横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

最古のパピルスから5

最古のパピルスの内容から考えた話5です。

 

 

三大ピラミッドはダミーだった

 前回までの1~4の記事で、ギザの三大ピラミッドの作られた目的について考えました。

最古のパピルスから1

最古のパピルスから2

最古のパピルスから3

最古のパピルスから4

結論としては、三大ピラミッドはいずれも、本当の墓室を盗掘から守るためのダミーの役目を与えられたと考えました。

古代の墓の形式の一つのマスタバから派生したと考えられるピラミッドは、結果としてその地下に墓室が有る事を示しているわけで、盗掘にさらされやすいと言えます。

それを逆手に取り、ダミーとしての機能を持たせたのではないかという訳です。

ちなみに、クフ王のピラミッドの地上部分にある内部構造は、クフ王が後付けで墓室を作らせたもので、結局クフ王の死には間に合わなかったと考えています。

クフ王も、当初の予定通りダミーにより隠蔽された墓室に葬られたのです。

葬儀の時に

 ピラミッドがダミーだとしても、本物の墓室を遠く離れた所に造ったとは考え難いのです。

離れたところに造った場合、実際にファラオが亡くなった時に問題が発生してしまいます。

ファラオが亡くなれば、当然葬儀を行い遺体を墓室に納める必要があります。

その時に、離れたところで行えば、そちらが正しい墓室であり、ピラミッドはダミーだという事が丸わかりです。

これでは、何をやっているのか分かりません。

本物の墓室の場所

 そういった点などを考えると、やはり本物の墓室は、ピラミッドの直下または周辺の地下に有ると考えるのが妥当と思われます。

この後はイメージが湧き易い様に、クフ王のピラミッドの断面図を参照したいと思います。

 

引用元:新たなる謎。ギザの大ピラミッドの部屋の内部に電磁波エネルギーが集められていたことが判明(ロシア研究) : カラパイア

葬儀の際には、1入口から入って、5未完の地下室へ運ぶと見せかけて、本当の墓室に埋葬したのでしょう。

従って、4下降通路と5未完の地下室の何処かに、本当の墓室へと至る通路が有ったと考えられます。
勿論、埋葬後に封鎖されたのでしょう。

ちなみに、6上昇通路は、クフ王が後付けで造らせた地上の墓室に埋葬するための、通路として造られたという事になります。
結局使われることは無かったのですが。

思うつぼ

 1入口の下に2盗掘孔という文字が見えます。

これは、後世に掘られたと伝承されているもので、4下降通路まで掘られています。

これは、1入口は当然封鎖されているので、4下降通路の途中まで掘りぬけば、墓室に侵入できると考えた結果ではないでしょうか。

掘った者達は、ピラミッドでは斜面の入口から、地下の墓室まで下降通路が造られていることを、良く知っていたのです。

そして、狙い通りに下降通路に行き当った訳です。

ただし、残念ながらその通路が通じていたのは、ダミーとして作られた地下室でした。

まんまと、ピラミッドを造った人たちの思うつぼだった訳です。


 やはり、ピラミッド最後の秘密は、地下にあると思うのですが。


ではでは

最古のパピルスから4

最古のパピルスの内容から考えた話4です。

 

 

前回の記事

 前回の記事では、ギザの三大ピラミッドの作られた目的ついて考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

1、2までの記事で、クフ王のピラミッドの完成がクフ王の死に間に合わず、別の場所に葬られた可能性が有る事を見てきました。

王の墓をすぐに用意するのは難しい(普通ファラオの即位と共に造り始める)事から、クフ王のピラミッドは最初からダミーとして作られたのではないかと思われるのです。

ピラミッド内の各空間が、墓として使われた痕跡も無い事も裏付けとなると考えました。

更に、ギザの残り二つのピラミッドも使われた痕跡がない事から、同様に最初からダミーとして作られたと思われます。

クフ王のピラミッドは?

 と分かったように書いて来ましたが、一つ大きな問題点が残っているのです。

それはクフ王のピラミッドの内部構造です。

ここで、ダミーの意味について再確認したいと思います。

古代エジプトでは、ピラミッド以前から貴人の墓として、次のようなマスタバと呼ばれる形式の物が作られていました
 

引用元:マスタバ - Wikipedia

この地上部分を四角錐の形にしたものが、ピラミッドだと考えているわけです。

権威を示すためにはもってこいのピラミッドですが、その下に墓室があるのが丸分かりという欠点が有りました。

そのために、通常の墓室以外に密かに墓室を作って、そちらに埋葬したのではないかと考えたのです。

とすると、クフ王のピラミッドの地面より上の部分の内部構造は、何なのでしょう。

ダミーとしては、地下の部分だけで十分なはずです。

地上部分は探さない

 ダミーの為でないことは明白でしょう。

そもそも、盗掘しようとする者達は、地下に墓室が有ると思っているはずですから。

しかし、よく考えて見ると、そこにこそ答えがあるのかもしれません。

クフ王は、普通誰もそこにあるとは考えない地上部分に墓室を造れば、盗掘者の目をごまかせると考えたのかもしれません。

そのために、建造の途中で設計の変更を命じたのです。

その時には、地下のダミーと本当の墓室は完成していたのでしょう。

そしてさらに妄想をふくらませるならば、その設計変更による工期の延長が、最後の最後で完成が間に合わなかったというオチの原因だったのかもしれません。

残り二つのピラミッドでは、間に合わなかったというのがトラウマになって、地上部分の墓室は採用しなかったのです。

 


