横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

徐福伝説

 徐福伝説について考えた話です。

 

 

徐福伝説

 徐福伝説と言うものが有ります。

徐福と言う人物が、秦の始皇帝の命を受けて、中国の東方の海に不老不死の薬を探すために出かけたが、結局戻ることは無かったと言う話が、「史記」に書かれているのです。

驚くべきは、3000人の童男童女と百工(技術者)が同道したというのです。

それに符合するかのように、日本の各地に、辿り着いた徐福が住み着き、様々な技術などをもたらしたとする伝承が残っています。

私が知っているだけでも、和歌山県新宮市、熊野、佐賀県佐賀市京都府伊根町に有ります。
その他にも、数十か所の伝承地が有るようです。

徐福が、五穀も持って行ったと言う話が有るので、その時期も含めて、農耕を伝えたのは徐福ではないかという説もあるようです。

どうなんでしょうか。

徐福は実在

 話の出所が「史記」ではあるものの、徐福にまつわる話については、中国でも疑う向きも多かったようです。

そんな中、1982年になって、江蘇省の徐阜村という村が、清朝のころまで「徐福村」と呼ばれていたことが発見されました。
徐阜村には、徐福に関する伝承も残っているようです。

さらに、徐福を先祖とする徐一族の存在も確認されました。

このようなことを背景に、最近では、徐福は実在したとみなされているようです。

勿論、反論も有るようですが。

徐福は日本に来たのか

 日本各地に有る伝承について考えてみましょう。

いずれも、徐福が辿り着いて、住み着いて云々という内容が、昔から伝承されてきた事になっている訳です。
そうだとすると、おかしなことになると思うんですよね。

徐福は、始皇帝に命じられて、やって来たわけですから、秦の時代の人な訳です。
そうすると、紀元前3世紀頃という事になります。

このころ日本は弥生時代であり、明らかに、文字と言うものは有りませんでした。
よって、徐福に関する伝承は、有ったとすれば、口伝だったはずです。

であるならば、「じょふく」という名前が出て来るのは、おかしいのではないでしょうか。

「じょふく」といのは、徐福と言う文字を日本語で読んだもののはずですから、それが、文字の無かった弥生時代からあった訳は無いのです。
ちなみに、徐福を、Google翻訳で発音させると「しーふー」のように聞こえます。
徐福本人が、自己紹介するときに、私は「じょふく」ですと言う事は無かったはずです。

「しーふー」がやって来たというような伝承が有るならばともかく、「じょふく」がやって来たというのはあり得ない訳です。

 徐福が日本に来たのかどうかについては、正確には確認のしようが無いのですが、伝承としてはそのものずばりというものは無かったのだと思います。

大陸から辿り着いた人間がいたといった伝承が有ったところに、
史記」が日本に入って来てから、徐福に関する記述を見て、それを当てはめたという事ではないでしょうか。


 まあそれ以前に、弥生時代に、秦の時代の知識を持った人間が、3000人も来ていたのなら、もうチョット違う歴史が有ったんじゃないかと言うのも有るんですけどね。
少なくとも、文字ぐらいは有ってもよさそうですよね。


 ではでは

縄文から弥生へ

 縄文から弥生への変化について考えた話です。

 

 

征夷大将軍蝦夷

 江戸幕府を治めていたのは、勿論将軍であるが、この将軍の正式な官職名は、良く知られているように「征夷大将軍」である。

意味的には、夷を征伐する大将軍という事になります。
さらに詳しく見ると、ここでいう夷は、蝦夷(えみし)の夷という事になります。

蝦夷とは、大和政権にまつろわぬ人々を呼んだ名称で、「えみし」という呼び名に、蝦夷と言う字を当てたものだと考えられているようです。

その住む地域は、勿論時代によって変わっていくのですが、概ね現在東北地方と呼ばれている地方になります。

言い方を変えると、白河以北と言ってもいいのかもしれません。

蝦夷の字を当てたと書きましたが、その中の夷の字は、中華思想に見られる、「東夷西戎北狄南蛮」の東夷の夷の字を当てたたものだと考えられています。
つまり、都から東に住んでいる、未開の人々という訳です。

当時の政権の支配下で無いだけで、どうしてこのような呼ばれ方をしたのでしょうか。

農耕社会の広がり

 弥生時代に、北九州の地域から始まって、農耕社会が広がっていくわけですが、その遺跡の範囲は、概ね東海地方以西に多く分布しています。

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引用元: 弥生ミュージアム

これは、常識的に考えて、当時の稲作の生産技術では、この辺りまでしか、農耕社会を維持するだけの生産が困難だった結果と思われます。

ただ、東北地方にも全く稲作が無かった訳では無く、いくつかの水田跡も発掘されていますが、面としての広がりは無かったようです。

大和政権と蝦夷

 結局、後に蝦夷とよばれる人たちの住む地域は、弥生時代の農耕社会が入り込むことなく、縄文社会の要素を色濃く残した地域だったという事になります。

この傾向は、古墳時代にも見られ、大規模(120m以上)な前方後円墳は、宮城県福島県の両県までしか見られません。

そして、蝦夷の地との境界に白河の関が作られることになり、その地に住む、まつろわぬ人たちを従わせる役を担ったのが「征夷大将軍」だった訳です。

という訳で、大和政権と蝦夷の関係は、単に時の政権とそれに従わない人達の争いではなく、農耕社会を背景にした権力と、狩猟採集社会を背景にした平等の争いだったのです。


 縄文から弥生に単純に変わった訳では無く、縄文社会の影響は、意外と後世まで続いていたのです。


 ではでは

農耕と弥生時代

 農耕と弥生時代について考えた話です。

 

