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本能寺の変での光秀の行動

 本能寺の変での、光秀の行動に関する話です

 

 

最大の疑問点

 本能寺の変での光秀の行動の中で、私が、最大の疑問点だと考えるのは、なぜ光秀が、本能寺を攻撃すると同時に、妙覚寺に泊まっていた信忠を襲わなかったのかという事です。

そもそも、前の記事でも書いたように、信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを逃さなかったのが、本能寺の変の原因だと考えた訳です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

であるならば、信長を討ちとることが、最大の目標で有るのはもちろんですが、後継者の信忠を逃しては、決して小さくは無い、後顧の憂いを残すことになってしまいます。ここは、逃げられないように、同時に襲撃するのが最善の策の筈です。

しかし、実際には、光秀が、配下の軍を分け、信忠を討ちに向かわせるようなことはしていないようです。

信忠は、二条御新造に立てこもり、明智軍とたたかった後、最終的に自害をしました。
という事は、宿泊していた妙覚寺から移動する余裕はあった訳で、本能寺と同時に妙覚寺を責めた訳では無いことになります。

これをどう考えたらいいでしょうか。

うっかりした訳では無い

 巷間言われるように、途上で重臣を集め、信長を討つつもりで有ることを打ち明け、それに重臣も従ったのだとして、どうして信忠を同時に襲う事にしなかったのでしょう。
百歩譲って、光秀はうっかりしていたとしても、誰かが進言をしたはずです。
まさか、全員がそれに気が付かなかったという事は、あり得ないでしょう。
信長を討った後すぐに、二条御新造を責めていることからも、うっかり見逃していたわけではなさそうです。

さらに、いかに本能寺が防御も考えられていたとしても、100人単位でしかなかったと考えられている信長とその供回りの人数を考えれば、13000といわれている全軍で攻める必要は無かったはずです。

という事は、軍を二手に分けられない理由があったという事になります。

どんな理由が考えられるでしょうか。

なぜ二手に分けられなかったのか

 光秀は、言われているように重臣に本意を打ち明けていなかったとしたらどうでしょう。
家臣の中から、謀反して、信長に知らせる者が出ることを恐れ(なにしろ、自らが、謀反を起こすつもりなわけですから)、打ち明けることは出来無かったのだと思います。
その代わり、信長からの命により、密かに家康辺りを討つと、騙したのたのではないでしょうか。
そのため、軍を二手に分け、妙覚寺に送ることは、出来なかったのです。
信忠を攻めるのでは、話の辻褄が合わなくなってしまいますからね。

それでも、信忠は放っておくわけにはいかにので、信頼のおける腹心にだけは打ち明けて、その配下を偵察に出していたのではないでしょうか。
それによって、信長を討った後で、素早く二条御新造に攻め寄せることが出来たという訳です。
当然、信長を討った後に、家臣に打ち明けた後だとは思いますが。
信忠が逃げなかったことを、光秀は僥倖だと思ったでしょう。


 以上、私の全くの妄想の域は出ませんが、『本城惣右衛門覚書』やルイス・フロイスの『日本史』にも、こういった事を思わせる内容があるようなので、どんなものでしょうか。


 ではでは