 ほかにそんな構造のピラミッドが無い事を見ると、単にクフ王が変わり者だったという可能性も捨てきれないのですが。


ではでは

最古のパピルスから3

最古のパピルスの内容から考えた話3です。

 

 

前回の記事

 前回の記事は、最古のパピルスと呼ばれている発掘物の内容から、クフ王のピラミッドの作られた期間について考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

最古のパピルスより解読された内容から、クフ王のピラミッドがクフ王在位26年目の年に建造の最終段階にあった事が分かりました。

一方、他の研究によりクフ王が在位26年目に亡くなったことが判明しています。

従って、ピラミッドが王の墓で有るならば、クフ王のピラミッドは26年で完成したことになります。

しかし、その内部に墓所として使われた形跡が無く、むしろ途中で放棄された様に見える事から、クフ王のピラミッドはその完成が間に合わなかったのではないかという話でした。

間に合わなかったとすると

 もし上のような事だとすると、クフ王は、いまだ発見されていない墓に葬られたという事になります。

しかし、これは良く考えると可笑しな点がある事に気が付きます。

ピラミッドが間に合わないとなったとして、それ程簡単に他の墓所を用意出来るとは思えないのです。

ファラオを葬るのですから、急造の墓で済ますという訳にはいかなかったと思われます。

ではどうしたのでしょう。

実は最初から極秘に用意されていたのではないでしょうか。

ピラミッドという発想

 古代エジプトでは、ピラミッド以前から貴人の墓として、次のようなマスタバと呼ばれる形式の物が作られていました。
 

引用元:マスタバ - Wikipedia

見て分かるように、地上に方形の構造物があり、墓室は地下に作られます。
 
この形式から、地上部をピラミッド型にするというのは、さほど飛躍した発想ではないでしょう。

その技術的な到達点が、ギザの三大ピラミッドだったと考えられます。

盗掘という問題

 ファラオの強大な権力を示すという点においては、ピラミッドの効果は絶大だったでしょう。

あれほどの物を作ることが出来るのは、ファラオ以外にはいないわけですから。

勿論、目立つだけに負の側面も生じる事になります。

盗掘に遭い易くなってしまうのです。

ピラミッドの下には墓所が有る訳ですから、後はどうやって侵入するのかという話です。

木は森の中に隠せ

 それに対する対策として考え出されたのが、ピラミッドを隠れ蓑にするというものだったのではないでしょうか。

ピラミッドを大々的に造りながら、密かに本当の墓所を作っていたのです。

当然、ピラミッド程の規模ではないので、ピラミッドより早く完成しており、そこにクフ王が葬られたのです。

何処に造ったのかという事になりますが、当然秘密裏にしなければなりません。

そのために、ピラミッドの建造工事に紛れて、その地下の近辺に造ったのではないかと思います。

あれだけの大規模工事です、地下で何かやっていても分からないでしょう。

ピラミッドの少し離れた地下部分に有るのではないでしょうか。

残り二つのピラミッドも

 ギザの残り二つのピラミッドでも、地下の墓所と考えられている空間が、いずれも使われいないように見える事も、同じなのではないでしょうか。

やはり、ピラミッドとその地下の墓所は、最初からダミーとして作られたのです。

何れも親のやり方を踏襲し、さらに前回までの話で見てきたように、高度な官僚組織により、前例踏襲という流れも影響したのかもしれません。

ギザの三大ピラミッドの周辺地下には、未盗掘のファラオの墓が三つあるのかもしれません。

 
 放射線によるピラミッド内部の調査というのが話題になっていますが、周辺の地下の調査も面白そうなのですが。


ではでは

最古のパピルスから2

最古のパピルスの内容から考えた話2です。

 

 

前回の記事

 前回の記事は、最古のパピルスと呼ばれている発掘物の内容から、ギザの三大ピラミッドが作られた背景について考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

最古のパピルスより解読された内容から、クフ王のピラミッドが作られた時代に、すでに高度な官僚組織が存在している事が分かりました。

現代でもそうであるように、官僚組織は一旦始めた仕事が継続しがちです。

その特徴が、三代ピラミッドの造営事業にも影響したのではないかという訳です。

いったん獲得した既得権益は、なかなか手放せないという事です。

勿論、三代のファラオがピラミッドを作りたくなかったのにお役所仕事で作る事になったということで無く、背景として推進する流れが有ったという話です。

書かれた年も分かった

 そういった事が読み取れた最古のパピルスですが、その他にも分かったことが有ります。

それは書かれた年についてです。

前回の記事でも触れましたが、最古のパピルスはメレルという人物の業務日誌のようなもので、トゥーラという採石場からギザに石を運んだことが書かれています。

その中に、「クフ王の下で13回目の家畜調査が行われた」年という記述があったのです。

他の研究から、家畜調査は2年に一回行われたことが分かっているそうです。

つまり、トゥーラからギザに石を運んだのは、クフ王の即位から26年目の年だったという事になります。

出来上がったのは

 さらに、トゥーラで採れるのは白い石灰石で、ピラミッドの表面の化粧用として用いられたことも分かっています。

という事はクフ王から26年目の年には、ピラミッドが最終の仕上げ段階に入っていたと言えるわけです。

加えて、通常ファラオの墓は即位と共に作り始められるようです。

そして、これも他の研究から、クフ王は即位から26年目に亡くなった事が分かっているのです。

以上の事を考え合わせると、クフ王のピラミッドは、クフ王即位の年から作り始めて、26年目の年に出来上がったと言えそうです。

クフ王ピラミッドの建造期間は、26年だったのです。

という事なのだか

 クフ王はその在位の期間中ピラミッドを作り続けて、その死と共に完成したピラミッドに葬られたのでした。

という事であれば、納まりの良い話になるのですが、どうもそうではなさそうです。

ピラミッドから、肝心のクフ王のミイラが見つかっていないのです。

盗掘に遭ったとも考えられますが、それにしては内部が綺麗すぎるのです。

例えば、石棺と言われているものですが、

 