 

日本での農耕社会

 以前の話で、石器時代に起きた、狩猟採集生活から農耕社会への変化について考えました。

 

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その中で、日本については、自然が豊かであるために、農耕社会への移行が起こり難かったと考えました。
農耕のような労力を必要とするようなことをしなくても、狩猟採集で十分に生活が、しかも定住生活が可能だったからです。

一般的に日本では、弥生時代から、農耕社会が始まったと考えられています。
さらに、上記のような理由や、遺跡などの発掘による研究などから、大陸から九州地方に伝播したと考えらています。

ただし、ここで言っているのは、農耕社会の伝播であり、稲作そのものは、縄文時代にも知られていたようです。

クニの始まり

 前回の記事で、農耕社会の始まりによって権力も生じたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところで、弥生時代は、概ね紀元前1000年ごろから始まったと考えられているようです。
紀元前1000年頃といえば、中国では殷から周に王朝が変わる時代です。

ひょっとしたら、殷から周へと王朝が変わる混乱を避けた集団が、九州にやって来たのかもしれません。
ただし、稲作は中国南部で行われており、北部を中心とした殷、周とは関係ないという説もあるようです。
いずれにしても、その時代に農耕が入って来たという事は、中国では権力システムが確立しているわけで、当然権力層も入ってきたはずです。
農耕の技術を持った人々だけではなく、それを統べる権力システムも同時に入って来たと考えるのが自然だと思います。

そして彼らが定住して、権力システムを中心とした、稲作による集落を形成した。
それを、現代の我々は、クニと呼んでいるわけです。

争いの始まり

 弥生時代の遺跡の調査から、人口が増加していったことが分かっています。
素直に考えれば、稲作による豊富な食料の供給によると考えるのが自然でしょう。

人口が増えれば、さらに土地が必要となります。
結果、クニ同士が争う事になったと思われます。
何しろ、権力側から見れば、自らがコントロール下に置いている土地や、人々、すなわちクニが無くなれば、自らの生存が危ないわけですから。

さらに、中国から来たのであれば、当然戦うための技術も持っていたはずです。

その結果、弥生時代の遺跡からは、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、武器の傷をうけた痕跡のある人骨などの、争いの形跡が数多く見つかています。


 つまり、弥生時代には、農耕だけではなく、権力と争いも日本に入って来たのです。
こうして考えると、倭国大乱は、起こるべくして起こったとも言えるのかもしれません。


 ではでは

 

 

農耕と権力

 農耕と権力の関係に関する話です。

 

 

石器時代は平等

 石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられていると、以前の記事で書きました。

 

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同時に、権力者などのいない、平等な社会であったとも考えられているようです。
これは、埋葬方法に差の無かったことからも、裏付けられると考えられています。

ところで、ここでは、権力を以下のようなものと考えます。

権力とは、一般にある主体が相手に望まない行動を強制する能力である
引用元:権力 - Wikipedia

 

 なぜ平等だったのか

 前述のように権力を定義すると、生活が、狩猟採集によるものである限り、集団の構成員に何かを強制する事は困難だったので、権力は生じなかったのだと考えられないでしょうか。

例えば、誰かが、その他の人たちに、食料を取って来るように強制しようとしても、言われた方は、単に取ってこなければいい訳です。
その行動を強制する方法は、無いように思われます。
そうなれば、強制しようとした方は、自らも食料を調達しない限り、飢えるだけと言う結果になるだけです。
それどころか、平等な社会でそのようなことをすれば、社会から排除される可能性が大です。

という訳で、狩猟採集生活をしていた時代の人々は、我々が考えるような平等主義だったからではなく、生活方法からくる結果としての、平等な生活をしていたという事だったと思われます。

権力の発生

 そんな中で、前の記事で考えたように、次第に農耕技術が発展していくことになり、農耕による生産物を主たる食物とする、農耕社会が発生することになります。

 

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農耕社会では、当然のことながら、農耕による生産物を、貯蔵することに拠り、次の収穫までを乗り切ることになります。
逆に言うと、その生存が、生産物によって制約されるという事になります。

ここに至って、初めて、権力が発生することになったのではないでしょうか。
武力などの力により、貯蔵されている生産物の供給をコントロールすることに拠り、その他の人々に行動を強制することが可能になったと考えられます。
逆らえば、食べられなくなる訳ですから。


 農耕開始により始まったのは、定住ではなく、権力だったのです。


 ではでは

 

農耕社会の始まり方

 農耕社会の始まり方に関して考えてみた話です。

 

 

日本列島の農耕

 日本列島での農耕について、前の記事で、その発展に女性の力が大きく関わったのではないかと考えました。

 

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しかしながら、三内丸山遺跡を始めとする縄文遺跡の出土状況からも分かるように、日本列島では、本格的な農耕社会まで発展することは有りませんでした。

