定住と農耕の始まりの関係について考えてみた話です。
三内丸山での定住
以前の記事で、三内丸山遺跡の話から、日本列島では、農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという話をしました。
普通は、農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったと考えられています。
逆に言えば、農耕をしなくとも、狩猟採集により食料が十分に入手出来れば、定住が可能だという事になります。
三内丸山で定住が行われた当時の日本列島は、そう言った環境に有ったという事でしょう。
栽培も行われていた
狩猟採集と言っても、単純に自然の恵みに頼っていたわけでは無いようです。
特に採集に関しては、出土状況から、集落の周辺に堅果類(クリ、クルミなど)の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられています。
栗やクルミの木を植えて、採取を効率よくするための手入れの様な事が行われていたようです。
単に効率だけでなく、どんぐりよりも、栗やクルミはおいしいですからね、おいしいものを少しでもたくさん採りたかったという事も有ったかもしれません。
中心は女性だった?
石器時代の人間が、どのような生活をしていたのかについては、もちろん正確に知る方法は有りません。
多くの場合、現代の世界各地にいる、石器時代から生活が変わっていないと考えられている集団に関する調査結果から、石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられています。
そうであるとすると、三内丸山で、植栽を考え出したのは、女性たちだったと考えられないでしょうか。
力仕事が必要な時には、男性が手伝う事も有ったかもしれませんが、中心的に行ったのは女性だったのだと思います。
現在でも、日頃、家事に関わっていない男性が、家事の効率化に関しては思い浮かべる事さえしない(大体、何が問題かすら分からないですからね)のと同様に、日頃採集作業を行わない男性が、どうやったら、効率良く栗やクルミの収量を増やすことが出来るか、などと考えることは、全くとは言わないまでも極めて少なかったでしょう。
毎日採集を行う中で、より多く、安定して取る方法を、試行錯誤していくことで、植栽にたどり着いたのではないかと思います。
それが、コメや麦などの一年草にも拡大していき、最終的に農耕技術となった。
農耕技術は、定住生活の中で、女性達によって作り出されたのではないでしょうか。
もっとも、日本列島では、完全な農耕技術に発展する前に(縄文晩期の遺跡には水田遺構もあるようですが)、外部からもたらされて、弥生時代になったようですけどね。
ではでは