引用元:ギザの大ピラミッド - Wikipedia

これが、盗掘後の物とは思えないのです。

盗掘後だとすると、重いと思われる蓋の部分も盗んでいったというのでしょうか。

こう考えると、クフ王が葬られた形跡が無いのです。

間に合わなかった

とは言うものの、石棺にしてもその他の構造にしても、いかにも墓として作られたように見えます。

どういう事でしょうか。

ひょっとして、クフ王のピラミッドは、墓として作っていたが、クフ王の死には間に合わなかったのでは無いでしょうか。

完成間近まで行っていたが、残念ながらクフ王が亡くなってしまったのです。

そのためにクフ王は、別の場所に葬られ、その後にピラミッドが完成した(お役所仕事ですから)のではないでしょうか。

そう考えれば、石棺などが、いかにも途中で放棄したような状態なのも納得出来そうです。


 となると、26年で完成したのかどうかは分からないという事になります。


ではでは

最古のパピルスから1

最古のパピルスの内容から考えた話1です。

 

 

最古のパピルス

 2013年にエジプトのワディエル=ジャラフという遺跡で、古代エジプト時代のパピルスが発見されました。

あのギザの大ピラミッドを作ったクフ王の時代の物で有る事が分かり、最古のパピルスと呼ばれているようです。

発見されたワディエル=ジャラフは、大ピラミッドから南東に約200km、紅海沿岸の地で、ピラミッドが造られた当時には港であったらしいです。

パピルスとは、パピルス草の繊維から作られた紙状(現代の紙のように繊維を絡ませていないので、狭義の紙では無い)の物ですが、約4500年もの間残っているというのは驚きです。

もっとも、古代エジプト人の技術が凄いというよりも、植物の凄さを見せつけられたというところでしょうか。

書かれていた内容

 パピルス自体が見つかったことも驚きですが、その内容も興味深いものでした。

内容としては、メレルという人物の業務日誌とでも呼べるようなものでした。

メレルという人は、王のために様々な物を運んでいた40人ほどのチームの監督という立場の人物です。

その日誌の中に、トゥーラという採石場から石を運んだことが書かれています。

そのトゥーラで採れるのは、白い良質の石灰岩でした。

それを、ギザに運んだという事が書いて有ったのです。

高度に組織化されていた

 どうもメレルという人物は、中級の役人でチームを率いて活動をしていたようです。

という事は、4500年前のクフ王の時代には、すでに高度に組織化された行政のシステムが存在していたと考えられそうです。

まあ、大ピラミッドのような巨大で複雑な構造物を、おそらく10年単位の期間に渡って作り上げていくためには、それなりのシステム化されたものが有っただろうことは、容易に想像できるところではあるのですが。

それが、実際にパピルスに残された形で確認されたという訳です。

組織が有ったから出来た

 高度に組織化された行政のシステム、言い換えれば高度な官僚システムがすでに有ったという事になります。

このことが、ギザの三大ピラミッドと呼ばれる、三つのピラミッドを作るkとになったのではないかと思うのです。

とは言っても、最初のクフ王のピラミッドについては、クフ王が命じて作らせたのでしょう。

その王の命に従って作る訳ですが、先にも書いたように片手間で作れるはずもなく、結果的に高度な組織を作り上げて対処することになったのです。

その結果は、4500年後の今日もギザで見られるように、見事に完成させる事が出来ました。

組織が有ったので続いた

問題はその後です、ご存知のように官僚システムでは、一旦始めたものを終わらせることは難しいです。
いわゆる、既得権益ということです。

更に、ピラミッド建造関連の活動が、人的にも費用の面から見ても、非常に大きなもので有った事は確かでしょう。

これを、ピラミッドが完成したからといって次の日から全てを停止する事は、現実問題とし難しかったでしょう。

そういった事が、続く2代のファラオがピラミッドを作る原動力になったのではないでしょうか。

特に、三代目の時には、大きさから見ても国力が低下していたことは明らかだと思われますが、それでも小さなピラミッドを作ったのには、このような背景があったのかもしれません。


 始めるのは簡単でも止めるのは難しいというのは、有りがちですよね。


ではでは

龍とドラゴンの飛び方以外も

龍とドラゴンの飛び方以外についても考えた話です。

 

 

前回の話と訂正

 前回は、龍とドラゴンの飛び方の違いから考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東洋の龍は飛ぶための器官が無くても飛行するのに対して、西洋のドラゴンは飛ぶための羽根を持っています。

この違いは、現代のヒーローたちにも引き継がれ、飛ぶための具体的なものを必要とする西洋、神通力のような具体的な形の無いものの存在を認める東洋という事が言えるのではないかという話でした。