農耕社会の出現は、外部からの導入による、弥生時代の始まりを待たなければなりません。

これはひとえに、日本列島の自然の豊かさに拠るのだと思います。
栗やクルミの植栽などを行っても、主食を作るところまでは行かなかった。
と言うか、作る必要が無い自然の豊かさだったのしょう。

では、日本列島に伝わって来た、農耕社会はどのようにして始まったのでしょうか。

日本列島以外の農耕

 日本列島以外の世界でも、基本的には、日本列島での経過と同様に、定住が最初に来て、その後次第に農耕に進んでいったのだと考えられます。

そうでないと、狩猟採集のために移動していては、結果が出るまでに長い期間掛かる農耕は行い得無かったでしょうからね。

もちろん、発展の主体は、女性だったと思われます。

しかしながら、そういう事が有ったとして、そのまま農耕を中心とした生活に移行したとは思えません。
なぜならば、明らかに、狩猟採集生活の方が、楽だったようだからです。
縄文人は、一日のうち実働4時間で生活していたという説もあるようですから。

農耕社会の始まり

 という事は、狩猟採集では十分な食料が確保でききなくなった時に、農耕による主食の確保が考えられたという事になるでしょう。

一番考え易いのは、気候の変動でしょうか。
寒冷化によって、それまで採れていたものが取れなくなったといったような。

ただし、急激な変動では無かったはずです。
あまりに急激な変動では、農耕による生活に移行する前に、定住そのものが出来なくなってしまうでしょうから。

徐々に減っていく収穫に対応する形で、農耕が拡大していったのではないでしょうか。
そして、最終的に農耕により主食を確保するようになったという事でしょう。

日本列島でも、気候の変動はあったでしょうが、自然の豊かさに厚みが有ったために、農耕を取り入れる程の状況にはならなかったのだと思います。

それに対して、定住生活を送ることが出来ても、それに対する自然の状況に、元々余裕のなかった地域で、農耕社会が発生したのではないかと考えます。


 こう考えると、農耕によって確保できる食料が増えて、人口が増加したといったことはあるかもしれませんが、決して生活が楽になった訳では無いような気がするのですが。


 ではでは

 

定住と農耕の始まり

 定住と農耕の始まりの関係について考えてみた話です。

 

 

三内丸山での定住

 以前の記事で、三内丸山遺跡の話から、日本列島では、農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという話をしました。

 

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普通は、農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったと考えられています。

逆に言えば、農耕をしなくとも、狩猟採集により食料が十分に入手出来れば、定住が可能だという事になります。

三内丸山で定住が行われた当時の日本列島は、そう言った環境に有ったという事でしょう。

栽培も行われていた

 狩猟採集と言っても、単純に自然の恵みに頼っていたわけでは無いようです。

特に採集に関しては、出土状況から、集落の周辺に堅果類(クリ、クルミなど)の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられています。

栗やクルミの木を植えて、採取を効率よくするための手入れの様な事が行われていたようです。
単に効率だけでなく、どんぐりよりも、栗やクルミはおいしいですからね、おいしいものを少しでもたくさん採りたかったという事も有ったかもしれません。

中心は女性だった?

 石器時代の人間が、どのような生活をしていたのかについては、もちろん正確に知る方法は有りません。
多くの場合、現代の世界各地にいる、石器時代から生活が変わっていないと考えられている集団に関する調査結果から、石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられています。

そうであるとすると、三内丸山で、植栽を考え出したのは、女性たちだったと考えられないでしょうか。
力仕事が必要な時には、男性が手伝う事も有ったかもしれませんが、中心的に行ったのは女性だったのだと思います。

現在でも、日頃、家事に関わっていない男性が、家事の効率化に関しては思い浮かべる事さえしない(大体、何が問題かすら分からないですからね)のと同様に、日頃採集作業を行わない男性が、どうやったら、効率良く栗やクルミの収量を増やすことが出来るか、などと考えることは、全くとは言わないまでも極めて少なかったでしょう。

毎日採集を行う中で、より多く、安定して取る方法を、試行錯誤していくことで、植栽にたどり着いたのではないかと思います。

それが、コメや麦などの一年草にも拡大していき、最終的に農耕技術となった。

農耕技術は、定住生活の中で、女性達によって作り出されたのではないでしょうか。


 もっとも、日本列島では、完全な農耕技術に発展する前に(縄文晩期の遺跡には水田遺構もあるようですが)、外部からもたらされて、弥生時代になったようですけどね。


 ではでは

 

 

本能寺の変での光秀の行動

 本能寺の変での、光秀の行動に関する話です

 

 

最大の疑問点

 本能寺の変での光秀の行動の中で、私が、最大の疑問点だと考えるのは、なぜ光秀が、本能寺を攻撃すると同時に、妙覚寺に泊まっていた信忠を襲わなかったのかという事です。

そもそも、前の記事でも書いたように、信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを逃さなかったのが、本能寺の変の原因だと考えた訳です。

 

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であるならば、信長を討ちとることが、最大の目標で有るのはもちろんですが、後継者の信忠を逃しては、決して小さくは無い、後顧の憂いを残すことになってしまいます。ここは、逃げられないように、同時に襲撃するのが最善の策の筈です。

