白村江の戦いに至るまでについて考えた話です。
前回の話
前回は、遣唐使について考えてみました。
唐の歴史書『旧唐書』には、「倭国」と「日本国」という個別の項目が建てられており、当時の日本に2つの勢力があったことが分かります。
「倭国」は631年から648年までに2回、「日本国」は703年から839年までで7回、それぞれ使者を立てたことが記されています。
したがって、『日本書紀』の648年までの遣唐使に関する記述は、「倭国」からの使者の話を「日本国」からの使者の話にすり替えるための、作り話の可能性が高そうだという話でした。
さらに、「倭国」は九州の勢力、「日本国」は畿内の大和政権と考えると、648年から703年の間にこれら2勢力の間に何かがあって、その結果大和政権が残ったと考えられそうです。
それが「白村江の戦い」に関連して起こったことではないか、というのが今回の話です。
白村江の戦い
「白村江の戦い」は、大和政権が唐・新羅に滅ぼされた百済の再興を助けるために出兵し、朝鮮半島の白村江で大敗してしまったというものです。
その経過を『日本書紀』の記述で見てみます。
660年 百済滅亡の報がもたらされる
日本に居る百済王子の招請及び援軍要請と受諾
661年 斉明天皇崩御 皇太子(後の天智天皇)称制
663年 白村江の戦い
このあたりに関しては、以前から違和感がありました。
なにしろ、途中で天皇が亡くなって、皇太子の称制状態であるにもかかわらず出兵して、負けてしまっているわけです。
王子が滞在しているような関係であったとはいえ、滅亡後の復興を頼まれて、ここまでやるものでしょうか。
斉明天皇は九州で亡くなった
さて、斉明天皇は亡くなってしまったのですが、そのあたりをもう少し詳しく見てみたいと思います。
661年3月 斉明天皇 磐瀬行宮(博多)に着く
661年5月 斉明天皇 朝倉橘広庭宮(朝倉市)に移る
661年6月 伊勢王亡くなる
661年7月 斉明天皇が崩御
661年8月 皇太子喪を行い、磐瀬行宮に返る
661年10月 天王の遺体難波に帰る
斉明天皇は、九州で亡くなったのです。
伊勢王(どのような人物か詳しくは分からないようですが、王ですからそれなりの立場の人物と考えられます)や皇太子もいたようですので、ほぼ政権中枢部が九州まで来ていたことになります。
単に援軍派遣をするためであれば、そこまで必要とは思えないのですが。
九州には別勢力が
ところで、これまでの記事で見てきたように、この時九州には大和政権とは別の勢力がいたはずです。
とすると、上の記述も単に百済への援軍派遣のために九州にやって来たというだけではない、違ったものに見ることが出来そうです。
大和政権が、九州の勢力に戦いを仕掛けたと考えるとどうでしょうか。
大和軍は博多から上陸したのです。
天皇以下中枢部が来ているわけですから、生きるか死ぬかの全面対決と言っていいでしょう。
その司令部として造られたのが磐瀬行宮です。
その後戦線は内陸へ進み、5月には博多から南東に約30キロの朝倉橘広庭宮(朝倉市)に司令部がありました。
そんな中、伊勢王が戦死します。
次いで、斉明天皇も倒れてしまったのです。
その後、称制した皇太子の元、九州の勢力(倭国)を駆逐し、朝鮮半島まで進軍しますが、白村江で一敗地に塗れることになって(海戦でしたが)しまったのです。
次回は、今回の話の背景をもう少し考えてみたいと思います。
ではでは