その話の中で、東洋の例として「ドラゴンボール」に出て来る「舞空術」を挙げたのですが、それを生み出したのが「亀仙人」だと書いてしまいました。

勿論、「鶴仙人」の間違いです。

速攻で訂正しました。

どうも、「ドラゴンボール」というと、反射的に「亀仙人」となってしまいがちです。

飛び方以外にも

 ところで、この龍とドラゴンの、具体的なものを必要とするかしないかの違いは、飛び方だけではなく、それ以外にもあるようです。

再び、アメコミヒーローで見てみてみましょう。

アイアンマンは、そのものズバリ、全身を覆うアーマーを自ら作り出しました。

ハルクが超人に変身するようになったのは、自ら行った実験中の事故が原因です。

キャプテン・アメリカは、戦時中の超人血清の実験によって生まれました。

スパイダーマンは、放射能を帯びたクモに噛まれて、超人的な能力を持ちました。

といった具合に、それぞれの能力に対する何らかの具体的な理由付けがされています。

それに対して

 それに対して、東洋ではどうでしょう。

こちらは、具体的な理由付けではなく、精神的な説明がされることが多い様に思います。

特に「修行」というのが良く出て来ます。

ドラゴンボール」はその典型で、主人公の悟空始め、登場人物の多くが様々な「修行」を行う事で強くなっていきます。

多くのアニメヒーローがこのタイプに当てはまります。

中には、ウルトラセブンに指導され修行するウルトラマンレオというヒーローもいました。

背景はどこに

 こういった違いはどこからくるのでしょうか。

まず、上の話から西洋においては、人知を超えるものについても何らかの説明(それが荒唐無稽で有っても)が求められるいる事が分かります。

これに関しては、宗教的な背景が有るのではないかというのが、私の仮説です。

キリストの起こした奇跡の中に、「水の上を歩いた」というものが在ります。

つまり、こういった人知を超えるものというのは、基本的には神が持っているものなのです。

それをなんの理由もなく使う事が出来るというのは、一神教では有り得ないという事になります。

そのために、とにかく理由付けが必要という事ではないでしょうか。

それに対して東洋においては、仏教や道教のように、基本的に修行によって何らかの力のようなものを得るということがあります。

それがどのようなものかは、「悟り」や「神通力」のように、多くの場合具体的には説明されません。

とにかく悟空は修行によって、かめはめ波が撃てるようになるのです。

 
 欧米で、神様の沢山出て来る「ドラゴンボール」が人気なのは良いのかと思うのですが、どうなんでしょう。


ではでは

龍とドラゴンの飛び方から

龍とドラゴンの飛び方から考えた話です。

 

 

同じ飛ぶのでも

 過去の記事でも少し触れましたが、同じキリンから作り出されたと考えられ、同じように空を飛ぶことが出来る東洋の龍と西洋のドラゴンですが、その姿形に違いがあります。

西洋のドラゴンには、分かり易く羽根があります。

 

引用元:ドラゴン - Wikipedia

ところが、東洋の龍にはそういったものは有りません。

引用元:竜 - Wikipedia

その為の器官がなにも無くても、とにかく龍は飛ぶことが出来るのです。

逆に言うと、西洋ではドラゴンが空を飛ぶためには、羽根が必要だったという事になります。

その他の例でも

 この空を飛ぶという事に対する西洋と東洋でのスタンスの違いは、その他にも古よりみられるのです。

例えば、イカロスは人工の羽根により飛べるようになりました。

魔法使いも、飛ぶときには箒に跨ります。

西洋では、あくまでも何か具体的に無いといけないのです。

それに対して東洋では、例えば仙人も空を飛ぶことが出来るとされました。

仙人が空を飛べるのは、修行によって獲得した神通力によるものとされ、羽根のようなものや、何かの道具を使って飛ぶわけではありません。

飛ぶための具体的なものを必要とする西洋、神通力のような具体的な形の無いものの存在を認める東洋、のような感じでしょうか。

現代の西洋でも

 このような違いは現代でも見られます。

超人の集まるアベンジャーズではどうでしょう。

アイアンマンは、自ら科学技術によって作り出した「アーマー」によって、空を飛ぶ能力を手に入れます。

マイティ・ソーも空を飛ぶことが出来ますが、それは手に持つハンマーのような武器「ムジョルニア」の能力だとされています。

ファルコンは、「ジェットパワーの人工翼」で飛行しているという設定です。

やはり、飛ぶためには何らかの具体的なものを必要とするようです。

現代の東洋では

 これに対して、例えば『ドラゴンボール』では、悟空は最初「筋斗雲」を使って飛んでいますが、最終的にはほとんどのキャラクターが「舞空術」により飛べるようになります。

舞空術」は、術と有るように、具体的な道具を使ったものでは無く、修行により飛べるようになるといったものです。

仙人と同じような能力だなと思っていたのですが、どうやら鶴仙人が生み出したとされているようで、まさに仙人の術だったようです。

その他にも、最近日本でも多く見られるようになった中国ドラマでも、仙術使いや魔族といった者達が比較的気軽に(といったら失礼かもしれませんが)飛び回っています。

どうも、東洋では身一つで飛ぶことに、大きな違和感が無いようです。

スーパーマンのマント

 空を飛ぶと言えば、忘れていけないのがスーパーマンでしょう。

これまでの話を基にすると、スーパーマンはあの有名な赤いマントで飛んでいるという事になります。

ところが実際にはそんな設定は無いようです。

中世以降の権威や力の象徴としてのマントの影響で、「怪傑ゾロ」のようにヒーローがマントをするようになり、スーパーマンもマントを着けて登場することになったということのようです。

という事なのですが、私的には、その恰好を見た西洋の人々が、マントを付けている事でスーパーマンの飛ぶという能力に納得したのでは無いかと思っているのですが。

スーパーマンは、あの恰好だから空を飛ぶことを許されているのです。


 そういえば、アンパンマンもマントが無いと飛べないのでした。


ではでは

日本には付喪神がいる

付喪神について考えた話です。

 