しかし、実際には、光秀が、配下の軍を分け、信忠を討ちに向かわせるようなことはしていないようです。

信忠は、二条御新造に立てこもり、明智軍とたたかった後、最終的に自害をしました。
という事は、宿泊していた妙覚寺から移動する余裕はあった訳で、本能寺と同時に妙覚寺を責めた訳では無いことになります。

これをどう考えたらいいでしょうか。

うっかりした訳では無い

 巷間言われるように、途上で重臣を集め、信長を討つつもりで有ることを打ち明け、それに重臣も従ったのだとして、どうして信忠を同時に襲う事にしなかったのでしょう。
百歩譲って、光秀はうっかりしていたとしても、誰かが進言をしたはずです。
まさか、全員がそれに気が付かなかったという事は、あり得ないでしょう。
信長を討った後すぐに、二条御新造を責めていることからも、うっかり見逃していたわけではなさそうです。

さらに、いかに本能寺が防御も考えられていたとしても、100人単位でしかなかったと考えられている信長とその供回りの人数を考えれば、13000といわれている全軍で攻める必要は無かったはずです。

という事は、軍を二手に分けられない理由があったという事になります。

どんな理由が考えられるでしょうか。

なぜ二手に分けられなかったのか

 光秀は、言われているように重臣に本意を打ち明けていなかったとしたらどうでしょう。
家臣の中から、謀反して、信長に知らせる者が出ることを恐れ(なにしろ、自らが、謀反を起こすつもりなわけですから)、打ち明けることは出来無かったのだと思います。
その代わり、信長からの命により、密かに家康辺りを討つと、騙したのたのではないでしょうか。
そのため、軍を二手に分け、妙覚寺に送ることは、出来なかったのです。
信忠を攻めるのでは、話の辻褄が合わなくなってしまいますからね。

それでも、信忠は放っておくわけにはいかにので、信頼のおける腹心にだけは打ち明けて、その配下を偵察に出していたのではないでしょうか。
それによって、信長を討った後で、素早く二条御新造に攻め寄せることが出来たという訳です。
当然、信長を討った後に、家臣に打ち明けた後だとは思いますが。
信忠が逃げなかったことを、光秀は僥倖だと思ったでしょう。


 以上、私の全くの妄想の域は出ませんが、『本城惣右衛門覚書』やルイス・フロイスの『日本史』にも、こういった事を思わせる内容があるようなので、どんなものでしょうか。


 ではでは

 

 

明智光秀も時代の子

 明智光秀も時代の子だっただけではないかと言う話です。

 

 

麒麟がくる

 今年の大河ドラマが、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」という事で、そのクライマックスとも言える、「本能寺の変」について、見聞きすることが多くなったような気がします。

当然、なぜ光秀が、謀反して信長を討つようなことをして、「裏切り者」とよばれるようになったのか、という内容が多いです。

それに対して、怨念説、黒幕説等様々な説が唱えられています。
中には、光秀が主犯ではないというものまであります。

どうして、ここまで謀反を問題にされ、さらには「裏切り者」呼ばわりまでされなければいけないのでしょう。

光秀が裏切り者ならば

 その「本能寺の変」で討たれた織田信長は、若い頃に、主家である、尾張守護代清洲織田家を滅ぼした上に、自ら擁立した尾張守護・斯波義銀も追放しています。

光秀を主君の仇として討った、豊臣秀吉も、その後、信長の孫の三法師を主君として担ぐが、ご存知のように最終的には、豊臣政権を樹立しています。

その秀吉から、後継者秀頼を、五大老の一人として支えるように頼まれた徳川家康も、大阪夏の陣で、秀頼を自害に追い込んで、自らの政権を確立しています。

という事で、光秀の引き起こした「本能寺の変」も、三英傑が行った事と、それほど掛け離れていた訳ではないのです。
違いと言えば、一夜のうちに、主家の当主と嫡男を、いずれも自害に追い込むといった、劇的な展開であった点だけだとも言えます。

光秀も時代の子

 光秀が、「本能寺の変」で、主君信長に対して謀反をした事をもって、「裏切り者」呼ばわりされるのであれば、三英傑も「裏切り者」と呼ばなければならないですよね。

彼らが行ったことに対して、怨念が有ったからとか、黒幕がいたとかいった話は聞いたことが有りません。

農民出身の人間が、天下を取ることが出来るのが戦国時代です。
天下を狙う事が、そのための下剋上が、荒唐無稽な話では無い時代だったのです。

光秀も、その時代の、いわば常識に従って行動をしただけなのではないでしょうか。

千載一遇のチャンス

 当主の信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを前にした時に、ここが勝負の時だと思ったという事ではないでしょうか。

怨念とか、朝廷との関係、四国長宗我部との関係のような、これまで原因ではないかと考えられてきた事が、決断の後押しをしたという事も有ったかもしれませんが、主たる理由は、光秀も、戦国時代の常識の下で生きていた武将の一人だったという事だったのだと思います。
常に頭の何処かに、天下を取るという事が、あったのでしょう。

それが、裏切り者扱いされることになったのは、ひとえに、「三日天下」とも呼ばれている程すぐに、秀吉に討たれてしまったからでしょう。
歴史は、常に勝者のものな訳です。


 もう少し、彼の天下が長ければ、三英傑の一人は彼だったかもしれません。

麒麟かどうかはわかりませんけど。

 

ではでは
 

幸福度ランキング

 幸福度ランキングから考えてみた話です

 

