があってから船を作って、博多に赴いたという事で、途中の勢力を糾合していったというような記述も、ありません。


影響力は低かった

 これは、その当時の日本国すなわち大和政権が、『日本書紀』の内容から考えられているような全国に君臨する中央集権的なものではなかった事を示しているのではないでしょうか。

もっと緩い、各地の勢力の集合体のようなものであったのかもしれません。

そもそも、九州には倭国があるわけですし、それと日本国とどちらに付くかを、その他の国々は様子見していた可能性もありそうです。

日本国が守りに徹して、唐、新羅倭国の連合軍が攻めてきたら、雪崩的にそちらに付いてしまう恐れがあったのかもしれません。

そのための倭国への先制攻撃だったのではないでしょうか。


この時点での大和政権の権力基盤は、普通考えられているよりも脆弱なものだったのかもしれません。


ではでは