 

世界では生き物から

 前回までの話では、聖獣、魔物、魔獣、妖怪といった想像上の存在が、実在の生き物を基に作り出されたものである事を見てきました。

私的にどんなものから作りだされたのかよく分からないと思っていた、麒麟、龍、ドラゴンについても、首長のキリンが基になっているという結論でした。

その話の中では取り上げませんでしたが、ここで言う生き物には当然植物も含まれています。

有名どころでは、世界各地に似た話がある世界樹とか、様々な秘薬の原料となり歩き回ったりもするとされるマンドレイクといったものが、すぐに思い浮かびます。

植物から作られたものは、特に西洋に見られるように思います。

日本には付喪神がいる

 日本にも同様に、生き物から作り出されたと考えられる、想像上のものが多く存在します。

が、生き物が基になっていない者達も存在するのです。

それは、付喪神と呼ばれている(実際には全てがそうかと言われると難しい所だと思いますが、分かり易さ優先で、こう呼ぶことにします)者達です。

彼らの多くは、道具や家具など人間が作り出したものに魂が宿って生まれると考えらえています。

某アニメで有名な、からかさ小僧、ぬりかべ、一反もめん、雲外鏡、提灯お化けを始めとして、チョット調べても昔から使われているものはほとんど付喪神になっているんじゃないかというほど出て来ます。

日本以外では

 日本以外でこういった者がいるのか調べて見ても、調べた範囲ではなかなか見つかりません。

例えば、デュラハンという、頭部のない甲冑の妖精(ファンタジー的には、アンデット扱いなのですが、伝説では妖精のようです)いますが、これは、甲冑というものが基ではなく、甲冑を纏った騎士が基だと考えられるので、付喪神的ではありません。

では、ミミックはどうでしょう。

これは宝箱の姿形の魔物という事になっています。

まさに、付喪神的と言っていいでしょう。

ところが残念なことに、これはどうやらゲームの中で作り出されたもので、基となる伝説や神話などは無いようです。

どうも、付喪神的なものは日本以外では珍しいようなのです。

どうしてなのか

 どうして日本だけ付喪神的なものがいるのか。

今のところの仮説はこうです。

日本と日本以外で自然に対する向き合い方が違うからではないか。

日本以外、特に西洋で顕著だと思うのですが、自然を征服する対象としてみている面があると思います。

その征服のために作り出したものが、道具やその他のものという事なのではないでしょうか。

それに魂が宿るというのが、考えらえないのかもしれません。

それに対して、日本では、自然は共存するものであり、八百万の神が宿っているものな訳です。

その自然の一部を使って作り出したものに、魂が宿るのはそれほど可笑しな事では無かったのでしょう。

何の根拠もない仮説ですが。


 日本以外の自然と共存している地域でどうなのか、調べてみるのも面白いかもしれません。


ではでは

聖獣や魔獣はどうやって

聖獣や魔獣がどうやって作り出されたのか考えた話です。

 

 

前回までの話

 ここ3回の記事で、キリンと麒麟・龍・ドラゴンの関係について書いて来ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

麒麟・龍・ドラゴンのいずれも、キリンの骨を見て、その生きている時の姿を想像して作り出したのではないかという話でした。

頭蓋骨だけを見て麒麟を、長い首の骨込みの頭蓋骨を見て、東洋では龍が、西洋ではドラゴンが作り出されたtいう訳です。

この仮説は、ネットでたまたまキリンの頭蓋骨の画像を見て、麒麟だと思ったところから思いついたものです。
 

引用元:キリン 頭蓋骨模型 - Bone Style

今回は、この仮説で、私の長年の疑問が、私個人的には一応解決したという話です。

聖獣や魔獣は

 聖獣や魔獣と言われているものは、多くは実在する生き物の上位バージョンだったり、複数の生き物の組み合わせだったりすることが多い様に思います。

例えば、麒麟や龍の関係で言うと、四神と五霊というものが在ります。

四神とは玄武(亀)・白虎(虎)・青龍(龍)・朱雀(鳳凰)の四体がそれぞれ東西南北を守っていると言われるものです。
 

引用元:東西南北を守る四神と仏 現代に残ることばの意外な由来(歴史人) - Yahoo!ニュース

これに加えて、中央に麒麟が入ったものを五霊と呼びます。

これらの五霊のそれぞれを見てみると、玄武は亀と蛇で、白虎はそのまま虎ですし、朱雀はクジャクかとも思えますが、まあ鳥には違いなさそうです。

ところが、麒麟と龍はどうでしょうか。

龍は蛇かとも思えますが、4足有るのでそうではなさそうです。

麒麟は、その姿形について、尾は牛に、蹄は馬に似て、背毛は五彩で毛は黄色な度とされ、いくつかの動物の組み合わせかとも思われますが、その顔については龍に似ているとされます。
 