 

幸福度ランキング

 幸福度ランキングというものが有ります。

国連の持続可能開発ソリューションネットワークという組織が毎年報告しているものです。
各国で幸福度に関してアンケート調査を行い、その平均値の集計結果をまとめたものになります。

ここでいう幸福度は、人生を最悪から最高まで10段階で考えたときの、その時点での自分の段階を答えてもらうというものです。
自分は、今現在幸せだと思うかどうかを、聞いているわけです。

2019年度結果

 昨年2019年度の日本ランキングは、58位でした。
この報告は、21012年から作成されており、日本の最初の順位は44位であり、その後多少の上下は有りますが、昨年の58位まで
概ね下がってきているという状態です。

では、幸福度の高かった国はというと、10位までが次のようになっています。

1. フィンランド
2. デンマーク 
3. ノルウェー 
4. アイスランド 
5. オランダ 
6. スイス 
7. スウェーデン 
8. ニュージランド 
9. カナダ 
10. オーストリア 

一見して分かるように、北欧の諸国が上位に来ています。

何か理由が有るのでしょうか。

北欧諸国の何が

 何をもって幸福と考えるかは、人に拠るので、それで正解がわかるという訳ではないかもしれませんが、それでも、北欧諸国が押しなべて上位に来ているという事実は有る訳で、理由を調べる意味は有るでしょう。

すぐに思い浮かぶのは、北欧諸国はノルディックモデルが採用され、高負担高福祉の福祉国家だという事です。
現在および将来の基本的な生活に、不安が少なければ、幸福感が高くなることも有りそうです。

その他にも、考えられる点は多くあるはずです。

こういう話をすると、良く出て来る議論に、「それは、国の規模が小さいから出来るんだ」と言うものが有ります。

そう、北欧諸国は、比較的小さな国なのです。

上位の国は、人口が比較的少ない

 実は、北欧諸国だけではなく、ランキングの上位の国は、いずれも比較的人口が少ないのです。

1. フィンランド   536万
2. デンマーク   555万
3. ノルウェー   488万
4. アイスランド  320万
5. オランダ    1661万
6. スイス      766万
7. スウェーデン  937万
8. ニュージランド 436万
9. カナダ      3401万
10. オーストリア  839万 

カナダが多いように思えますが、カナダは連邦制であり、英語圏とフランス語圏に分かれており、それぞれの地域を考えると、オランダとさほど違わない規模になります。

大国は幸福度ランキングが高くないというのは、面白い点だと思います。

社会には、適正な規模というものが有るのという事なのでしょうか。
あまり大きくなりすぎると、人間の想像力の範囲を超えるのかもしれません。

連邦制にしてみたら

 ランキングの上位国の状況に加えて、小さな国だから出来るということであるならば、連邦制を考えてみるというのはどうでしょう。

地理的な条件と、歴史的な背景も踏まえて、次のような地域の連邦制を考えます(色々意見は有るでしょうが、ここは一例という事で)。

 北海道
 東北
 関東
 東京
 北陸
 中部
 東海
 大阪
 近畿
 中国
 四国
 九州・沖縄

12地域ですので、単純平均で約1000万人となり、ランキング上位国と同程度となります。

それぞれの地域に分けると、産業がとか、財政がとか、色々と考えるべき点はあるとは思いますが、それは、ランキング上位の国でも同じ事な訳ですから。

それよりも、小さなことからくる機動性の良さで、色々と出来ることは有るはずです。


 人口の面からだけで連邦制を考えてみましたが、北から南まで変化に富んでいる日本では、全国一律の政策運用よりも、いいような気がするんですけど。


ではでは

 

 

 

三内丸山遺跡と農耕と定住

 三内丸山遺跡から、農耕と定住について考えた話です。

 

 

彼が去年行ったのは

 年初の記事で、知り合いが古代史好きだと分かったと言う話をしましたが、その発端は、彼が、昨年、三内丸山遺跡に行ってきたと言う話をしたことに拠ります。

三内丸山遺跡は、縄文遺跡なので、古代史よりも古いわけですが、それに絡んで、色々と話しているうちに、古代史にも興味を持っていることが分かった訳です。

三内丸山遺跡は、かねがね一度行きたいと思っているんですが、いまだ果たせないでいます。
そのため、やっかみ半分で、三内丸山遺跡についても色々と盛り上がりました。

で、帰り道で、そうか、三内丸山遺跡は定住跡なんだと、いまさらながらに思い至ったのです。

三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、ご存知のように、青森県にある縄文時代の住居跡の遺跡です。

縄文時代の住居跡と言っても、数家族程度が竪穴式住居を作って住んでいたといったものではなく、高床式倉庫、大型の竪穴式住居(集会用?)や大型掘立柱建物(祭祀用と考えられているようです)などが有る、広大な遺跡となっています。

 

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引用元:三内丸山遺跡 -日本最大の縄文集落-|青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government

 

居住者は数百人規模だと考えられているようで、これはもう立派な村落と言っていいでしょう。

さらに驚きなのは、その居住が、今から約5900年前~4200年前の、1700年間にわたって続いていたという点です。

もちろん、縄文時代の三内丸山で農耕は行われていませんでした。(栗の木の植栽などは行われていたようですが。)

