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三内丸山遺跡と農耕と定住

 三内丸山遺跡から、農耕と定住について考えた話です。

 

 

彼が去年行ったのは

 年初の記事で、知り合いが古代史好きだと分かったと言う話をしましたが、その発端は、彼が、昨年、三内丸山遺跡に行ってきたと言う話をしたことに拠ります。

三内丸山遺跡は、縄文遺跡なので、古代史よりも古いわけですが、それに絡んで、色々と話しているうちに、古代史にも興味を持っていることが分かった訳です。

三内丸山遺跡は、かねがね一度行きたいと思っているんですが、いまだ果たせないでいます。
そのため、やっかみ半分で、三内丸山遺跡についても色々と盛り上がりました。

で、帰り道で、そうか、三内丸山遺跡は定住跡なんだと、いまさらながらに思い至ったのです。

三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、ご存知のように、青森県にある縄文時代の住居跡の遺跡です。

縄文時代の住居跡と言っても、数家族程度が竪穴式住居を作って住んでいたといったものではなく、高床式倉庫、大型の竪穴式住居(集会用?)や大型掘立柱建物(祭祀用と考えられているようです)などが有る、広大な遺跡となっています。

 

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引用元:三内丸山遺跡 -日本最大の縄文集落-|青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government

 

居住者は数百人規模だと考えられているようで、これはもう立派な村落と言っていいでしょう。

さらに驚きなのは、その居住が、今から約5900年前~4200年前の、1700年間にわたって続いていたという点です。

もちろん、縄文時代の三内丸山で農耕は行われていませんでした。(栗の木の植栽などは行われていたようですが。)

農耕と定住

普通、農耕と定住の関係は次のように考えられていると思います。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。
引用元:農耕 - Wikipedia

農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったという訳です。
私も、漠然とそんな風に考えていました。

しかし、三内丸山では、農耕とは関係なく、1700年間も定住が行われていたわけです。
しかも、家族・親族単位よりもはるかに大きな規模で。

少なくとも、日本列島では、農耕の開始よりも、定住の開始の方が早かった訳です。
農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという事になります。


 定住と、農耕それぞれの始まりについて考えてみるのも、面白いかもしれません。


 ではでは