引用元:麒麟 | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 - スマートフォン版

結局、麒麟と龍については、何から作り出されたのか良く分からないなと思っていました。

キリンと考えれば

 麒麟と龍に関する、以上のような疑問も、キリンの骨から作り出したものだと考えれば、解決しそうです。

いちいち全ては挙げませんが、西洋の魔獣と呼ばれているような想像上の存在も、多くは、同じような作られ方をしているのです。

馬に角を付けたユニコーン、巨大なオオカミのフェンリル、三つ首のケルベロスといったように。

その中で、これも個人的にはその出自が疑問だった、西洋のドラゴンについても、同じように考えれば説明出来る事になった訳です。

サイクロプス

 キリンの骨格について調べている時に、こんな骨の画像も見付けました。
 

引用元:キュクロープス - Wikipedia

象の頭蓋骨なんですが、引用元にも有るように、これが一つ目の巨人サイクロプスの基になったのではないかという説もあるようです。

やはり実在の動物が鍵のようです。


 実際にはキリンや象の骨だった訳ですが、目の前に骨がある訳ですから、当時の人々にとっては、麒麟、龍、ドラゴンも、サイクロプスも現実的な存在だったのでしょう。


ではでは

龍とドラゴン

龍とドラゴンについて考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の話は、キリンと龍の関係についてでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

麒麟だけではなく龍についても、キリンの骨を基に作り出されたものでは無いかと考えました。

頭蓋骨のみを見た人が考え出したのが麒麟で、長い首の骨と頭部のセットを見た人が考え出したのが龍だった、という訳です。

ドラゴン

 東洋の龍に対して、西洋には似て非なるドラゴンがいます。

ドラゴンと聞いて思い浮かぶのは次のようなものでしょうか。

 

引用元:初心者向けドラゴンの描き方 | Adobe

翼を除けば、龍に似ていると言えます。

もっとも、これは現代の人間が、龍などの様々な情報を知ったうえで描いたものともいえるので、割り引いて考えたいといけないのですが。

西洋の古い時代に描かれたものも見て見ましょう。

 

引用元:ドラゴン - Wikipedia

1260年頃の写本だそうですが、これなどは、翼を取ったら龍だと言われても分からないのではないでしょうか。

ドラゴンと龍

 このようにドラゴンと龍が非常ににている事から、龍またはドラゴンのようなモチーフが、人類共通のものとして有るのではないかという説もあるようですが、今のところ証明はされていません。

また、東洋から西洋、または西洋から東洋に伝わったのではないかとも考えられる訳ですが、これについてもそれを示す証拠は見つかっていません。

つまり、今のところ東洋の龍と西洋のドラゴンは、全く別個に生み出されたと考えられているようです。

では、西洋のドラゴンはどうやって生まれて来たのでしょう。

ドラゴンは何処から

 これまでの本ブログの記事の流れからすると答えは明確です。

麒麟や龍と同様にドラゴンも、キリンの骨格がもたらされ、それを基に作り出されたと考えられるのです。

しかも、東洋と西洋で完全に別個に起きたのです。

翼については、後世に空を飛ぶという能力を持たせる時に、後付けで付けられたものでしょう。

キリンという同じ動物の骨を基に作り出されたものなので、似ているのは当然という事になります。


 空を飛ぶために、西洋のドラゴンには翼を付けたのに対して、東洋の龍は何も必要としなかった、というのが面白いところです。


ではでは

キリンと龍

キリンと龍について考えた話です。

 

 

前回の記事

前回の記事では、キリンと麒麟の関係について考えました

 

yokositu.hatenablog.com

 

明の時代にアフリカから連れられてきた時に、麒麟だと思われたのですが、実はその特徴的な頭蓋骨の姿形から、キリンを見たことのない人達が想像して作り上げたのが麒麟だったのではないかという話でした。

 

引用元:キリン 頭蓋骨模型 - Bone Style

これを見て

 

引用元:麒麟 | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 - スマートフォン版

こんな頭部を想像してしまったわけです。

麒麟に似ていると思われたキリンですが、キリンを基にして想像して作られたのが麒麟なのだから当たり前、という事です。

今回は龍

 前回の記事の中でも書きましたが、キリンの頭蓋骨から麒麟を作り出した訳ですが、その姿形から考えると、その時に見たのは頭蓋骨だけで、最大の特徴である長い首の骨は無かったと思われます。

その為、麒麟はどちらかと言えば、普通の四足動物のような姿になった訳です。

当然、その長い首の骨の付いた形で運ばれてきた事も有ったはずです。

それを見た人達が、こんな生き物ではないかと考え出したのが、「龍」ではないでしょうか。

 

引用元:竜 - Wikipedia

胴体と尻尾も含めて長めに描かれるせいで、どうしても蛇の一種のように思われがちですが、ちゃんとした四足動物だという事も見逃せません。

 

引用元:中国の竜 - Wikipedia

古い時代にはこんな形の物もあったようですから、初めは普通の四足動物風だったのかもしれません。

首が長い四足動物という事は、ほとんどキリンですよね。

キリンから麒麟と龍が

 龍も麒麟も、何時何処で考え出されたのかは分かっていないようですが、中国の古い時代から伝わってきていることは明らかです。

古い中国の地に、キリンの骨がもたらされます。

ある地域には頭蓋骨のみが。

そこでは、その頭蓋骨から「麒麟」が生み出されました。

また別の地域では、長い首の骨も一緒にもたらされます。

そこでは、「龍」が生み出されたのです。

何れも、後世に聖なる生き物として伝世することになります。

前回と今回の話を合わせて考えると、以上のようになるのですがいかがなものでしょうか。


 想像上の生き物といっても、全くなにも無い所から生み出すのは難しいという事でしょうか。


ではでは

キリンと麒麟

キリンと麒麟について考えた話です。

 

 