農耕と定住

普通、農耕と定住の関係は次のように考えられていると思います。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。
引用元:農耕 - Wikipedia

農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったという訳です。
私も、漠然とそんな風に考えていました。

しかし、三内丸山では、農耕とは関係なく、1700年間も定住が行われていたわけです。
しかも、家族・親族単位よりもはるかに大きな規模で。

少なくとも、日本列島では、農耕の開始よりも、定住の開始の方が早かった訳です。
農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという事になります。


 定住と、農耕それぞれの始まりについて考えてみるのも、面白いかもしれません。


 ではでは

素粒子理論と相対性理論

 素粒子理論と相対性理論の関係から、相対性理論について考えた話です。

 

 

神の数式

 NHKBSで「神の数式 完全版」という番組を見ました。

素粒子理論の発展の過程をまとめた番組です。
「神の数式」とは、素粒子理論により導出された、理論式を指しています。
この式により、宇宙に有る全ての物質について説明を出来ると考えられていることから、番組の中では、「神の数式」と呼んでいます。

現在までのところ、その理論により予言される最後の粒子である、ヒッグス粒子が2012年に発見され、その理論の確からしさが証明された形に成っています。
ちなみに、ヒッグス粒子の存在を提唱したヒッグス博士は、2013年のノーベル物理学賞を受賞しています。

ここまでが、番組の前半部分となります。

相対性理論との関係

 後半部分では、相対性理論との関係から、この「神の数式」の更なる修正の過程が描かれます。

素粒子理論と相対性理論は、別個に発展してきた理論です。
大まかに言うと、物質世界を原子や電子、さらにはそれよりも小さな構造の方から理論化したのが素粒子理論で、星や銀河などの大きな構造の方から理論化したのが、相対性理論という事になるかと思います。

その両者が接点を持ったのが、ブラックホールです。
ブラックホールは、相対性理論から導き出された天体です。
非常に大きな質量を持った星が最後を迎えたときに、その重みにより縮んで行きます。
どんどん縮んでいき、最終的には一点にまで縮んでしまいます。
これがブラックホールです。
一点に膨大な質量が集まるため、重力が非常に大きくなり、光さえも飛び出せなくなってしまうので、黒く見える(見えない?)のでブラックホールという訳です。

ところで、一点に集まるという事は、全ての物質の間の距離が無くなるという事です。
そうすると、引力は距離の二乗に反比例する訳ですから、その点での引力は、0の二乗で除することになり、無限大になってしまいます。
まあ、ありていに言えば、よくわからないという事です。

無限個の無限大

 そこで、一点と言う極小の話なのだから、小さな構造の方から理論化された、素粒子理論を組み合わせれば、説明できるんじゃないかと考えられました。

しかし、計算を行ってみると、やはり無限大が、それも無限個の無限大が出て来るという結果になってしまいました。

その後、色々な試みがなされ、一つの理論が考え出されます。
簡単に言うと、一点に集まると考えると無限大が出て来るのだから、一点に集まらないとすればいいという訳です。
具体的には、ひもの輪のようなものを考えます。
これを「超弦理論」と言います。

その後、その他の不都合を説明するために、紐で出来た膜と考えるべきだとか、云々、現状の到達点が示されて番組は終わります。

説明できないのは相対性理論

 ここまで読んでチョット変だなという気がしませんでしたか。

もともと、ブラックホールは、相対性理論から導き出されたものでした。
その最後の状態を説明出来なかったのも相対性理論でした。

さらに、相対性理論に関しては、以前の記事で書いたように、他にも説明できない観測結果が出て来ています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

つまり、現実との間に齟齬が生じているのは、素粒子理論ではなく、相対性理論という事になります。

であるならば、新たな理論や一部修正を考えるのは、素粒子理論ではなく相対性理論ではないかと思うんですよね。


 やはり、早く出てこい、21世紀のアインシュタインでしょうか。


 ではでは
 

 

 

 

魏志倭人伝の里程

 魏志倭人伝の里程についての話です。

 

 

知り合いの疑問

 正月休みには、日頃会えない人達とも会えたりするわけですが、その中の一人が、実は古代史好きだと分かって、話が盛り上がりました。

で、私は、ここぞとばかりに、邪馬台国の話をしたわけです。
チョット話は逸れますが、ブログに一回書いているせいで、話が整理されているので、立て板に水とは言わないまでも、特に何も参照することなく話せるので、驚かれたりしました。
やはり、インプットだけでは無く、アウトプットが重要だなと。

それはともかく、彼が引っ掛かったのが、朝鮮半島から海を渡って、対馬壱岐と来て、九州の末廬国に渡る訳ですが、その末廬国を、宗像市のあたりだとした点でした。

彼は、どちらかと言うと、熊本辺りに邪馬台国が有るという説を取っているようで、末廬国は壱岐から南に渡って、東松浦半島辺りに上陸したんじゃないかと考えているようようです(まあ、普通はそう考えるわけですが)。

それに対して私は、壱岐から東松浦半島だと、1000余里とするには距離が近いんじゃないかと思うと言いました。

海の上だから、そこまで正確な距離は測れないだろう、と言うのが彼の意見でした。

以上の話に対する私の意見と、その後に検討した結果が、この記事という訳です。

ちなみに、私の邪馬台国の位置に関する説に関しては、この記事でどうぞ。

 

yokositu.hatenablog.com

 

里数は概ね正しい

 大前提として、魏志倭人伝中の里数に関しては、概ね正しいと考えます。
GPSなど無かったわけですから、現代の基準から考えれば正確な距離では無かったかもしれませんが、それなりのものはあっただろうと思うのです。

例えば、朝鮮半島から九州へ渡るまでの航海は、全て「海を渡る1000余里」と記されています。
これに関して、よく、海の上で測れるわけがないので(彼と同じです)、キリ良く1000余里としたというような考え方が有ります。

しかしですよ、航海ですから、当然船を使ったわけですが、その時に、使者の一行だけで行った訳ではなく、当然それを生業としており、そのあたりの海域を行き来している船乗りに頼ったはずですよね。
その船乗りたちが、距離も分からずに航海するはずも無く、大まかな距離は把握していたはずです。
狗邪韓国から対馬国対馬国から一大国、一大国から末廬国は全て同じぐらいの距離で、1000里ぐらいだ、と言った感じで。

それを聞き取って、報告書を書いたと思うんですよね。
加えて、当然陸上では、それなりに分かる訳ですから。
それが魏志倭人伝

原文
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北は、その戸数、道里の略載が可能だが、その他の旁国は遠く隔(絶)たっており、詳しく得ることができない。

という表現になったのだと思います。

地図に当てはめると

 改めて、邪馬台国への旅程を、示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

以前の記事で、投馬国までと、邪馬台国までの旅程に関しては、作者陳寿により、改ざんされていると考えました。
そのため、距離に関しては、里数でなくなっています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そこで、ここでは、不弥国までの旅程について考えることにします。

先ず、海上を移動している、末廬国までの行程を、Googleマップ上に入れてみました。

f:id:t_arata:20200106210144p:plain

この経路をGoogleマップの距離測定機能で測ると、赤系で示した、狗邪韓国から末廬国までの航路は、それぞれ70数キロになります。
これが1000余里という訳です。

それに対して、帯方郡から狗邪韓国までの青色の経路は、同様に測定すると500キロ強であり、7000余里という表現に矛盾しません。

ちなみに、壱岐から東松浦半島までは、約30キロです。

という事で、この方法から求められた1里の距離は、70数メートルという事になり、いわゆる「短里」という事になります。

この値を、末廬国から不弥国までの里数に当てはめた上で、方角も考慮して引いてみた(赤系の線)のが、次のGoogleマップです。

f:id:t_arata:20200106210355p:plain


これで距離、方向は、
  赤     約35キロ 末廬国から伊都国 東南へ500里 
  オレンジ  約8キロ  伊都国から奴国  東南へ100里 
  ピンク   約8キロ  奴国から不弥国  東へ100里
と、矛盾の無いものになります。


 以上、距離に関しては、結構精度が出たと思っているんですが。


 ではでは

 

ギザの三大ピラミッドの内部空間

 ギザの三大ピラミッドの内部空間の違いから、大回廊の役割に関して考えた話です。

 

 

ギザには三つのピラミッドが有る

 ここ最近、シンクロニシティという程ではないですが、続けざまに、テレビでピラミッドを扱った番組をいくつか見ました。

それらの番組を見ている中で、いまさらながらに思い出したことが有りました。

それは、ギザには、クフ王のピラミッド以外にも、二つのピラミッドが有るという事です。

それはもちろん、メンカウラー王カフラー王のピラミッドで、クフ王のピラミッドと合わせて、ギザの三大ピラミッドと呼ばれているのは、ご存知の通りです。

何をいまさらと思われるでしょうが、そういえば、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドの内部については、あまり聞いたことが無いなと思ったわけです。

二つのピラミッドの内部空間

 調べてみると、現在までに発見されている内部空間はそれぞれ次のようになっているようです。

先ずメンカウラー王から

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 引用元:第15回 ピラミッドに新たな「未知の空間」の発見[後編] | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

点線部分がピラミッドの本体部分です。
つまり内部空間は、ほぼ地下に有るという事になります。

次にカフラー王です。

f:id:t_arata:20191230220221j:plain

 引用元:同上

同じように点線部分がピラミッド面になります。
やはり、内部空間は、ほぼ地表面より下に有ることが分かります。

いずれも、クフ王のピラミッドとは違って、ピラミッド本体の内部には、大回廊のような、大きな内部空間は見つかっていないようです。

大回廊が無い意味

 では、なぜ二つのピラミッドに大回廊が無いのか。

以前、クフ王のピラミッドに関して、その謎の空間に関して記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その中で、大回廊は王の間の石材を、謎の空間の正体は、もう一つの大回廊で、重力軽減の間の石材を運び上げるのに、それぞれ使ったものではないかと言う話をしました。

その大回廊が、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドに見られないという事は、この説を補強していると考えられないでしょうか。
なぜなならば、この事は、大回廊が必ずしもピラミッドに必須の構造ではないことを示していると考えられるからです。

三大ピラミッドを作った、三人の王は、親、子、孫の関係に有るようなので、その三代の間に、宗教や死生観に大きな変化があったとは思えず、それによりピラミッドの設計が変わり、大回廊が無くなったという事は考えにくいです。
つまり、大回廊が、宗教的な儀式用とか、または死生観に従って魂の通るためなどの、ピラミッドに必須の構造だというようなことは無いと思われます。