キリンと麒麟

 キリンと言えば、これから一杯やるぞといった場面を除いて、普通はアフリカなどで見る首の長い4足歩行の哺乳類の動物を指します。
 

引用元:キリン - Wikipedia

一方、これを漢字で「麒麟」と書くと、キリンを指すことも有りますが、一般的には、中国の伝説上の生き物の事になります。
 

引用元:麒麟 | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 - スマートフォン版

今回は、このキリンと麒麟の関係について考えてみたいと思います。

麒麟とは

 上でも書いたように麒麟は、中国の伝説上の生き物で、上図のようにおどろおどろしい見た目をしているとされています。

鹿に似ていて大きく、尾は牛に、蹄は馬に似て、背毛は五彩で毛は黄色、頭上に肉に包まれた角があるという事のようです。

その見た目とは違ってと言うと失礼かもしれませんが、聖獣とされていて、非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌うのだそうです。

そして、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物だということです。

見た目で判断してはいけないという事です。

なぜキリンか

 明の時代に、鄭和があの大航海でアフリカまで到達し、キリンを含めた多くの動物を持ち帰りました。

当時の皇帝永楽帝が、キリンが伝説の聖獣麒麟に似ていることから、気に入ったらしいです(何しろ仁のある政治を行うと現れるわけですから)。

それから、キリンの事を麒麟と呼び、それが日本にも伝わって、現在はカタカナでキリンと表記している。
という事は有りません。
それが証拠に現在の中国では、キリンは「長頸鹿」(“長いくびの鹿”)という、面白みのない名前で呼ばれているようです。

実際には日本では、明治時代に日本語名を考える時に、上の永楽帝の話を基にしたのかどうかは不明ですが、「麒麟」という名前にしたという事だそうです。

意外な関係が?

 というのが、キリンと麒麟の関係ですが、もう一つ意外な関係があるかもしれない仮説を思いつきました。

先ず、キリンの頭蓋骨をご覧ください。
 

引用元:キリン 頭蓋骨模型 - Bone Style

どうでしょう、なかなか衝撃的ではないでしょうか。

キリンを見たことのない人が、これを見て実際のキリンを想像することは難しそうです。

 

引用元:キリン - Wikipedia

古代中国の人たちも同じだったでしょう。

キリンの頭蓋骨を見た人たちが、想像で作り出したのが「麒麟」だったのではないでしょうか。

幸か不幸かその人たちは、長い首の骨は見なかったのでしょう。

尾は牛に、蹄は馬に似て、背毛は五彩で毛は黄色みたいな特徴は、聖獣として作り上げて行く中で考えられたと思われます。

麒麟に似ていると思われたキリンですが、キリンを基にして想像で作られたのが麒麟なのだから当たり前、という事です。


 それにしてもあの頭蓋骨から、あのキリンの顔を想像することは難しいと思ったのですが、よく考えたら人間も同じようなものですか。


ではでは

騎馬民族征服王朝説

騎馬民族征服王朝説について考えた話です。

 

 

騎馬民族征服王朝

 騎馬民族征服王朝説というのをご存知でしょうか。

東北アジア騎馬民族が、朝鮮半島を経由して倭と呼ばれていた古代日本に至り、その地を征服して打ち建てたのが大和王朝であるというものです。

最近でこそあまり聞かなくなっていますが、昭和の時代には話題になりました。

調べてみると、初出は1948年で、終戦後直ぐだったようです。

終戦によって、それまでの万世一系皇国史観が否定された時代の空気の中で、作り出されたと言えるかもしれません。

何よりも、騎馬による怒涛の征服という、分かり易さとロマンあふれるといった面も大きかったようにも思えます。

急に馬が現れた

 時代の空気云々はともかくとして、こういった説が出て来る理由のようなものは勿論あります。

それは、馬に関わるもので、考古学的に見ると、有る時期を境に古代日本に急に馬が現れたように見えるのです。

そもそも、日本には牛馬がいませんでした。

弥生時代の遺跡からは、これまでのところ発見されていないようですし、『魏志倭人伝』にも、邪馬台国に牛馬なしと描かれています。

馬が飼育されるようになったのは、馬の歯や馬具の出土品などから、五世紀前後と考えられているようです。

古墳にも、馬具や埴輪が副葬されるようになります。

引用元:埴輪馬 文化遺産オンライン

この急にも見える馬の出現は、騎馬民族が大陸から攻め込んできたと考えると説明出来ると考えたわけです。

とは言っても

 とは言っても、これには当初から様々な反論が有りました。

例えば、大陸から朝鮮半島を経由してやって来るという、各地に少なからず影響を与えた出来事だったにも拘わらず、中国、朝鮮、日本いずれの地域の史書にそれに関する事が一切出てこない点が挙げられます。

日本の記紀を見ても、登場人物が伝説の名馬に乗って活躍するといった場面は出て来ません。

現在の皇室の在り方を見ても、明らかに農耕民族のそれであり、騎馬民族ではないですし。

と言ったように、現在では主流の説という事ではないようです。

普通に考えれば

 普通に考えれば、大陸との交流の中で、次第に持ち込まれていったというところでしょうか。

ところが、本ブログで採っている邪馬台国東遷説で考えると、少し違って見えます。

本ブログの説では、朝鮮からの亡命者のもたらした大陸の動乱に関する情報を基に、東遷を行ったと考えています。

その亡命者は、当然牛馬に関する知識が、その有効性も含めて分かっていたはずです。

それを基に、いち早く導入出来たことが、大和政権の覇権への一助となったのではないでしょうか。

もっとも、いち早くとはいっても、馬を戦力として継続的に導入できるように成るには、謎の四世紀を経て五世紀までの約一世紀の時間がかかったという事になりますが。

ひょっとしたら、東遷途中の四世紀の間はそれどころでは無く、安定が見えてきた五世紀になってから本格化したという事なのかもしれません。

その為、騎馬による戦闘の跡などは見つからないのです。


 征服されたわけではなく、サポートが有ったというところでしょうか。


ではでは

邪馬台国時代の文字と貨幣

邪馬台国の文字と貨幣について考えた話です。

 

 

なぜ無かったのか

 古代日本史(特に邪馬台国ですが)が好きで、本ブログにも色々と書いているわけですが、昔から疑問に思っている事が有ります。

それは、文字と貨幣についてです。

簡単にいうと、なぜ邪馬台国では文字と貨幣が使われていなかったのかという点です。

ただ単に文字と貨幣を知らなかったという訳では無いはずです。

最初の文字

 例えば文字については、あの有名な「漢委奴国王」と刻印された金印が有ります。

これは『後漢書』の記述に在る、後漢光武帝建武中元2年(57年)に奴国から朝貢に来た使者に対して賜った印と考えられています。

つまり、西暦57年頃には、日本(奴国)には来ていたことになります。

ただし、これを当時の倭人が、文字として認識していたかどうかは、議論の在るところです。

しかし、『後漢書』にも有るように、使者が後漢まで行って賜って来たわけですから、その使者として行った人たちは、文字や、それがどうやって使われているかをみて来たはずです。

従って、当時の倭人もある程度文字というものの存在を認識していたと考えてもよさそうです。

にもかかわらず、それから二百年程経った、邪馬台国の時代になっても、文字が使われている形跡は無いのです。

貨幣についても

 貨幣についても同じような事が言えます。

当然、後漢の時代には中国では貨幣が使われていた訳で、文字と同じように貨幣についても、その存在とどういったものであるのかについては、少なくとも金印の時代から知っていたはずです。

しかし、邪馬台国時代の遺跡からも中国製の貨幣が見つかっていますが、その出土状態から、墓の副葬品、祭祀用、金属製品の原料などとして用いられ、貨幣本来の流通はしていなかったと考えらえているようです。

やはり、その存在を知ってはいても、本来の使われ方はしていなかったという事になります。

なぜ使われていなかったのでしょう。

必要無かった

 結論から言うと、必要無かったから使っていなかった、という事なのではないでしょうか。

前々回の記事で、邪馬台国時代のいわゆる「国」について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「国」については、我々が考える国家というようなものでは無く、農耕を背景とした権力が存在する村落共同体といった感じのものだったと考えました。

そういった社会では、文字で記録しておかなければならないほどの情報は無く、経済も物々交換程度のもので事足りていたという事なのでは無いでしょうか。

従って、文字も貨幣も、その存在を知ってはいたが、使う必要性が無かったのです。


 現代の我々が必須だと思っている、文字や貨幣(お金)は、絶対的に必要なものではないのです。もっとも、文字が無いとブログが書けませんが。


ではでは

東遷したのは

邪馬台国の東遷について考えた話です

 

 

前回の話

 前回の話では、魏志倭人伝に数多くの記述がある「国」について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

貨幣経済が普及していたような証拠が発見されていないことから、当時の「国」は、我々が考える国家というようなものでは無く、農耕を背景とした権力が存在する村落共同体といった感じのものだった、という話でした。

卑弥呼は名称こそ女王となっていますが、どちらかといえば、それぞれの村落共同体の権力層による合議体の対外的な代表のような立場だったのではないかという事になります。

邪馬台国の東遷

 一方、本ブログでは邪馬台国について、その位置については九州の宇佐だという立場を採っています。

更に、その後九州から畿内に東遷をし、大和政権となったと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東遷した理由としては、中国での五胡十六国と呼ばれる、動乱の時代が影響したと見ています。

その動乱を避けて、邪馬台国へ亡命してきた人達からもたらされた情報を基に、東遷を決断したのです。

朝鮮半島経由で、動乱が九州にも及ぶことを恐れたという事になります。

この動乱が収まり、再び中国で歴史が記録されるようになったときには、邪馬台国は無くなって(大和政権になって)いました。

これが、いわゆる「謎の4世紀」という訳です。

九州に残った勢力

 「謎の4世期」については、概ねそのような事だと思います。

その中で、邪馬台国がごっそりと畿内に移って、大和政権になったと考えていたわけですが、それとは異なるパターンも有る事に気が付いて記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

畿内に東遷したのは、一部の人々で、九州に残った人たちも少なからずいたのではないかという事です。

その九州に残った勢力が、「広開土王碑文」に記された「倭人」だったのではないか、さらに、中国に朝貢した「倭の五王」もこの勢力の指導者だったのでは無かったかと考えたわけです。

東遷したのは

 この、東遷したのは一部の人達で、多くは九州に残ったのではないかという仮説は、前回の話を前提とすると、納得出来そうです。

動乱を避けて亡命してきた人達のもたらした情報では、村落共同体の権力層を納得させる事は出来なかったという事なのでしょう。

村落共同体は、農耕に、言い換えればその土地に依存していると言えます。

その人々に、土地を捨てて、どうなるか分からない畿内に移る事を納得させることは出来なかったのです。

それに対して邪馬台国は、争いを収めるために作られたものであり、移動することを選択し易かったのかもしれません。

当然、亡命して来た人々は、中国で行われていた中央集権的な制度の知識もある訳で、東遷した後の大和政権のあり方に影響を与えたと考えられます。


 それにしても毎日暑いです。昔は、昼間暑くても、夜になると涼しかったと思うんですけど。


ではでは