クフ王のピラミッドで、王の間や重力軽減の間の材料の巨大な石を引っ張り上げるのに使ったのが、大回廊であるならば、いずれも内部空間が地表面以下に有る二つのピラミッドには、石を引っ張り上げるための大回廊は必要なかったという事ではないでしょうか。


 とはいえ、二つのピラミッドの本体内部にも、見つかっていない空間が有るかもしれません。
ぜひ、この二つのピラミッドも、クフ王のピラミッドと同様に、宇宙線を利用した調査を行っていただきたいです。


 ではでは、良いお年をお迎えください。

プログラミング言語のトライアル

 新たなプログラミング言語の学習に、こんなのはどうでしょうという話です。

 

 

実行環境の導入が面倒

 以前の記事で、プログラミングは好きだけれども、コーディングが面倒という話をしました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日頃使っているものでもこうなんで、最近は、別な言語に興味を持っても、学習以前に、実行環境を導入するのが面倒だったりします。
もはや、これが年を取るという事か状態な訳ですが。

そんな中、実行環境を導入しなくても、コードを実行できるWEBサイトに行き当たりました。

codepad

 codepadというサイトです。

codepad.org

リンク先は、次のようなものとなっています。

f:id:t_arata:20191226205704p:plain


一見して分かる、非常にシンプルなインターフェースとなっています。

説明するまでも無いようなものですが、一応説明させてもらうと。

左のリストから言語を選択して、テキストボックス内にコードを入力の後、「Submit」ボタンを押すと、コードを実行して、結果を表示してくれるという分かりやすいものです。

例として、Cでやってみたのが次の画像です。

f:id:t_arata:20191226204629p:plain

 

ただし、どうも裏でコンパイラの処理系を動かしているようで、単独の文のみの実行の確認は出来ず、コンパイル時にエラーとなるようなものは、エラーになるようです。

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実行環境がいらないので

 とはいえ、これで、プログラミング言語そのものを学習する前に、実行環境の構築に関するあれこれを学習しなければならないという、良くありがちなジレンマからは解放されます。

後は、書籍なり、ネット上のチュートリアルなりを用意して、出て来るコーディング例を打ち込みながら、読んでいけばいいわけです。
プログラミング言語の学習も、言語と呼ばれているからには、外国語の学習と同じで、インプットだけでなく、アウトプットが重要ですからね。


 私自身は、以前から気になっていたLispの方言とも言える、Schemeが有るので、チョット取り組んでみようかなと思っています。


ではでは

 

 

 

 

 

足立美術館と美

 足立美術館から、美について考えた話です

 

 

人気の美術館

足立美術館という、島根県に有る美術館の話をテレビで見ました。

美術館に行ったりすることがあまりない人間なので、全く知らなかったのですが、最近、国内はもとより、海外からもお客が来ているようで、ミシュランでも三ツ星を獲得しているようです。

見て驚いたのが、この美術館で有名なのが、その収蔵品(横山大観のコレクションは100点以上あるようです)ではなく、その敷地内に有る日本庭園だという事です。

しかも、その日本庭園が、一つではなく六つに分かれ、面積5万坪に及ぶらしいです。

このような特異な美術館は、どのようにして作られたのでしょうか。

足立美術館

足立美術館は、実業家・足立全康が、そのコレクションを基に、1970年に開館したものとなっています。

そのホームページを見ると、日本庭園がある理由については、次のように説明されています。

「名園と横山大観コレクション」すなわち日本庭園と日本画の調和は、当館創設以来の基本方針であります。それは、日本人なら誰でも分かる日本庭園を通して、四季の美に触れていただき、その感動をもって横山大観という、日本人なら誰でも知っている画家の作品に接することで、日本画の魅力を理解していただきたい。そして、まず大観を知ることによってその他の画家や作品に興味を持っていただき、ひいては日本画の美、すなわち「美の感動」に接していただきたいという、創設者 足立全康(あだちぜんこう)の強く深い願いがあってのことなのです。

つまり、日本庭園と日本画を同時に見ることに拠り、日本画がいかに自然の美しさを写し取っているかを見てほしいと考えた訳です。

にもかかわらず、テレビなどで紹介されるのは、専らその日本庭園の素晴らしさと言う状況です。
残念ながら、贔屓の引き倒しのような状況になっているわけです。

これは、ど素人が無責任に言わせていただくと、いかに技を尽くそうとも、自然を写そうとしたものは、しょせん自然の美しさには敵わないという事ではないでしょうか。

私の考える美

私は、以前のストラディバリウスの記事でも書いたように、芸術的センスはほとんどないのですが、物の美しさという事については、個人的な考えを持っています。

美術品は、美の術の品と書くぐらいなので、美しくなければならない訳です。
まあ、見る人がいてこそのものなので、各人が美しいと思えば、美術品だといっても、間違いではないでしょうけど。
それでも、自然にあるものを題材にしているものは、結局題材の美しさには及ばないのでは無いか。

であるならば、自然に無い美を作り出してこその美術ではないかなと思っているのですが。

機械や道具に見られる機能美は、そういったものの一例かなと。


 理系人間が、美術品の美について、屁理屈をこねてみました。


ではでは